周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

洞雲寺文書32

   三二 洞雲寺登懌申状案    ○東大影写寫本ニヨル

 

 (端裏書)

 「元就様御奉行中  元久

         赤河源左衛門尉殿 御披露    洞雲寺」

 

 態以使僧申候、仍當寺之儀厳島[    ]公方様之御位牌并二親之位牌

 被立置候間、不諸寺家前々諸役等無之候、然間此比 大内屋形

         (陶)          (毛利)

 様代々之御判形并晴賢判形次第、於櫻尾 元就隆元備上覧、代々之證文等

                (元就・隆元)(吉川)(熊谷)

 依明鏡諸点役免許之判形、従父子様元春信直爲御取續給候

      (桂)

 従去々年元澄櫻尾在城候て、万端無理非道之子細雖申候、御陣中之事

 候間、指捨諸事元澄存分相極候、乍去只今者爰元無為罷成候間、従前々

 可姿之由存候處、結句今月三日元澄爲使者田坂藤兵衛尉方寺家へ越候て、

 父子様之判形入間敷候、可飛脚人足候由數ケ度雖催促候、父子様之判形

             (友田)

 詳候上不領掌候處、興藤寄進之地東光寺看坊被出百姓等打果

 由候て、雖押懸、百姓等能々取退候て不覚無之候、于今百姓等屋地

 不案堵候、愚僧恥辱不之候、乍去元澄被御判形之旨上、拙老

 不存分候、父子様之御存分承候て可覚悟候、如此之儀去五日 隆元

                             元久・元保)

 様へ致注進候處、従前々之判形之辻少も相違有間敷之由、赤河両人江被

 渡、従両奉行奉書候、軈而櫻尾へ彼奉書持候處、役人衆無取續候之条

 元澄于今無領掌候而、去十六日又同廿二日東光寺看坊百姓等彼屋地ニ叶間敷

 之由、頻被申候之間、爰元致落着候様被御分別、元澄方へ可然様 

 被仰出候者、可過當分、急度御披露可祝着候、結句同廿八日晩入

 部候、不是非候、

 一従 父子様給候永興寺領之屋敷、四屋敷従去々年元澄雖押領候、兎角

  只今迄者自寺家申候、

 一數代當寺末寺修月寺屋敷廿日市之雖御座候、去々年迄者醫師常倫ニ預ケ申

  候、是茂押領候、

 一平良庄内當寺領壹段御座候、是も押領候、

 一於此表此之儀百千万御座候、神領僧俗内々侘言無申斗候、於御不

  審者、爰元従前々之案内者、可御尋候、

 一先日如申候、當寺領従去々年三町六段相違仕候、是者宍戸殿并荒木方押

  領候、

 右此条々、彼以一通然様御披露奉頼候、

 一元就父子様之判形、元春信直爲御取續給候、案文爲御披見持進候、早々

  被御分別候様御申奉頼存候、従 隆元様三ケ度前々之判形相

  違有間敷之由候て、御状奉書使者給候、爲御心得此之儀申述候、恐々謹

  言、

(弘治二年)(1556)

 七月晦日

 元就様御奉行中

        赤河左衛門尉殿 御披露

 

 「書き下し文」

 態と使僧を以て申さしめ候ふ、仍て當寺の儀厳島[   ]公方様の御位牌并に二親の位牌を立て置かれ候ふ間、諸寺家に準ぜず前々より諸役等之無く候ふ、然る間此の比 大内屋形様代々の御判形并に晴賢判形の次第、櫻尾に於いて 元就・隆元の上覧に備ふ、代々の証文等明鏡たるにより諸点役免許の判形を、父子様より元春・信直を御取り続ぎとして給はり候ふと雖も、去々年より元澄櫻尾に在城し候ひて、万端無理非道の子細を申され候ふと雖も、御陣中の事に候ふ間、諸事を指し捨て元澄の存分相極まり候ふ、去りながら只今は爰元無為に罷り成り候ふ間、前々よりの姿に為るべく候ふ處、結句今月三日元澄の使者として田坂藤兵衛尉方寺家へ越し候ひて、父子様の判形を入るまじく候ふ、飛脚人足を出すべく候ふ由数ケ度催促し候ふと雖も、父子様の判形に詳らかに候ふ上領掌致さず候ふ處、興藤寄進の地東光寺看坊百姓らを逐ひ出され打ち果たすべきの由候ひて、押し懸けられ候ふと雖も、百姓らよくよく取り退き候ひて不覚之無く候ふ、今に百姓らの屋地安堵致さず候ふ、愚僧の恥辱之に過ぎず候ふ、去りながら元澄御判形の旨に背かるるの上、拙老存分に能はず候ふ、父子様の御存分を承り候ひて覚悟致すべく候ふ、此くのごときの儀去んぬる五日 隆元様へ注進致し候處、前々の判形の辻より少しも相違有るまじきの由、赤河両人へ仰せ渡され、両奉行より奉書を預かり候ふ、軈て櫻尾へ彼の奉書を持ち候ふ處、役人衆取り續ぎ無く候ふの条元澄今に領掌無く候ひて、去んぬる十六日又同廿二日東光寺看坊百姓ら彼の屋地に叶ふまじきの由頻りに申され候ふの間、爰元落着致し候ふ様御分別を成され、元澄方へ然るべき様 仰せ出され候はば、過当の分たるべし、急度御披露祝着たるべく候ふ、結句同廿八日の晩に入部し候ふ、是非に能はず候ふ、

 一つ、父子様より給はり候永興寺領の屋敷、四つの屋敷去々年より元澄押領候ふと雖も、兎角只今までは寺家より申さず候ふ、

 一つ、数代当寺末寺の修月寺屋敷廿日市の御座候ふと雖も、去々年までは医師常倫に預け申し候ふ、是も押領し候ふ、

 一つ、平良庄内当寺領一段御座候ふ、是も押領し候ふ、

 一つ、此の表に於いて此くのごときの儀百千万御座候ふ、神領の僧俗内々に侘び言申すばかり無く候ふ、御不審に於いては、爰元前々よりの案内は、御尋ね成さるべく候ふ、

 一つ、先日申し候ふごとく、当寺領去々年より三町六段相違仕り候ふ、是は宍戸殿并に荒木方押領し候ふ、

 右此の条々、彼の一通を以て然るべき様御披露頼り奉り候ふ、

 一つ、元就親子様の判形、元春・信直直に御取り続ぎとして給はり候ふ、案文御披見のため持ち進らせ候ふ、早々に御分別成され候ふ様御申し頼り存じ奉り候ふ、隆元様より三ケ度に及び前々の判形相違有るまじきの由候ひて、御状奉書使者給はり候ふ、御心得のため此くのごときの儀申し述べ候ふ、恐々謹言、

 

 「解釈」

 とくに使僧を遣わして申し上げさせます。さて、当洞雲寺のことですが、厳島神主が建立し、公方様のご位牌や神主宗親の両親の位牌を立て置いておりますので、その他の寺院に準ぜず、以前から諸役等は賦課されておりません。そうしているうちに、この頃、大内屋形様代々の御証文や陶晴賢の証文のすべてを、桜尾城で元就・隆元にご覧に入れた。代々の証文などは明白であるので、諸点役免除の証文を、元就・隆元父子様から、吉川元春熊谷信直をお取次としていただきました。ですが、一昨年から桂元澄が桜尾城に在城しておりまして、すべてのことで無理非道の要求を申し上げなされましたが、御陣中のことでございましたので、我々洞雲寺は諸事を捨て置き、すべて元澄の思いどおりになってしまいました。しかしながら、現在はこちらも無事になりましたので、以前からの状態に戻るべきですが、結局今月三日に元澄の使者として田坂藤兵衛尉方が洞雲寺へやってきまして、「父子様の証文を受け入れるつもりはありません。飛脚の人足を出すべきです」、と数回桂元澄は催促しましたが、父子様の免除の証文に詳しいうえは、洞雲寺として承諾いたしませんでした。そうしたところ、友田興藤の寄進地(もと東光寺領)の百姓らを、東光寺の看坊が追い出しなされ、討ち果たすつもりで、押し掛けなさいましたが、百姓らは慎重に逃亡しまして、ひどい事態にはなりませんでした。今も百姓らの屋地は安堵されておりません。私にはこのうえない恥辱です。しかしながら、元澄が父子様の証文の内容に背いたうえは、私の思いどおりにすることはできません。元澄は、父子様のご意向を了承しまして、諦め申し上げるべきです。このような件について、去る五日隆元様へ注進致しましたが、前々からの証文の結果と少しも相違があってはならない、と奉行の赤川元久・元保両人へご命令になり、両奉行から奉書を預かりました。そのまま桜尾城への奉書を持ち込みましたが、役人衆が取り次いでくれなかったので、元澄は現在も承諾しておりません。そして、去る十六日と二十二日に東光寺の看坊は、百姓らが自分たちの屋地に戻ることは叶うはずもない、と頻りに申し上げなさるので、この件については決着したものとご判断をなされ、元澄方へ適切にご命令くだされば、このうえなくありがたいご処分です。急いで元就様にご披露くだされば喜ばしいことでございます。結局、今月二十八日の晩に、我ら洞雲寺はもと東光寺領に入りました。やむを得ないことでした。

 一つ、父子様からいただいた永興寺領の屋敷のうち、四つの屋敷は一昨年から元澄が押領しておりますが、あれこれとあり、ただ今まで寺家から訴え申しておりません。

 一つ、数代の間洞雲寺の末寺である修月寺の屋敷が廿日市にありますが、一昨年まで医師の常倫に預け申しておりました。これも押領されております。

 一つ、平良庄のうち当寺領一段があります。これも押領されております。

 一つ、この辺りにおいて、このような押領の件は数え切れないほどあります。厳島社領の僧侶や俗人が密かに窮状を訴えてきていることは、申すまでもないことです。御不審であれば、こちらの以前からの事情を、お尋ねになるべきです。

 一つ、先日申しましたように、当寺領は一昨年から三町六段分を押領されております。これは宍戸殿と荒木方が押領しております。

 右の件は、この一通の申状をもって適切にご披露なさいますよう頼み申し上げます。

 一つ、元就・隆元様の証文を、元春・信直のお取次としていただきました。その案文をご披見のために持参しました。すみやかにご裁断くださいますよう、父子様に申し上げなさることを頼み申し上げます。隆元様より三度に及んで、以前の証文に相違があってはならないとご命令があり、充行状と奉書のご使者をお迎えしました。ご承知いただくため、こうした事情を申し述べました。以上、謹んで申し上げます。

 

 「注釈」

「赤河源左衛門尉」─赤川元久。毛利氏奉行人。

 

「公方様」─足利義政足利義尚のこと。1号文書参照。

「二親」

 ─厳島神主藤原宗親の両親と考えられます。父「徳叟」(教親)と、母「受慶」のことか。1号文書参照。

 

「判形」─ここでは、安堵状のような免除の証文を指すと考えられます。

 

「点役」

 ─天役も同じ。中世、臨時に課された役。①朝廷が賦課した臨時課税、造内裏役や大嘗会役などの一国平均役。②領主から賦課される兵糧米など(『古文書古記録語辞典』)。

 

「諸点役免許之判形」─30号文書、毛利元就同隆元連署宛行状案。

 

「元春信直爲御取續」─31号文書、吉川元春熊谷信直連署書状。

 

桂元澄

 ─桜尾城主。一貫して、毛利元就重臣として活動しており、隆元の家臣や奉行人とは対立することもあったようです(『広島県史』中世)。

 

「櫻尾」

 ─桜尾城。廿日市市桜尾本町。もと厳島神主の居城。天文二十年陶晴賢の弑逆に伴い、陶方の江良賢宣・毛利与三・己斐豊後守・新里若狭守が当城に置かれた。同二十三年毛利元就は桜尾城を接収し、同年の陶方との折敷畑合戦、翌弘治元年(1555)の厳島合戦には毛利軍の本陣となった。戦後は毛利氏の重臣桂元澄が城番を勤め、永禄十二年(1569)七月頃からは毛利元就の子穂田元清が城主となった。慶長五年(1600)毛利氏の防長移封以後、廃城となった(「桜尾城跡」『広島県の地名』)。天文二十三年五月十二日、毛利元就は陶方の兵を追って佐東金山・己斐・草津・桜尾の諸城を占拠し、厳島までもその手に収めてしまった(『広島県史』中世)。

 

「御陣中」─天文二十三年(1554)の厳島の戦い

 

「興藤寄進之地」─友田興藤。もと厳島神主。9号文書参照。

 

「東光寺看坊」

 ─未詳。宮内村(廿日市町宮内)に小字として東光寺という名称が残っている(『広島県の地名』)。9号文書参照。看坊は、禅宗真宗などにおいて、寺院を監守する僧、また留守居の僧のこと(『日本国語大辞典』)。

 

「田坂藤兵衛尉」─未詳。桂元澄の被官か。

 

「医師常倫」─未詳。

 

「宍戸殿」─宍戸隆家か。毛利氏の一門衆。

 

「荒木方」─未詳。