三四 新里元勝下地引渡證文
(端裏書)
「坪井永代也」
永代本銭返下地之事
合米坪井年貢舛三斗入五拾貳俵一斗六舛請取申所実也、并爲二礼銭一廿貫文請取申
候畢、
右引渡申候下地之坪本者、芸州佐西郡坪井村之内、坪本一所大畠五百田一段、一所
(垣)
衛門尉九郎桓内五百田一反、一所西脇貳百目一反、已上合二相辻之田一壹貫六百目、
(新)
此条渡申候、譬天下一同之神儀徳政行候共、子々孫々ニ至迄違乱煩申間敷候、雖レ
然以二本銭一請取申候ハ丶、不レ可レ有二余儀子細一候、末代爲堅證文如レ件、
(1568) 新里与次郎
于時永禄十一年戊辰十二月十三日 元勝
棱厳寺住持宗須書記
参
「書き下し文」
永代本銭返し下地の事
合わせて米坪井年貢舛三斗入五拾二俵一斗六舛請け取り申す所実なり、并に礼銭として廿貫文請け取り申し候ひ畢んぬ、
右引き渡し申し候ふ下地の坪本は、芸州佐西郡坪井村の内、坪本一所大畠五百田一段、一所衛門尉九郎垣内五百田一反、一所西脇貳百目一反、已上相辻の田を合わせて壹貫六百目、此の条渡し申し候ふ、譬ひ天下一同の新儀徳政行ひ候ふとも、子々孫々に至るまで違乱煩ひ申すまじく候ふ、然りと雖も本銭を以て請け取り申し候はば、余儀子細有るべからず候ふ、末代のため堅く證文件のごとし、
「解釈」
都合、坪井の年貢枡三斗分を一俵に換算した、五十二俵一斗六升の米を受け取り申し上げることは事実である。また、礼銭として二十貫文も受け取り申し上げました。
右の引き渡し申し上げます下地の所在地と面積は、安芸国佐西郡坪井村のうち、一所大畠五百田一段、一所衛門尉九郎垣内五百田一反、一所西脇二百目一反。以上、分割領有している田地も合わせて、これら合計一貫六百目の土地を渡し申し上げます。たとえ天下一同の新儀や徳政令が施行されたとしましても、子々孫々に至るまで違乱・妨害し申し上げるはずはありません。しかし、本銭を支払って田地を受け出し申し上げましたなら、私に返却すること以外の事情はないはずです。将来のため、厳密に契約した証文の内容は以上の通りです。
「注釈」
「年貢三斗入」─坪井の年貢枡三斗分で一俵。
「坪本」─「坪付」と同じか。田地の所在地と面積を条里制の坪にしたがって帳簿上に
記載するもの(『古文書古記録語辞典』)。
「已上合相辻之田」─読みも解釈もよくわかりません。「相辻」は「相給」や「相坪」
と同じような意味でしょうか。「相給」は「中世、同一所領を複
数の給人に与えること」、「相坪」は「条里制施行地で、一坪
(一町歩)の田畠を二人以上で分割領有しているとき、互いに他
を相坪と称した」(『古文書古記録語辞典』)という意味です。
これを参考にすると、「相辻」は他人と分割領有している田地と
理解できるかもしれません。ひょっとすると、「辻」は「坪」の
誤記か、同じ意味なのかもしれません。
「壹貫六百目」─未詳。引き渡した田地の合計と考えられますが、単位と考える「目」
が、面積なのか年貢高なのか、何を表しているのかよくわかりませ
ん。
「新里与次郎元勝」─厳島神領衆(厳島神主の家臣)か(「池田城跡発掘調査報
告」http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/11947)。
「棱厳寺」─福原村(吉田町福原)の鈴尾城の東方福原山に、楞厳寺跡がある。この寺
院か。毛利元春の五男福原広世の孫福原広俊の菩提寺で、禅宗、開山は真
如厳甫(『広島県の地名』)。