二二 安藝国金龜山福王寺縁起寫 その5
*本文に記載されている送り仮名・返り点は、もともと記載されているものをそのまま記しています。ただし、一部の旧字・異体字は正字で記載しています。また、本文が長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。
有リ二禅–智上–人ト云者一、河内ノ國丹–南ノ人也、精フシ二業ヲ於城–州ノ之醍–醐ニ一
布ク二化ヲ於四方ノ無–縁ニ一、一–夜夢ニ往カハ二西–海ノ中ニ一則必見ント二生–身ノ之
不–動明–王ヲ一、於レ是乎正–和四–年ノ春買ヒレ船ヲ跨テレ波ニ到ル二此ノ州ニ一、
時ニ一–方ノ山–中見ルレ有ルヲ二奇–光一、相怪ミ遂到ルニ可–部綾谷邑北–嶺也、
老–翁出テ指シテ説ク二山–像ノ之來–由ヲ一、上–人思ヒ二夢–感之事ヲ一早ク入レハレ
山ニ則石–逕斜ニシテ至ル二幽邃ノ之䜬ニ一、果シテ古–木ノ佛–様儼–然トシテ苔–蘚
封–滑シ雲–霧如シレ光–焔ノ、上–人乃チ踞リレ前ニ念–誦シ不レ能レ無キコト感–慨一、
募テ二邑–人ニ一縛二茆盧ヲ觀–供弥ルレ日ヲ時ニ、州–牧武田伊–豆ノ太守氏信公
聞テ而傾ケレ心ヲ事トシ二再–興ヲ一、高–堂寶–宇輪–奐殆ト過ク二于故–制ニ一、添フ二
本–尊ノ之両脇士ヲ一、寺–領又如ク二遂–古ノ一寄二附ス之ヲ一、奥ニ有二大師ノ
影–堂一、東–北ニ勸二請熊野權–現十–二–所ヲ一、北ニ有リ二求–聞–持–堂一、昔シ
大–師修–行ノ之道場也、西–南ノ山ニ鎭二嚴島両–社ヲ一、傍ニ有レ樓掛ク二
梵–鐘ヲ一、南有リ二五層ノ畫塔一、尊氏公ノ之所ロレ建也、前ニ設ク二樓–門ヲ一、
有リ二二–金–剛一、山ノ半–腹ニ有二一–社一、曰フ二諸–天–堂一、昔ハ諸–天降二臨ス
于此ニ一、故ニ造ルトレ之ヲ云フ、一–時有リレ人乗レ馬ニ而過ルレ之ヲ、其ノ馬
蟠–屈シテ鞭–策數回スレトモ而不二敢テ前ニ一、相怪乃下レ馬ヨリ陳二謝于祠ニ一
則人–馬無シレ故、於テレ是知ル二天–祠ノ之威–崇ナルコトヲ一、自レ尓降タ此ノ處ヲ
爲二下–馬ノ之所ト一、若シ有レハ二違越一則無シレ不レ有レ恠焉、禅–智上–人入テレ
洛ニ謁シ二 後–醍–酤天–皇ニ一奏ス二山寺之事ヲ一、 上感–歎増々深ク 勅シテ
賜フ二大勝金剛院ノ之号ヲ一、上–人ノ次ノ住–持云フ二良澄ト一、任ス二僧–正ニ一、
次ヲ云二良–海ト一、此ノ時郡–中ノ寺–社悉ク以テ二當–寺ヲ一爲二門–首ト一、
つづく
「書き下し文」
禅智上人と云ふ者有り、河内の国丹南の人なり、業を城州の醍醐に精しふし化を四方の無縁に布く、一夜の夢に西海の中に往かば則ち必ず生身の不動明王を見んと、是に於いて正和四年の春船を買ひ波に跨ぎて此の州に到る、時に一方の山中奇光有るを見る、相怪しみ遂に到るに可部綾谷邑北嶺なり、老翁出でて指して山像の来由を説く、上人夢感の事を思ひ早く山に入れば則ち石逕斜めにして幽邃の岫に至る、果たして古木の仏様厳然として苔蘚封滑し雲霧光焔のごとし、上人乃ち前に踞り念誦し感慨無きこと能はず、邑人に募りて茆盧を縛り観供日を弥る時、州牧武田伊豆の太守氏信公聞きて心を傾け再興を事とし、高堂宝宇輪奐として殆ど故制に過ぐ、本尊の両脇士を添ふ、寺領又往古のごとく之を寄附す、奥に大師の影堂有り、東北に熊野権現十二所を勧請す、北に求聞持堂有り、昔大師修行の道場なり、西南の山に厳島両社を鎮む、傍らに楼有り梵鐘を掛く、南に五層の画塔有り、尊氏公の建つる所なり、前に楼門を設く、二金剛有り、山の半腹に一社有り、諸天堂と曰ふ、昔は諸天此に降臨す、故に之を造ると云ふ、一時人有り馬に乗りて之を過ぐる、其の馬蟠屈して鞭策数回すれども敢へて前にすすまず、相怪しみ乃ち馬より下りて祠に陳謝すれば則ち人馬故無し、是に於いて天祠の威崇なることを知る、而るにより降りたる此の処を下馬の所と為す、若し違越有れば則ち怪有らざる無し、禅智上人洛に入りて後醍醐天皇に謁し山寺の事を奏す、上の感歎増す増す深く勅して大勝金剛院の号を賜ふ、上人の次の住持良澄と云ふ、僧正に任ず、次を良海と云ふ、此の時郡中の寺社悉く当寺を以て門首と為す、
つづく
「解釈」
禅智上人というものがいた。河内国丹南郡の人であった。仏道を山城の醍醐寺で詳しく学び、四方の衆生を教化した。ある夜の夢で、西海のなかに行くと必ず生身の不動明王を見るだろう、という夢告を得た。そこで正和四年(一三一五)の春に船を買い、波を越えて安芸国にやって来た。その時に一方の山中に不思議な光があるのを見た。禅智上人らは互いに不思議に思って、とうとう可部庄綾谷村の北方の山にやって来た。老翁が現れて山の仏像の由来を説明した。禅智上人は夢告のことを思いすぐに山中に入ると、石の小道が斜めに敷いてあり、奥深く静かな岩穴にやって来た。思ったとおり、古木の仏のお姿は厳かで近寄りがたく、苔が滑らかに覆い、仏を取り巻く雲や霧が光背のようであった。上人はそこで仏前にうずくまり念誦して、深く心に感じないことはなかった。村人に呼びかけて茅の飯櫃を縛り付け、歳月を経て供物を供えていた時、守護武田伊豆守氏信公がこのことを聞いて信心を起こし、寺を再興した。寺の堂舎は高大壮麗で、おおよそ以前の伽藍様式を越えていた。本尊の両脇侍を添えた。また寺領は昔のように寄進した。奥に弘法大師の御影堂がある。東北に熊野権現十二所を勧請した。北に虚空蔵求聞持堂がある。昔、弘法大師が修行した道場である。西南の山に厳島両社を鎮座させた。そばに鐘楼があって梵鐘を掛けた。南に五層の美しい塔がある。足利尊氏公が建てたものである。前に楼門を設置した。そこには二体の金剛力士像がある。山の中腹に一つの社があって、諸天堂という。昔は諸天がここに降臨した。だからこれを造ったそうだ。ある時、人がいて馬に乗ってここに立ち寄った。その馬はうずくまって、鞭を数回打ったけれども一向に前に進まず、互いに不思議に思ってすぐに馬から降りて祠に陳謝したところ、人馬に差し障りはなかった。そこで諸天の祠は、畏れ崇拝するものであることを知った。それ以来、降りたこの場所を下馬の場所とした。もし誤ってそこを通り過ぎるなら、必ず怪異が起こる。禅智上人が都に入って、後醍醐天皇に謁見し、福王寺のことを奏上した。帝の感嘆はますます深く、勅命を下して大勝金剛院という院号をお授けになった。禅智上人の次の住持を良澄という。僧正に任命された。次の住持を良海という。この時、安北郡中の寺社はみな福王寺を首席と見なした。
つづく
*注釈は数が多すぎるので省略しました。