周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

須佐神社文書 その3

 一 須佐神社縁起 その3

 

*本文が長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。

 

            いそ もちゆき          (疑)

 一ふてあそばし給はゝ、急ぎ持行娘と娵とにかけけれバ、うたがいなくたすかり、

  のかる

  遁るものなり、

                (札守)       (立)    (弓)

  こたん將來處にわくしやう神のふだまむりを四方八方にたてければ、ゆみや、

  つるぎ (鉾)     やう                  (符)

  劔、ほこ、入ルへき様もそらになし、其時に、じやどくぎぢんのふ、

  (懇)      まと した (塞)     (切入)     (千)

  ねん比見玉へは、窓の下をふさがず、是よりきりいり、八万四せんの

           よ(神)(部類)     (上)

  けんぞく、六百五拾除ぢんぶるいおしいり、かみ八拾人中八十人下八十人貳百

              や (滅)

  四十人のけんぞく、七日七夜ニほろぼし給いて、ゑいさゝゝ、ゑいをふ、

  よきかな      (龍宮城)

  善哉々々、それよりりうぐうじやうめぐり、にしやまがけぼろん國

  (住)        まつ (木)  (鳩)ひとつかい(羽)やすめ

  すみたまふ、おんまへの松のきに、はと一番はを休、さえどりけるやふ、

        りうくうじやう(宮)   きさき        なく  はと

  これよりなん瀧宮城姫ミやまします、后ニしやくし給へと鳴、その鳩

  とびゆく(連)                 (契)

  飛行つらねて見給ふに、はりさいによと申后御ちぎりあつて、八人の王子を

             (我朝) 人皇     文武天皇   (御宇)

  もふけ玉ふ、それより、わかてふにんのふ四十二代もんむてんのふのぎよう

   慶雲元年    (甲辰)     (江)しう(栗太郡        (夜)

  けいうんくわんねんきのへたつ四月、がう州くり許こうりへ着き給ふ、一やに

   (千本)  (杉苗)          (都)    (捧)

  貳せんぼんのすぎなへをうへ玉ふ、そんしミやこへ一紙おさゝけ奉る、時の

   (関白)  (奏聞)    (献上)   (宣旨)(蒙)   (崇敬)

  くわんばく、そうもん、御湯けんじやふのせんじをかふむり、そふきやふ奉る、

          (波羅奈) 東王父天王)          ちゝ

  あつかれわ、是、はらない國とうをふふてんのふの王子なり、父のまかふお

        (天竺震旦)         秋津島       (神託)

  こふむり、てんじくしんたんをめぐり、このあきつしまわたるとのぢんたく

  なり                人皇  (三代)(和銅  (年)

  也、こずてんのふおあがめたてまつるにんのふ四十さんだいわどふ六ねん癸丑、

   元明天皇   (御)  (日本)  ふとき しむ つくら

  げんめふてんのふのぎよ宇、につほんの風土記お令作、にんのふ四十五代

  ぢん(亀)(年)(乙亥)       (播磨)   ひろみねこずてんのふ(出現)

  神き七ねんきのとのい三月十八日に、はりまの國廣峯牛頭天王しゆつけんし

       播州風土記              (寶龜)

  給ふと、ばんしふふときにあり、にんなふ四十九だいほふき二年辛亥

  光仁 (皇)(御)う       もつて (国々)      まつらしむ

  かふにん天王のぎよ宇、みことのりを以、くにゝゝに牛頭天王を令祭、

   つづく

 

 「書き下し文」(可能な限り漢字仮名交じりにしました)

 一つ、筆を遊ばし給はば、急ぎ持ち行き娘と婿とにかけければ、疑いなく助かり、遁るるものなり、

  古旦將來処には倶生神の札守を、四方八方に立てければ、弓矢、劔、鉾、入るべき様もそらに無し、其の時に、蛇毒鬼神の符、懇ろに見玉へば、窓の下を塞がず、是れより切り入り、八万四千の眷属、六百五十余神・部類押し入り、上八十人、中八十人、下八十人、二百四十人の眷属、七日七夜に滅ぼし給いて、えいさえいさ、えいえいおう、善きかな善きかな、それより龍宮城へ廻り、にしやまがけぼろん国へ住み給ふ、御前の松の木に、鳩一番羽を休め、さえどりける様、これよりなん瀧宮城に姫宮まします、后にしやくし給へと鳴く、その鳩飛び行くに連ねて見給ふに、頗梨采女と申す后に御契りあつて、八人の王子を儲け玉ふ、それより我が朝人皇四十二代文武天皇の御宇慶雲元年甲辰四月に、江州栗許郡へ着き給ふ、一夜に貳千本の杉苗を植へ玉ふ、孫子都へ一紙を捧げ奉る、時の関白、奏聞す、御湯献上の宣旨を蒙り、崇敬奉る、あつかれは、是れ、波羅奈国東王父天王の王子なり、父のまかふを蒙り、天竺震旦を廻り、この秋津島へ渡るとの神託なり、牛頭天王を崇め奉る人皇四十三代和銅六年癸丑、元明天皇の御宇、日本の風土記を作らしむ、人皇四十五代神亀天平の誤か)七年乙亥三月十八日に、播磨の国廣峯牛頭天王出現し給ふと、播州風土記にあり、人皇四十九代寶龜二年辛亥光仁天皇の御宇、勅を以て、国々に牛頭天王を祭らしむ、

   つづく

 

 「解釈」

 一つ、牛頭天王が筆を走らせて呪符をお書きになり、急いでその呪符を持っていき娘と婿に掛けるなら、間違いなく助かり、災厄から逃れることができるものである。

  古旦将来の所には倶生神の呪符を、四方八方に立てていたので、弓矢、劔、鉾を入れるべきところはまったくない。その時に、蛇毒鬼神王が丁寧にご覧になると、窓の下を塞いでいなかった。ここから切り入り、八万四千の眷属や六百五十四神の部類が押し入り、上の八十人、中の八十人、下の八十人の眷属が七日七夜のうちに滅ぼしなさって、えいさえいさ、えいえいおう、善きかな善きかな、と勝ち鬨をあげた。それから龍宮城を廻り、にしやまがけぼろん国にお住みになった。御前の松の木に鳩一番が羽を休めて囀るには、「ここより南の龍宮城に姫宮がいらっしゃいます。后になさいませ」と鳴いた。その鳩が飛んでいくのに付いていきご覧になると、頗梨采女と申す后がいらっしゃって夫婦の契りを結びなさって、八人の皇子を儲けなさった。それから、本朝人皇四十二代文武天皇の御代慶雲元年甲辰(七〇四)四月に、近江国栗太郡へお着きになった。一夜で二千本の杉苗を植えなさった。住人たちの子孫が都へ書状を捧げ申し上げた。時の関白が帝に奏聞し、御湯献上の宣旨をいただき、崇敬し申し上げた。「あつかれわ」牛頭天王は波羅奈国東王父天王の王子である。父の「まかふ」を蒙って、天竺震旦を廻り、この日本へ移るとの神託であった。牛頭天王を崇め奉る人皇四十三代和銅六年癸丑(七一三)、元明天皇の御代に日本の風土記を作らせた。人皇四十五代天平七年乙亥(七三五)三月十八日に、播磨国広峯に牛頭天王が出現しなさったと、播磨国風土記に書いてある。人皇四十九代宝亀二年辛亥(七七一)光仁天皇の御代に勅命によって各国に牛頭天王を祭らせた。

   つづく

 

 「注釈」

「くり許こうり」─栗本郡(栗太郡)。現滋賀県栗東市綣に鎮座する大宝神社のこと

         か。

「娵」─婿の誤り。

 

「倶生神」

 ─インド神話を受けた仏教の神。人が生まれた時から、その左右の肩の上にあって、その人の善悪の所行を記録するという同名、同生の二神。また、これを男女の二神とし、男神は同名といい、左肩にあって善行を記録し、女神は同生といい、右肩にあって悪行を記し、死後、閻魔王による断罪の資料とするという。また、俗に、閻魔王の側で罪人を訊問し罪状を記録する神とする(『日本国語大辞典』)。

 

「あつかれわ」─未詳。

 

「まかふ」─「ふかう」(不幸・不孝)の誤記・誤読か。

 

「廣峯」─廣峯神社姫路市広嶺山。

 

 

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広峯神社随神門

 

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拝殿

 

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神輿

 

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拝殿(手前)・本殿(奥)

 

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本殿

 

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本殿裏

 

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地養社(祭神は蘇民将来

 

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掲示

 

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荒神

 

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吉備神社