周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

須佐神社文書 参考史料1の6

  小童祗園社由来拾遺伝 その6

 

*改行箇所は 」 を使って示しておきます。また、一部異体字常用漢字に改めたところがあります。書き下し文についても、私の解釈に基づいて、原文表記を変更した箇所があります。

 

 又伝ふ素盞嗚尊の御童児の御時は」御名を牛頭天王と申奉る。此御神御」鎮座の所な

 るを以、当村の名に小」童の文字を用い来る歟、外所以」を聞かず、如何定がたし、

 後知識を」希ふ、就中此神を洛東に祝ひ」玉ひし時初而精舎造りに建立」し給ふ、旧

 く天笠の祇園精舎の結構になぞらへて、京童祇園くと云習ひしより、終に此

 里ニ而ハ」小童の祇園と唱来れり、中古宥」弁法印といふ者有、社内に木像残れり」

 数十年を経て、宇賀の城主矢田殿」建立、其若宮社頭に現在せり、」此おかたハ足利

 将軍の御末ニ而当国」安那郡中条村の城より将軍の厳命」にて宇賀の城へ移転せら

 れしと聞、」其後文禄三甲午、毛利輝元公同」元継公御願に仍而御建立、」今の宮は

 是なり、降たり享禄三」庚寅御玉殿修理、天文十年辛丑」四月鳥居建立、又元和六年

 庚申」同断、又其後寛永十癸酉年同断、」且又当社之鐘ハ伯州相見八幡宮へ」奉納の

 ため出来の鐘と見へたり、」然るに天文九年中に上方より此所を」通り掛り、人夫の

 者社頭を軽しめ」あしさまに囀りけれハ忽重くなりて、」いかに動かせども動かす事

 あたハず、」神威に驚感して竟に無拠奉」納しつると申伝ふ、誠にや其銘」明か也、

 又頗梨采女稲田姫とも」ならふ、今は大御前と申奉る。」寛文八戊申のとし当寺の

 時住宥俊」世羅・三谷・三上・甲怒・神石五郡之内」人別壱銭の助力を以、初而車に

 乗せ」奉る。昔し王子数多生出ましませる」縁に元付て、種々囃口を申し、凶

 去ル、妖去れ、大こレや等と、其囃し振言語道断にて、甚草早ニ」似たり、然れ

 とも御神慮にや叶ひ」けん、自然御忌中とも指合穏便ニ」打過る事とも有之年にハ必

 ず」世間物騒なりと申、又当山より」十三丁南に森木有、飢神といふ、」此神は蘇民

 将来の娘にて巨旦」将来のためにはよめ也、天王当村」御来光の跡を慕ふて、

 蘇民」将来きたり給ふ、又其跡を追て」娘御来り給ふ折節、其頃産後にて」いまた御

 身も冷やかならす、仍而六月十四日、十五日には必来るべか」らす、十六日午を過未

 に来るべしと」の御言にて途中に扣へ待玉ふ、」其時俄に飢苦しみて十六日末を」得

 待おふせ給ハす、終に其所ニ而」身まかり玉ふと、其旧跡と申伝ふ、」此縁にて今世

 に至、女人月ある」ものハ六月の御祭には必他所へ外シ、」十六日未の刻大御前当社

 の鳥居」へ御入之処を、後より拝ミ奉るは」此いわれなり、又拝まざれハ却而」御咎

 めありと申す、又正月七日当社」の的神事にあへバ、其年の厄を遁る」と云ハ、天王

 昔し巨旦といふ悪」鬼神を降伏し給ふ、其儀に」則り悪鬼神の目を射る心とぞ」申伝

 るゆへなり」

   つづく

 

 「書き下し文」

 又伝ふ、素盞嗚尊の御童児の御時は、御名を牛頭天王と申し奉る。此の御神御鎮座の所なるを以て、当村の名に小童の文字を用い来たるか、外に所以を聞かず、如何にも定めがたし、後の知識を希ふ、就中此の神を洛東に祝ひ給ひし時、初めて精舎造りに建立し給ふ、旧く天竺の祇園精舎の結構に準へて、京童祇園祇園と云ひ習ひしより、終に此の里にては小童の祇園と唱へ来たれり、中古宥弁法印といふ者有り、社内に木像残れり、数十年を経て、宇賀の城主矢田殿建立す、其の若宮社頭に現在せり、此の御方は足利将軍の御末にて当国安那郡中条村の城より将軍の厳命にて宇賀の城へ移転せられしと聞く、其の後文禄三甲午(一五九四)、毛利輝元公同元継公御願に仍て御建立す、今の宮は是れなり、降だり享禄三庚寅(一五三〇)御玉殿修理す、天文十年辛丑(一五四一)四月鳥居建立、又元和六年庚申(一六二〇)同断、又其の後寛永十癸酉(一六三三)同断、且つ又当社の鐘は伯州相見八幡宮へ奉納のため出来の鐘と見えたり、然るに天文九年中(一五四〇)に上方より此の所を通り掛かり、人夫の者社頭を軽んぜしめ悪し様に囀りければ、忽ち重くなりて、いかに動かせども動かす事能はず、神威に驚き感じて竟によんどころなく奉納しつると申し伝ふ、誠にや其の銘明らかなり、又頗梨采女稲田姫とも並ぶ、今は大御前と申し奉る。寛文八戊申(一六六八)の年当寺の時住宥俊、世羅・三谷・三上・甲奴・神石五郡の内人別一銭の助力を以て、初めて車に乗せ奉る。「昔王子数多生み出だしましませる縁に基づきて、種々囃口を申し、凶も去る、妖も去れ、大これや」等と、其の囃し振り言語道断にて、甚だ野早に似たり、然れどもご神慮に叶ひけん、自然御忌中とも指し合ひ穏便に打ち過ぐる事ども有るの年には必ず世間物騒なりと申す、又当山より十三丁南に森木有り、飢神といふ、此の神は蘇民将来の娘にて、巨旦将来のためには嫁なり、天王当村へ御来光の跡を慕ふて、蘇民将来来たり給ふ折節、其の頃産後にて未だ御身も冷ややかならず、仍て六月十四日、十五日には必ず来るべからず、十六日午を過ぎ未に来るべしとの御言にて途中に扣へ待ち給ふ、其の時俄に飢ゑ苦しみて十六日未をえ待ちおおせ給はず、終に其の所にて身罷り給ふと、其の旧跡と申し伝ふ、此の縁にて今世に至り、女人月あるものは六月の御祭には必ず他所へ外し、十六日未の刻大御前当社の鳥居へ御入るの処を、後より拝み奉るは此の謂れなり、又拝まざれば却つて御咎めありと申す、又正月七日当社の的神事に遭へば、其の年の厄を遁ると云ふは、天王昔巨旦といふ悪鬼神を降伏し給ふ、其の儀に則ち悪鬼神の目を射る心とぞ申し伝へる故なり、

   つづく

 

 「解釈」

 さらに伝えるところでは、素盞嗚尊の幼いときは、名前を牛頭天王と申し上げた。この神がご鎮座になっているところであるから、当村の名前に小童の文字を使用してきたのだろうか。他に理由を聞いていない。どうにも決められない。後世の学識の高い人が明らかにするのを願う。なかでもこの神を洛東の八坂郷にお祭りしたとき、初めて寺院様式で堂舎を建立しなさった。古のインドの祇園精舎の様式に準えて、京童が「祇園祇園」と言い習わしたから、結局この里では小童の祇園と呼んできた。少し昔に宥弁法印というものがいた。社内にその木像が残っている。数十年後に宇賀の城主矢田殿が建立したその若宮の社殿に現存している。この矢田殿は足利将軍のご子孫で、当備後国安那郡中条村の城から移転させられたと聞いている。その後文禄三年(一五九四)、毛利輝元公と元継公の御願によって御建立になった。今の社殿はこれである。時は遡り享禄三年(一五三〇)に社殿を修理した。天文十年(一五四一)四月に鳥居を建立した。また元和六年(一六二〇)にも鳥居を建立した。またその後、寛永十年(一六三三)にも鳥居を建立した。さらにまた、当社の鐘は伯耆国相見八幡宮へ奉納するために鋳造された鐘と見えている。しかし、天文九年(一五四〇)中に上方からこの場所を通り掛かり、人夫が社殿の前で神を侮り悪口を言ったので、たちまち鐘が重くなり、どのように動かそうとも動かすことができなくなった。神の威光に驚嘆して、とうとうやむをえず奉納したと申し伝えている。本当のことだろうか、その鐘の銘に明らかである。また頗梨采女神は奇稲田姫と同じである。今は大御前と申し上げる。寛文八年(一六六八)、当神宮寺のその当時の住職宥俊は、世羅・三谷・三上・甲奴・神石五郡のうちから人別一文ずつの寄付金を集め、それで初めて車を作り、それに神輿を乗せて差し上げた。むかし王子をたくさんお生みになった縁に基づいて、様々なお囃子を申し上げ、「凶も去る、妖も去れ、大御前や」などと、その囃し方はとんでもないことで、たいそう「野早」に似ている。しかし、ご神慮に叶っていたのだろうか。万一、ご忌中や生理がひどくなく過ぎることなどがある年には、必ず世間が物騒になると申す。また当山より十三町南に森がある。飢神という。この神は蘇民将来の娘で、巨旦将来の嫁である。牛頭天王が当村へお出でになったあとを慕って、蘇民将来がお出でになった。またその後を追って娘がお出でになったとき、その頃産後でまだその体も落ち着いていなかった。そこで、「六月十四日、十五日には決して来てはならない。十六日午の刻を過ぎて未の刻に来い」という神のお言葉によって、途中に控えてお待ちになった。その時、突如飢え苦しみはじめて、十六日の未の刻になるのを待ち続けることがおできにならなかった。とうとうそこでお亡くなりになった、その旧跡と申し伝えている。こうした理由によって現代に至っても、女性で生理になっているものは、六月のお祭りの時には必ず他所へ離れ、十六日の未の刻に、大御前が当社の鳥居へお入りになるところを、後ろから拝み申し上げるのは、こういうわけである。一方で拝まなければ、逆にお咎めがあると申す。また、正月七日当社の的神事に来合わせると、その年の厄を逃れるというのは、「牛頭天王がむかし巨旦将来という悪鬼神を降伏しなさった。その経緯のとおりに、悪鬼神の目を射るという意味だ」と申し伝えるからである。

   つづく

 

 「注釈」

「安那郡中条村」─現広島県福山市神辺町東中条・西中条。

 

「相見八幡宮」─現鳥取県米子市東八幡の八幡神社

 

「ならふ」

 ─「並ぶ」なら「等しい」、「慣らふ」なら「言い慣わしている」という解釈になると思います。一応、「並ぶ」の意味にしておきます。