周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

中世の逆三枚起請!?

   一 行雲起請文 (町内文書『甲奴町誌』資料編)

 

 「解説」

 これは明治十九年(1886)に、甲奴町宇賀品谷の八幡神社の神像の体内文書として、時の社掌信野友幸氏が発見されたものである。

 現在町内に存在する古文書のうちで最も古いもので、傷みがひどくて内容を十分に把握することが困難であるが、宇賀の歴史を探求するのに不可欠の重要な史料である。

 

    白敬きしようもんの事

   (件ヵ)

   右⬜︎

 一なかはらのこけ[    ]もしぎよううん[    ]てふうふのおもいににご

                        (ヵ)

  る事候はゞ、一まんさせん諸仏[    ]ゑ⬜︎ほ[  ]六[  ]さ天

  [  ]大ほ天たいしやくの御ばちをぎよううんあつうふかうかうふらん

 一ひちいちのないしの事、きやううんもしめをとのやくそくにこるゝこと候はゝ、

                          (所ヵ)

  大日本国六十[    ]ゆうしんきめうとそ大明神⬜︎[    ]御ばちをぎや

  ううんあつふかうかうふらん

 一やまなかのむまの[  ]が事 もしぎやううん[  ]ふうふのやくそく⬜︎てに

                         (所ヵ)

  こるゝ事候はゝ[    ]国のちんしやうれう三⬜︎うかの三しやのやしろしなの

  八幡大菩薩の御ばちを、きゃううんあつうふかうかうふらん

 一しなのこけとふの事 もしきやううん[  ]て[    ]とのや

  [     ]候はゝ一五の[  ]て六十四[    ]まてを[    ]ん

  [    ]きゃうほうむなしうなりて なかく大むんけに□さいして 大自在天

  満天神の御はちを きやううんか八まんしせんのミのケのあなことにあつうふかう

  かむらん よてきやううんのしやう如件、

   (1382)

   永徳弐⬜︎十月三日

                      行 雲 花押

 

 「書き下し文」

*漢字仮名交じり文に改めました。『甲奴町誌』(1994)の解説を参照しましたが、私の推測に基づいて、いくつか改めた箇所があります。

 

    敬白起請文の事

   右件

 一つ、中原の後家[    ]若し行雲[    ]て夫婦の思いに濁る事候はば、

  一万三千諸仏[    ]ゑ⬜︎ほ[ ]六[ ]さ天[ ]大梵天帝釈の御罰を行

  雲厚う深う蒙らん、

 一つ、小童市の内侍の事、行雲若し夫婦の約束ニ濁るる事候はば、大日本国六十余州

  大小神祇冥道大明神所[ ]御罰を行雲厚う深う蒙らん、

 一つ、山中のむまの[ ]が事、若し行雲[ ]夫婦の約束にて濁るる事候はば、

  [    ]国のちんしやうれう三所、宇賀の三社の社、品の八幡大菩薩の御罰

  を、行雲厚う深う蒙らん、

 一つ、品の後家とふの事、若し行雲にて夫婦の約束濁るる事候はば、一五の[ ]て

  六十四[    ]まてを[    ]ん[    ]きゃうほう空しうなりて、

  永く大むんけに⬜︎さいして、大自在天満天神の御罰を行雲か八万四千の身の毛の穴

  毎に厚う深う蒙らん、仍行雲の状如件、

   永徳弐年十月三日

                      行 雲 花押

 

 「解釈」

 一つ、中原の後家のこと。もし私行雲の妻への愛情が濁るようなことがありますなら、一万三千の諸仏諸神、大梵天帝釈天の御罰を厚く深く蒙りましょう。

 一つ、小童の市場の内侍のこと。もし行運が夫婦の約束を違えるようなことがありますなら、大日本国六十余州の大小の諸神・諸仏・大明神の御罰を行雲は厚く深く蒙りましょう。

 一つ、山中の右馬のこと。もし行運が夫婦の約束を違えることがありますなら、国の鎮守三所、宇賀村の三社、品の八幡大菩薩の御罰を、行雲は厚く深く蒙りましょう。

 一つ、品の後家とふのこと。もし行運が夫婦の約束を違えることがありますなら、(解釈できず)、大自在天満天神の御罰を、行雲の八万四千の身の毛の穴ごとに、厚く深く蒙りましょう。よって、行雲の起請文は以上の通りです。

 

*「いやな起請を書くときにゃ、熊野でカラスが三羽死ぬ」。古典落語三枚起請」の台詞を捩って言えば、この場合、「宇佐で鳩が三羽死ぬ」のかもしれません。この史料は厳密に言うと「三枚起請」ではなく、ただの「一枚起請」なのですが、その一枚の起請文のなかで、四人の女性との変わらぬ愛を誓っています。

 さて、いやな起請文を書いたのかどうかわかりませんが、差出人の行雲は起請文を認めて、品の八幡神社の御神像の胎内に込めました。四人の妻の詳細は分かりませんし、どの女性が正妻なのかもはっきりしませんが、彼女たちの在所はそれぞれ異なっているので、別居しているようです。また、そのうち二人は「後家」さんです。一夫多妻制の時代であったといえばそれまでですが、中世の日本は「女は男に倍す」という状況でした(井原今朝男「祈禱・呪術を否定する中世仏教」『中世寺院と民衆』臨川書店、2004、281頁)。女性が一人で生きていくには厳しい時代だったのかもしれません。

 それにしても、この起請文については、作成の状況や背景がよく分かりません。いったい、どのような場で書かれたのでしょうか。行雲一人が神前で一通の起請文を書いたのか。それとも、行雲は、四人の妻と神の御前で起請文を書いたのか。この場合、ものすごい修羅場を想像してしまいます。そもそも、四人の妻への愛を誓うのに、なぜ四枚の起請文を書かなかったのでしょうか。面倒だから一枚で済ませたなどと口走れば、それこそ修羅場になりそうです。四人の妻が徒党を組み、平等に愛情を注ぐように行雲に迫り、起請文を書かせたと想像するとおもしろいのですが。

 行雲は自主的に、四人の妻への変わらぬ愛を誓った起請文を、八幡神に捧げたと考えられないことはないですが、その理由がまったく分かりません。ラブレターや紙切れ同然の価値しかなくなった婚姻届とは訳が違います。三角関係ならぬ五角関係ということになりますが、何がしかのトラブルでもなければ、神仏を仲立ちにした起請文など書かないのではないでしょうか。何せ約束を破れば、体中の毛穴という毛穴に神罰を蒙るわけですから、これは恐ろしい誓約です。

 行雲は同様の起請文を四人の妻に渡したのか。それともそれぞれの妻宛に起請文を一通ずつ書いて、四人の妻の名をまとめて記した起請文を御神像の胎内に込めたのか。品の八幡神社以外の村の社、つまり四人の妻の在所の鎮守にも納めたのか。はたまた、他に書いた起請文は、一味神水のように焼いて灰にして飲んだのか。分からないだけに、いろいろと想像できておもしろいです。