周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

伊藤文書(完)

解題

 天文十年(一五四一)、金山城を落とした大内義隆が天文十四年(一五四五))に伊藤信久に下したものである。

 伊藤氏はその後の戦乱などで所領や判物の大半を失い、沼田郡伴村(広島市沼田町)へ蟄居し医者などをつとめた。享保六年(一七二一)の沼田郡伴村利介の書出によると、右の文書は「馬之飼所為御加増」という。

 

   一 大内義隆下文

   (義隆)

    (花押)

 下           伊藤若狭守信久

   可早領知安藝国佐東郡上安内参貫四百地事

  右以件人宛行也者、早可全領知之状如件、

      (1542)

      天文十一年十一月十二日

 

 「書き下し文」

 下す          伊藤若狭守信久

   早く領知せしむべき安芸国佐東郡上安の内三貫四百地の事、

  右件の人を以て充て行ふ所なり、てへれば早く全く領知すべきの状件のごとし、

 

 「解釈」

 下す          伊藤若狭守信久

   早く領有するべき安芸国佐東郡上安のうち、三貫四百文の地のこと。

  右の領地は、この伊藤信久に給与するものである。よって、早く領有を全うするべきである。下文の内容は、以上のとおりである。

 

 「注釈」

「上安」─広島市安佐南区上安。上安の地名は天文一〇年(一五四一)八月八日付の大

     内義隆安堵状(「芸備郡中筋者書出」所収)に見え、感神院別当に上安下

     安両村のうち一〇貫文の地の知行を認め、寺務と国家安全祈禱を命じてい

     る。また下安は同年六月二十五日の大内氏奉行人連署奉書(厳島野坂文書)

     に見え、「安」という地が上下に分離したと思われるが、その時期やそれ以

     前の「安」については不明。ただし「和名抄」の佐伯郡「養我郷」を「養須

     郷」の誤りとし(大日本地名辞書)、上安(上安・高取・相田・大町)・下

     安(北下安・南下安)をあてる説もある。天文十四年十月五日の大内義隆

     文(伊藤文書)は、上安内三貫四百文の地を伊藤信久に宛行っている。同二

     十一年二月二日の毛利元就同隆元連署知行注文(毛利家文書)には「安上

     下」と記される。同二十三年になると仏護寺領打渡坪付(「知新集」所収)

     のなかに小地名が見え、正月二十八日付と六月十七日付の坪付は、ともに上

     安仏護寺領として「車田・ひくらし・大町・ひかん田・丸町・片山」の一町

     三段六十歩、分米四石六斗をあげる。この場合の上安は、のちの大町村など

     を含んだ範囲である。なお、嘉応三年(一一七一)正月十五日付の安芸国

     守所下文(新出厳島文書)に、「桑原郷内萩原村」を厳島社領壬生庄(現山

     県郡千代田町)の倉敷地にすると見える。桑原郷は上安村南方の長束や東西

     の両山本の地とされ、倉敷地もこの一帯に設けられたとするのが通説である

     が、萩原は上安村内にある地名で、同郷をこの地まで広げることも可能では

     あるまいか(『広島県の地名』)。