周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

横山林左衛門氏旧蔵文書(完)

解題

 前記、伊藤信久への下文と同じ性質のものである。横山真高は鈴張(現広島市安佐町)の関山城に拠っていた豪族である。文政のころの鈴張村庄屋幸右衛門その子孫であるという。

 

   一 大内義隆下文     ○東大影寫本ニヨル

   (義隆)

    (花押)

 下           横山右馬助眞高

   可早領知安藝国安北郡鈴張内貳拾三石余地事

  右以件人宛行也者、早可領知之状如件、

      (1542)

      天文十一年十一月十二日

 

 「書き下し文」

 下す          横山右馬助眞高

   早く領知せしむべき安芸国安北郡鈴張の内二十三石余りの地の事、

  右件の人を以て充て行ふ所なり、てへれば早く領知を全うすべきの状件のごとし、

 

 「解釈」

 下す          横山右馬助眞高

   早く領有するべき安芸国安北郡鈴張のうち、二十三石余りの地のこと。

  右の土地は、この横山眞高に給与するものである。よって、早く領有を全うするべきである。下文の内容は、以上のとおりである。

 

 「注釈」

「鈴張」─広島市安佐北区安佐町大字鈴張。中世の支配関係は不明であるが、北の壬生

     庄(現山県郡千代田町)が厳島神社領、南の飯室村が国衙領で、厳島神社

     安芸国衙は深く結びついており、両者のいずれかの影響下にあったと考えら

     れる。享禄四年(一五三一)閏五月九日毛利元就証状(吉川家文書)では、

     鈴張は「阿那・小河内・飯室・山中・今田」とともに吉川興経に安堵されて

     いた。天文十一年(一五四二)十一月十二日の大内義隆下文(横山林左衛門

     氏旧蔵文書)によれば、鈴張内二十三石余りの地がこの地の豪族横山右馬助

     へ宛行われている。同二十一年二月二日の毛利元就同隆元連署知行注文(毛

     利家文書)になると「鈴張 熊谷知行」と見え、毛利氏に従った熊谷氏の支

     配が及んできている(『広島県の地名』)。