宝徳二年(1450)七月十九日条 (『康富記』3─190頁)
十九日辛酉 晴、
(中略)
或語云、和泉守護細川兵部少輔去年被誅山臥之間、都鄙山臥楯籠新熊野社頭、呼集諸
国山臥、率大勢、一昨日可押寄兵部少輔屋形、(割書)「綾小路万里小路、」且新熊
野神輿可振入之由令支度之、事可及大儀之間、自兵部少輔方被出下手人、両人、又科
(怠ヵ)
貸料足百二十貫田地(割書)「十六町、」神馬等出之、被懇望之間、昨日屬無為
云々、
「書き下し文」
或るひと語りて云く、和泉守護細川兵部少輔去年山臥を誅せらるるの間、都鄙の山臥新熊野社頭に楯籠り、諸国の山臥を呼び集め、大勢を率ゐ、一昨日兵部少輔の屋形(割書)「綾小路万里小路」に押し寄すべく、且つ新熊野神輿を振り入るべきの由之を支度す、事大儀に及ぶべきの間、兵部少輔方より下手人、両人、を出ださる、又科怠料足百二十貫田地(割書)「十六町」、神馬等之を出だす、懇望せらるるの間、昨日無為に属すと云々、
「解釈」
ある人が語って言うには、「和泉国の下守護細川頼久が、去年山伏を誅殺しなさったので、都や田舎の山伏たちが新熊野社の社殿に立て籠り、諸国の山伏を呼び集め、大勢を率い、一昨日綾小路・万里小路にある細川頼久の屋敷に押し寄せ、さらに新熊野社の神輿を振り入れるつもりで準備をしていた。この事件は大事になるにちがいないと思ったので、細川頼久方から下手人二人をお出しになった。また、慰謝料として一二〇貫文分の田地十六町と、神馬等を差し出した。熱心に和解を願ったので、昨日無事に解決した」という。
「注釈」
「或」─「名前を記すと差し障りのある人」のことか。
「細川兵部少輔」─和泉下守護細川頼久か(桃崎有一郎・山田邦和『室町政権の首府構想と京都─室町・北山・東山』図書出版文理閣、2016年、69・70頁、1275・1304番)。
「新熊野社」
─現在の東山区今熊野椥ノ森町。東大路通の西側に位置する。鳥居は東面して東大路通に向かうが、拝殿・社殿はともに南面する。祭神は伊弉冊命。現在の祭日は五月五日。熊野信仰の高まりのなかで、後白河院が紀州熊野権現本宮の祭神を勧請し、院御所である法住寺殿の鎮守としたのに始まる(『京都市の地名』)。
「綾小路万里小路」
─京都市下京区綾小路柳馬場近辺か。ここに和泉下守護家の邸宅があったようです(前掲桃崎・山田著書、同頁)。
*南都北嶺と呼ばれた延暦寺・興福寺の強訴は有名です。延暦寺なら日吉大社の神輿、興福寺なら春日大社のご神木を都に持ち込んで、自らの要求を押し通してきたそうです。
今回の場合、新熊野社の山伏殺害事件が原因で、各地の熊野系山伏が集結し、神輿を担いで細川頼久亭に押し寄せようとしていました。大事件になることを恐れた頼久は、下手人2人を差し出すとともに、120貫文分の土地と神馬を差し出しました。現代の価値で一貫文をいくらに設定するかにもよりますが、まず慰謝料として1千万円ぐらいの土地を渡したことになります。このとき、いったいどんな文書を作成して手渡したのでしょうか。現物が残っているとおもしろいのですが。
また、馬の値段もピンキリでしょうが、神馬にするわけですから、安い馬を差し出したとも思えません。よい馬というのは、現代の高級車や競走馬と同じぐらいの値段だったそうなので、ひょっとすると、合計で2千万円ぐらいの出費であったのかもしれません。贖罪の意も含めてなのでしょうが、これが中世における人間1人の値段だっということになりそうです。どんな理由で山伏を誅殺したのかわかりませんが、随分と高くついたものです。いや、この程度の損害でよかったのかもしれません。戦になれば、こんな被害では済まないでしょうから。
それにしても、山伏の団結力には目を見張るものがあります。一声かければ、守護が恐れるほどの人数が集まってくる。山伏に限ったことではないですが、中世の社会集団は、内部に権力闘争を抱えながらも、外部からの攻撃に対しては、一致団結して対抗するようです。中世人がより良く生きていくというのは、こういうことなのでしょうか。
今回のような記事を読んでいると、道理って何だろう、と思います。盗人にも三分の理ではないですが、山伏を誅殺した細川方には彼らなりの理があったでしょうし、報復しようとした山伏集団にも彼らなりの理があったのでしょう。互いに道理は大事なのですが、それを突き詰めすぎると、反対に自らを滅ぼしてしまうことにもなりうる。追い詰めるときには追い詰め、退くときには退く、金で解決できるときには解決する。矛の抜き方収め方の上手い人が、当時の集団のトップに相応しい人物だったのかもしれません。現代社会も同じでしょうか…?
*2021.3.6追記
関連史料を追加します。
宝徳二年(1450)七月四日条 (『経覚私要鈔』2─136頁)
四日、(中略)
〔和脱〕
一去々年於泉国山伏両人殺害云々、依之今熊野并今御瀧西九条、諸国山伏群集、当
〔兵部〕(頼久ヵ)
守護細川刑部大輔可有御罪科、不然者直可発向之由、訴申入云々、
「書き下し文」
一つ、去々年和泉国に於いて山伏両人殺害せらると云々、依之今熊野并びに今御瀧西九条に諸国の山伏群集す、当守護細川兵部大輔に御罪科有るべし、然らずんば直ちに発向すべきのよし、訴へ申し入ると云々、
「解釈」
一つ、一昨年、和泉国で山伏が二人殺されたという。これによって、新熊野社と西九条にある今御瀧社に、諸国の山伏が群れをなして集まった。「和泉守護細川頼久をご処罰にならなければならない。さもなくば、すぐさま(頼久邸に)攻め向かう」と訴え申したそうだ。
「注釈」
「今御瀧」