周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

永井文書(完)

解題

 この和与状は、文政十一年(一八二八)の写文書と同紙に記された解説によると「右之書者永井氏先祖城主タリシ時、知行所境論イタシ、北条家へ強訴及ヒ京都六波羅より被下御教書之由ニ而、代々持来候、」とある。しかし本文書は、当事者間での和与を書きとめたものであって、六波羅からのものではない。

 その他数多くの文書は、宝暦六年(一七五六)の大風雨の時に、雨にぬれ、くさりはてたという。

 

 

   一 藤原氏代使源光氏藤原親教連署和與状

 

  和与

     高田郡

   安藝國三田新庄上村与下村堺事

  條々

 一田畠堺事

                      (郎四郎) (頼直ヵ)

  右互可前御使下妻孫次郎入道浄一熊谷三[  ]入道行蓮之牓示者也、

  但就當御使小早河美作前司忠茂武田孫四郎泰繼之復撿、自下村

  取出之田畠三分之一者、吉氏屋敷中分之時、以下村分之田畠

  上村由事、相互和与之上者、不子細

 一山野堺事

  右自河以東者、自七曲道上者可柚木谷也(割書)「安駄与布山

  間也」、但布山并平等寺兩狩倉西之堺者、自七曲平等寺大谷者可

  限道者也、自大谷北者、上原源次郎林西際江直仁通天可堺也、次

            (行)

  友安名栗林者、上村當知⬜︎之上不相違者也、次平等寺布山兩狩倉

      (堺)(西ヵ)

  (割書)「⬜︎以⬜︎」栗林替者、吉氏之屋敷中分之時、以下村分之田伍段

  付上村者也、

 一小押越狩倉内目籠大丸小丸可上村、但件堺者、限西倉橋木道

  限南北大字通道也、

 一吉氏屋敷事

  右雖上村最中、相互以和与之儀、可中分知行者也、次吉氏

  押領分林事、兩方可等分之沙汰也、

 一八幡新宮神田事

  右同雖上村最中、以和与之儀耕作事神事段、任前御使

  之例、隔年一年通ニ可其沙汰

 以前條々、子細雖之、所詮永止相論之儀堺畢、此上若雖一塵

 越立置堺等相互令違乱者、爲上裁所領於一方者也、

 仍爲向後龜鏡和与之状如件、

     (1298)

     永仁六年五月 日     藤原氏代使源光氏(花押)

                  藤 原  親 教(花押)

       ○紙繼目ニ花押アリ

 

 「書き下し文」

  和与す

   安芸国三田新庄上村と下村の堺の事

  條々

 一つ、田畠堺の事

  右、互いに前の御使下妻孫次郎入道浄一・熊谷三郎四郎入道行蓮の牓示を守るべき者なり、但し当御使小早河美作前司忠茂・武田孫四郎泰継の復検に就き、下村より取り出ださるる所の田畠三分の一は、吉氏屋敷中分の時、下村分の田畠をて上村に付けらるべき由の事、子細申すに及ばず、

 一つ、山野堺の事

  右、河より以東は、七曲より道上は柚木谷を限るべきなり(割書)「安駄と布山との間なり」、但し布山并に平等寺両狩倉西の堺は、七曲より平等寺に至る大谷は、道を限るべき者なり、大谷より北に向かふことは、上原源次郎の林の西際へ直に通りて堺すべきなり、次いで友安名の栗林は、上村当知行の上相違有るべからざる者なり、次いで平等寺布山両狩倉(割書)「堺以西」栗林の替えは、吉氏の屋敷中分の時、下村分の田伍段を以て上村に付くべき者なり、

 一つ、小押越狩倉の内目籠大丸・小丸は上村に付けらるべし、但し件の堺は、西は倉橋の木道を限り、南北は大字通道を限るなり、

 一つ、吉氏屋敷の事

  右、上村最中たりと雖も、相互に和与の儀を以て、中分知行せしむべき者なり、次いで吉氏押領分の林の事、両方等分せられるべきの沙汰なり、

 一つ、八幡新宮神田事

  右、同じく上村最中たりと雖も、和与の儀を以て耕作と云ひ神事の段と云ひ、前の御使の例に任せ、隔年一年通りに其の沙汰せらるべし、以前の條々、子細之多しと雖も、所詮永く相論の儀を止め堺を定め畢んぬ、此の上若し一塵と雖も、堺等を越え立て置き相互に違乱致さしめば、上裁として所領を一方に付けらるべき者なり、仍て向後亀鏡として和与の状件のごとし、

 

 「解釈」

 和解した安芸国三田新庄上村と下村の堺のこと。

  条々。

 一つ、田畠堺のこと。

  右の堺について、互いに前の御使下妻孫次郎入道浄一と熊谷三郎四郎入道行蓮が定めた榜示を守らなければならない。ただし、現在の御使小早川美作前司忠茂と武田孫四郎泰継の再検視により、下村から選び出された田畠三分の一は、吉氏の屋敷地を中分するときに、この下村分の田畠をもって上村に渡すべきことについては、事情を申すまでもない。

 一つ、山野堺のこと。

  右の堺について、三篠川より東、七曲から道上の間は柚木谷で堺を限るべきである。「安駄と布山との間である。」ただし、布山と平等寺の両狩倉の西の堺、七曲から平等寺に至る大谷は、道を堺にするべきものである。次いで友安名の栗林は、上村が当知行しているので、相違あるはずもないのである。次いで平等寺と布山の両狩倉「堺は以西」の栗林の替えは、吉氏の屋敷地を中分するとき、下村分の田五段をもって上村に渡すべきものである。

 一つ、吉氏屋敷のこと。

  右の屋敷地は、上村の当知行であるけれども、互いに和解の取り決めによって、中分し知行するべきものである。次いで、吉氏押領分の林のことは、両方で等分せよという裁許である。

 一つ、八幡新宮神田のこと。

  右の神田は、同じく上村の当知行であるけれども、和解の取り決めによって、耕作も神事も前の御使が定めた先例のとおりに、上村と下村は隔年で勤めなければならない。

 以前の取り決めには、多くの事情があるけれども、結局のところ永久に相論を止め、堺を決めた。この上、もし少しでも堺を越えて榜示を立て置き、秩序を乱すならば、厳島神主の裁許として、所領を上村か下村のどちらか一方に渡すべきものである。そこで、今後の証拠として、和与状の内容は以上のとおりである。

 

 「注釈」

「三田新庄」─高田郡。現在の広島市安佐北区白木町三田・秋山付近を領域とした厳島

       社領。永仁六年(一二九八)五月の三田新荘藤原氏代源光氏・藤原親教

       和与状によれば、三田新荘は上村(秋山)・下村(三田)に分かれ、そ

       れぞれに藤原姓を名乗り厳島社神主の諱「親」を用いる領主の存在して

       いたことが知られる(「永井操六氏所蔵文書」)。南北朝期の下村領主

       一族の譲状や菩提所正覚寺への位牌料所の寄進状などにも掃部頭親貞・

       前能登守親冬・宮内少輔親房の名が見え、彼らと厳島社神主家との深い

       交渉の様子をうかがわせている(「己斐文書」)。三田新荘は、比較的

       早期に預所職を梃子とする神主一族の在地領主化が図られた厳島社一円

       社領であったと考えられる(『講座日本荘園史9 中国地方の荘

       園』)。

「小越村」─安佐北区白木町小越村。市川村の三篠川を境に東対岸に位置し、南はその

      支流を挟んで秋山村に接する。高田郡に属し、古くは秋山村と一村であっ

      たともいう。「芸藩通志」に「広三十町、表十五町、東北は山高く、西南

      は平田にて、川を界す、民産、工商あり」とある。承安三年(1173)

      二月日付の安芸国司庁宣(厳島文書御判物帖)に「三田郷内尾越村為伊都

      岐島御領、知行民部大夫(佐伯)景弘事」とあり、続けて「右件三田郷内

      尾越村者、任文書相伝之理、為神主景弘朝臣地頭寄進伊都岐島御領、於官

      物者、弁済国庫、以万雑公事代、可令勤仕神役之状、所宣如件」とあり、

      他の三田郷内の村々と同様、平安時代末期には厳島神社領として万雑公事

      代を神社に納めることになっている。一方で、鎌倉時代中期のものと思わ

      れる安芸国衙領注進状(田所文書)には「小越村二丁一反斗」とあり、

      「除不輸免二丁一反斗」として「実相寺馬上免一反斗、同例免五反、鎌倉

      寺免五反、惣社仁王講免一丁」と記される。なおこの頃小越村の地は厳島

      神社領三田新庄にも属したらしく、同庄の上村と下村の村境の和与を記し

      た永仁六年(1298)五月日付の藤原氏代使源光氏藤原親教和与状(永

      井文書)に「小押越狩倉内目籠大丸小丸可被付上村」とある。この「小押

      越」が小越村のことかと思われるが、この和与状に記される地名を現在地

      に比定すると、三田新庄上村はおおよそ現白木町秋山地区、下村が原三田

      地区と考えられる。(中略)居拝見にある中山神社は、「国郡志下調書出

      帳」に中山八幡社と記され、勧請年月は不詳であるが、寛永七年(163

      0)再建の棟札があると記される。同書出帳は他に吉井権現社・山根荒神

      社を記し、実相寺という地名が残り、観音堂一宇があると記すが、これは

      前記国衙領注進状に見える実相寺の跡地と思われる(『広島県の地

      名』)。

 

*田畠堺と山野堺の記載については、ほとんどわかりませんでした。