周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

流浪の果てに…

  宝徳二年(1450)八月十三日条 (『康富記』3─198頁)

 

 十三日甲申 雨下、

  (中略)

 富樫被官人本折主計與兄絶行、一両年令流浪、近則爲鵜高寄人云々、今日富樫令人打

 之、折節甘露寺左中辨亭立入、臥下女局之時打之取頸云々、依之左中辨亭令触穢

 云々、

 

 「書き下し文」

 十三日甲申、雨下る、

  (中略)

 富樫被官人本折主計兄と絶行し、一両年流浪せしむ、近くは則ち鵜高寄人たりと

 云々、今日富樫人をして之を打たしむ、折節甘露寺左中弁亭に立ち入り、女局に臥せ

 下るの時之を打ち頸を取ると云々、之に依り左中弁亭触穢せしむと云々、

 

 「解釈」

 富樫成春の被官人本折主計は兄と絶交し、一、二年流浪していた。最近では鵜高の寄人であったそうだ。今日、富樫成春が被官人に本折主計を討たせた。ちょうどその時、本折主計は甘露寺親長の屋敷に立ち寄っていた。甘露寺親長に仕える女房の部屋で横になっていたときに、本折主計を討ち、首を取ったそうだ。これにより、甘露寺邸は触穢になったそうだ。

 

 「注釈」

「富樫」─加賀北半国守護富樫成春。

 

「近則」─書き下しがよくわかりません。

 

「鵜高」─和泉半国上守護細川常有の被官。

 

甘露寺左中弁」─甘露寺親長。

 

「女局」

 ─未詳。甘露寺に仕える女房の部屋か。続く十八日条には、「甘露寺左中辨臺所隠居時分」という記載があります。「臺所」がそのまま台所の意味なら、女房の部屋ではなく、「甘露寺親長邸の台所に隠れていた」という意味になりそうです。甘露寺親長やその女房と、本折主計はどのような関係であったのか、よくわかりません。

 

 

  宝徳二年(1450)八月十八日条 (『康富記』3─201頁)

 十八日己丑

  (中略)

 加賀主護代本折﹅﹅相語賊等、今日誅戮弟本折主計允云々、折節甘露寺左中辨臺所隠

 居時分也、取首云々、

 

 「書き下し文」

 十八日己丑、

  (中略)

 加賀守護代本折﹅﹅賊らを相語らひ、今日弟本折主計允を誅戮すと云々、折節甘露寺

 左中弁台所隠居の時分なり、首を取ると云々、

 

 「解釈」

 加賀守護代本折何某が賊を仲間に引き入れ、今日弟の本折主計允を誅殺したそうだ。ちょうどそのとき、甘露寺親長邸の台所に隠れていたときだった。首を取ったそうだ。

 

 「注釈」

「隠居」─「隠れていた」ぐらいの意味か。

 

 

  宝徳二年(1450)八月二十七日条 (『康富記』3─212頁)

 廿七日戊辰 晴、或語云、和泉半国守護細川刑部少輔被官人鵜高、去夏比歟、為主欲

 被誅戮之處、落失了、此間可赦免之由申之、出抜呼寄、今朝於惣領京兆屋形邊被討

 之、兄弟従類廿人許矢庭殺害云々、

 

 「書き下し文」

 二十七日戊辰、晴る、或る人語りて云く、和泉半国守護細川刑部少輔被官人鵜高、去

 んぬる夏比か、主として誅戮せられんと欲するの処、落失し了んぬ、此の間赦免すべ

 きの由之を申す、出し抜けに呼び寄せ、今朝惣領京兆屋形辺りに於いて之を討たる、

 兄弟従類二十人ばかり矢庭に殺害すと云々、

 

 「解釈」

 二十七日戊辰、晴れた。ある人が語って言うには、「和泉半国守護細川刑部少輔常有は被官人鵜高を、去る夏頃か、主人として誅殺なさろうとしたが、逃亡されてしまった。鵜高が逃亡している間、赦免するのがよいと申し上げた。不意に鵜高を呼び寄せ、今朝惣領である京兆家細川勝元の屋敷辺りで、鵜高を討伐した。鵜高の兄弟・一族や被官人ら二十人ほどを不意に殺害したそうだ。

 

 「注釈」

「鵜高」─和泉半国上守護細川常有の被官。

「主」─細川常有のことか。

 

*それほど重要なことではないのかもしれませんが、逃亡・逐電した人間はどんな生活をしていたのか、個人的にものすごく気になったので、この記事に注目してみました。きちんと解釈できなかったところも多いのでよくわからないのですが、中世人の逃亡がどんなものだったのか、少しは状況が明らかになります。

 どんな理由かわかりませんが、加賀守護代本折某と弟の本折主計允は絶交し、弟は逃亡してしまいます。自らの所属する共同体から離れてしまうことは、生きる糧(諸権益)を失ってしまうことになるはずなので、かなり勇気のいる行動だと思います。逃亡すると野垂れ死にすると思っていたのですが、どうもそうではないようです。一つのパターンとして、逃亡後に出家・自害することも考えられますが、この本折主計允は一年ほどの流浪の後、細川常有被官鵜高の寄人になっていました。流浪中にどのような生活をしていたのか気になるのですが、他家を転々としていたのかもしれません。それにしても、他家で問題を起こし、逃亡した人物を、よくも抱え込んだものだと思います。鵜高は揉め事があったのを知らなかったのでしょうか。それとも知っていて受け入れたのでしょうか。こうした事情がはっきりすると、当時の慣習が明らかになるのですが。

 さて、本折主計允は、元の主である加賀守護富樫成春と守護代の兄に所在をつかまれ、甘露寺親長邸で殺害されてしまいます。本来なら、鵜高は自分の寄人を殺害されたわけですから、本折家と揉めてもよさそうなのですが、そうした記載はありません。記主の中原康富が書かなかっただけかもしれませんが、中世では個人の揉め事が家どうしの揉め事に変化することがよくあるので、そうした記事がないことは不思議です。私の解釈が間違っていなければですが、むしろ本折主計允を寄人とした鵜高のほうが、主人の細川常有から誅殺されてしまいます。本折主計允を寄人にした責任を問われたのかもしれません。いったい、裏でどんな政治的な取引があったのでしょうか。それもと、本来の主人の生殺与奪権が、新しい主人よりも優先されるのでしょうか。いずれにせよ、よくわかりません。が、逃亡者はしぶとく生き延びることがある、ということだけはわかりました。