解題
田所氏は、本姓佐伯氏で平安時代後期から安芸国衙在庁官人として田所文書執行職を世襲した家である。一号文書は鎌倉中期ころの安芸国衙領の状態をしめしている。府中を中心とする郡・郷・村・名がいずれも並列的に記載され、おのおのの田積をあげ、応輸田と不輸田に分け、後者は各免田ごとに記している。
二号文書はその前半には船所惣税所得分以下田所氏の相伝する得分、府中・船越村・原郷・三田郷その他所々に散在する数十町の田畠が書き上げられ、後半には同氏の所従が列挙されたものであり、在庁官人田所氏の財産を知ることができる。異筆ながら正応二年(一二八九)の年紀があるが、その内容は数十年さかのぼった時期の事情をも示している。
なお、『楓軒文書纂』五十四(国立公文書館内閣文庫蔵)に、天明五年(一七八五)における田所氏所蔵の文書目録が収められているので、以下その全文を掲げる。(以下に目録が続きますが、省略しました)
一 安藝国衙領注進状 その1
「 ⬜︎乗五反 今者良賢
(暹ヵ)
「 ⬜︎⬜︎五反 今者寛乗
] 宗海一丁
⬜︎立免 信家
[ ]三反六十歩
村十丁一反六十歩
(抹消)
六反大
時宗三反[ ] 祝師二反
中内三反 宗迫一反大
(最勝講ヵ)
[ ]免五反 道寂
感神院社免三反
久家一反
石屋寺免一丁
⬜︎人給免二丁一反
] ⬜︎利
]免五反 如願跡 今者覺源
] [ ]
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏半花押)
員恒二反 今助員 友重二反
宗員二反 今有⬜︎ 貞安一反
此物免一丁小
末延七反 貞弘三反小
上世乃正木[ ]小
[ 貞弘三反小
仁王講免一丁[ 羕兼
修理免三反
日吉大宮免五反
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)
氏吉三反 末弘二反
水別社仁王講免三段 有冨
熊野上分田三反大 公俊
府白山免五反 氏吉
諸寺免一丁三反
三昧堂免二反
安養寺七反
五ヶ寺[ ]
梶取免一丁二反六十歩
時宗四反三百歩 恒員四反
眞安二反 安弘一反小
(造府)
⬜︎⬜︎所免二丁三反
武宗一丁八反 守弘五反
鍛冶免八反 清眞
(末國ヵ)
狩飼⬜︎⬜︎免一丁一反
水守四反
逓送田五反三百歩
新勅旨田七丁八反大
本勅旨田二十丁
六 『八』(半 以下同ジ)
應輸田二十七丁三反斗
(代)
別結解宮吉一丁八反三百歩 六斗二升七合⬜︎
(諸別符二十)
⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎[
(清ヵ) (佐西ヵ)
高⬜︎ 『⬜︎⬜︎孫三郎』 遠清二反
在廳屋敷一丁 有光
御厩案主免三反大 有福
國役人給免十丁五反三百歩
紙免一丁三反
有冨一丁 守護押領 爲光三反 諸社
温屋免八反
得重三反小 地頭押領 弥吉三反小
今冨一反小 同
國掌免七反
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏半花押)
法師丸一反 有光三反
(諸)
⬜︎寺社大般若経免[ 有冨
御舘長日講経免一丁二反
⬜︎慶六反 有暹六反
内侍免一丁四反斗
木子二反 凡子三反斗
石子三反 三子三反
光子三反
舞人免一丁
爲光五反 元助行 清正五反
倍従免一丁百⬜︎⬜︎((廿歩))
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏半花押)
つづく
*書き下し文・解釈は省略。
「注釈」
「感神院社」─祇園感神院(京都市の八坂神社)から勧請されたものか。
「石屋寺」─未詳。
「仁王講」─「仁王会」。仁王経を講讃し災難をはらう法会。七世紀後半に始まり、平
安時代に年中行事化した。二、三月と七、八月に行われる春秋二季仁王会
と臨時仁王会がある(『古文書古記録語辞典』)。
「日吉大宮」─現在の滋賀県大津市の日吉大社西本宮(旧大宮・大己貴神)を勧請した
ものか。
「水別社」─「水分社」のことか。「みくまりの神」は「流水の分配をつかさどる
神」、「水分神社」は「旱天に雨を祈る農耕の神を祀った神社」(『日本
国語大辞典』)。
「熊野上分田」─熊野三社への初穂米を納めるために年貢を免除された田か(網野善彦
『日本中世の百姓と職能民』)。
「三昧堂」─仏語。僧が籠もって法華三昧または念仏三昧を修する堂。多くは法華三昧
堂をいう(『日本国語大辞典』)。
「安養寺」─未詳。
「梶取」─船の舵を取り操るもので、挟抄、柁師とも書く。水手を指揮し、国衙領・荘
園の官物・年貢の輸送に当たった。給免田を給与されているものもあった
(『古文書古記録語辞典』)。
「造府所」─国衙を造営・修造するための免田か。
「狩飼」─未詳。狩猟場のことか。
「水守」─未詳。用水路、あるいは川堤の管理者か。
「逓送田」─宿場から宿場へ順々に送ること。宿継で送ること。伝送。逓伝(『日本国
語大辞典』)。伝馬や飛脚のような通信システムの運営費を捻出する田
か。
「勅旨田」─勅旨によって設定された田地。開発・経営には正税・公水を用いた。寺社
に施入されたり貴族に与えられた例が多い。八〜九世紀の水田開発政策の
一環と見ることができるが、面積の広大さにもかかわらず、多くは空閑
地・荒廃地であって、経済的意義は小さいとする見方もある(『古文書古
記録語辞典』)。
「応輸田」─国衙の課役が賦課される田地。
「温屋」─温室・湯屋のことか。「温室」は「湯屋、湯殿。室町時代の字書には『温
室 ウンシツ 風呂也』とある」。「湯屋」は「入浴施設のある建物。温室
院ともいう。東大寺・法華寺などに古い湯屋が現存している」(『古文書古
記録語辞典』)。湯屋とは沸かした湯を浴びる場をさし、これと類似した言
葉である風呂とは蒸気を浴びる蒸風呂を指すのが本来の語義である。しかし
両者は早くに混用されるようになっており、温室・浴堂などの言葉も用いら
れた(国立歴史民俗博物館『中世寺院の姿とくらし』)。
「国掌」─九世紀半ば頃から諸国に設置された中央の官掌、省掌と同様な官。その職掌
は、「訴人を通伝し、使部を検校し、官府を守当し、庁の事を舗設する」。
定員二人で把笏を許され給田が与えられた(『古文書古記録語辞典』)。
「御舘長日講経」─国府で催される数日にわたる法会か。
「内侍」─内侍司の女官の総称。内侍司は天皇の日常生活に供奉し、奏請・宣伝のこと
を掌る官司。尚侍(二人)、典侍(四人)、掌侍(四人)、女孺(一〇〇
人)よりなる(『古文書古記録語辞典』)。ここでは、国衙に仕える女官の
給免田と考えておきます。
「倍従」─①天皇の行幸に付き従うこと、またその人。②賀茂社・石清水社・春日社な
どの祭礼における神楽・東遊びに奉仕した楽人(『古文書古記録語辞
典』)。ここでは、国衙の祭礼に奉仕した地方の楽人への給免田と考えてお
きます。
*田所恒之助「地域の歴史と文化の学習」(『UEJジャーナル』14、2014・9、http://www.uejp.jp/pdf/journal/14/22_tadokoro1.pdf)参照。
平安時代後期当地に進出したとされる田所氏は、最有力在庁官人に成長し、周辺にも勢力を及ぼしていった。しかし、南北朝の内乱で南朝方に属したため衰退、代わって府中の支配者となるのは白井氏である。同氏は応永年間(1394〜1428)下総国から入部したと伝え、拠城は出張城。白井氏は終始守護武田氏と結び、天文十年(1541)大内氏に滅ぼされたといわれる。その後府中は大内氏家臣で銀山城(跡地は現広島市安佐南区)城番の麻生土佐守の知行地であったが(年欠八月十三日付「陶隆房書状」お茶の水図書館成簣堂文庫所蔵白井文書)、天文二十一年以降は毛利氏の領するところとなった(同年二月二日付「毛利元就同隆元連署知行注文」毛利家文書)。なお、中世の府中の所属は佐東郡(永禄十一年十一月二十五日付毛利元就宛行状「閥閲録」所収山県弥三左衛門家文書)とも安南郡(天文二十四年三月十四日付毛利元就宛行状「譜録」所収井上定之家文書)ともいわれた。
鎌倉中期ごろの安芸国衙領注進状(田所文書)には府中所在の諸社として惣社・八幡宮・水分神社以外に角振(つのふり)社・椙樌(すぎもり)社・辻道祖神などがみえる。角振社は「安芸国神名帳」に角振隼総(つのふりはやぶさ)明神とみえ、天文年中に破壊され、前記注進状にみえる末社の山王社(現本町三丁目の三翁社)に合祀したという(芸藩通志)。椙樌社は現山田二丁目付近に「杉ヶ森」の地名が残っているようで(「芸藩通志」所載絵図)、辻道祖神は「安芸国神名帳」の道通(みちとおり)明神で現本町三丁目にある導神社(通称「辻のいぼ落し」)であろう。現山田一丁目の浄土真宗本願寺派竜仙寺は正徳二年(1712)府中村寺社堂古跡帳(宗像正臣氏蔵)では明応年中(1492〜1501)の開基とするが、もと真言宗で大永三年(1523)改宗したとも伝える。出張城跡東の吸江庵(現宮の町三丁目)は毛利氏八箇国時代分限帳(山口県文書館蔵)によると、毛利氏から六石余の寺領を認められ、このほかに花蔵寺や江本寺・海蔵寺などの名もみえるが、いずれも近世までに退転し、小堂のみとなったり地名に名を残すだけとなっていた(竜仙寺過去帳、国郡志下調書出帳)。