周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

田所文書1 その10

    一 安藝国衙領注進状 その10

 

  (東)

  『⬜︎寺勸學院管領

   三田郷九町 被庄号之間、除今度文書了、

            (半)

    除不輸免五丁五反斗

     崇道天皇免百八十歩

     八幡宮御神楽免一丁五反

     角振社御供田        有福

     鎌倉寺免五反

     倍従免二反         弘眞

     公廨田三丁

      久武一丁         助包一丁

      貞助一丁

           (半)

    應輸田三丁四反斗

     乃米五斗代六反

              (半)

     乃米三斗代二丁八反斗

   三田(高田郡   (半)

   同小越村二丁一反斗

            (半)

    除不輸免二丁一反斗

             (半)

     實相寺馬上免一反斗

     同例免五反

     鎌倉寺免五反

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

     惣社仁王講免一丁      観念跡

   三田(高田郡

   同久武二丁二百歩

    除八幡宮無量壽院免一丁六反三百歩

    應輸田四反

     五斗代二反

     例代二反

   高田郡

   志道村六丁六反大

    除不輸免二丁四反三百歩

             (半)

     八幡宮免一丁一反斗     智保

     府守社免一反小       今冨

     瀧蔵寺免三反        弥冨

     吉祥御願六反

      友宗三反         宗重三反

     代官免三反         包恒

    應輸田四丁一反三百歩

     五斗代一丁      四斗代一丁一反小

         (半)

     例代二丁斗      加畑七反定

   (山縣郡)

   河戸村二分方八丁七反大卅歩

    平田押領二丁一反小

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

    除不輸免(三丁反) 三丁七反

     公廨田二反) 三丁二反

            今者

     今冨一丁五反 𣃥⬜︎     遠繼七反

     信覺五反          (孫一丸五反入广輸)孫一丸五反

    清書免四反          良高

    國掌免一反          貞末

   應輸田反小卅歩

    官米五斗代七反        同三斗代九反

    三斗代(一丁反小卅歩)     一丁三反小卅歩

 『中分以後依不治定丸以本丸令備進之』

           (半)

  同村一分方四丁二反斗廿歩

   平田押領一丁大

   除不輸免一丁一反

    公廨田九反

     今冨五反 今者弥冨      遠繼三反

     信覺一反

    清書免一反          良高

    國掌免一反          重近跡

          (廿ヵ)

   應輸田二丁三百⬜︎歩

 

    官米五斗代三反小       同三斗代

           (半)

    三斗代一丁三反斗

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

 『[ ]管領

  高田郡

  井原村十六町三反大 一宮御領之間、於今度者除上覧文書了、

   除不輸免三丁四反

    即新宮免一丁七反

    一宮神官恪勤免一丁      友宗

    角振社御祭田七反

   應輸田十二丁九反大       三斗代

 

  右、太畧注進如件、

     三月  日           大判官代(花押)

       ○以上、一巻

 

   おわり

 

*書き下し文・解釈は省略。

 

 「注釈」

「鎌倉寺」

 ─小越村(現広島市安佐北区)との境、鎌倉寺山山上には鎌倉寺があって、「高田郡村々覚書」に「鎌倉寺一宇、堂八尺四面、本尊文殊、宗旨者禅宗之由、毛利御時代は大寺之由、開起之由来知れ不申」とあるが、現在は小堂のみ。鎌倉中期と考えられる安芸国衙領注進状(田所文書)の「三田郷九町」のなかに「鎌倉寺免五反」とある寺と思われる。村内の拝みと呼ぶ地の水田八反が鎌倉寺領であったが、福島氏時代に没収されたと伝える(「有留村」『広島県の地名』)。

 

「小越村」

 ─安佐北区白木町小越村。市川村の三篠川を境に東対岸に位置し、南はその支流を挟んで秋山村に接する。高田郡に属し、古くは秋山村と一村であったともいう。「芸藩通志」に「広三十町、表十五町、東北は山高く、西南は平田にて、川を界す、民産、工商あり」とある。承安三年(1173)二月日付の安芸国司庁宣(厳島文書御判物帖)に「三田郷内尾越村為伊都岐島御領、知行民部大夫景弘事」とあり、続けて「右件三田郷内尾越村者、任文書相伝之理、為神主景弘朝臣地頭寄進伊都岐島御領、於官物者、弁済国庫、以万雑公事代、可令勤仕神役之状、所宣如件」とあり、他の三田郷内の村々と同様、平安時代末期には厳島神社領として万雑公事代を神社に納めることになっている。一方で、鎌倉時代中期のものと思われる安芸国衙領注進状(田所文書)には「小越村二丁一反斗」とあり、「除不輸免二丁一反斗」として「実相寺馬上免一反斗、同例免五反、鎌倉寺免五反、惣社仁王講免一丁」と記される。なおこの頃小越村の地は厳島神社領三田新庄にも属したらしく、同庄の上村と下村の村境の和与を記した永仁六年(1298)五月日付の藤原氏代使源光氏藤原親教和与状(永井文書)に「小押越狩倉内目籠大丸小丸可被付上村」とある。この「小押越」が小越村のことかと思われるが、この和与状に記される地名を現在地に比定すると、三田新庄上村はおおよそ現白木町秋山地区、下村が原三田地区と考えられる。(中略)居拝見にある中山神社は、「国郡志下調書出帳」に中山八幡社と記され、感情年月は不詳であるが、寛永七年(1630)再建の棟札があると記される。同書出帳は他に吉井権現社・山根荒神社を記し、実相寺という地名が残り、観音堂一宇があると記すが、これは前記国衙領注進状に見える実相寺の跡地と思われる(「小越村」『広島県の地名』)。

 

「志道村」

 ─安佐北区白木町志路。永承七年(一〇五二)三月二十日付田口代武田畠売券(新出厳島文書)に「三田郷内志道村」とあるのがのちの志路村で、応徳二年(一〇八五)三月十六日付の高田郡司藤原頼方所領畠立券文(同文書)に三田郷のうちとして「志道村」が記され。字名として「とゝろ木・太木田・段冶原・仁恵谷・かたと田」などが見える。すなわち「和名抄」記載の古代の三田郷に含まれるが、鎌倉中期ごろとされる安芸国衙注進状(田所文書)には「志道村六丁六反大」とあり、「不輸免二丁四反三百歩」のうちには「八幡宮免一丁一反斗・府守社免一反小・瀧蔵寺免三反」などが記されている。中世末期には毛利氏の一族坂氏より出た志道氏が居住しており、「閥閲録」所収の志道太郎衛門家書上には「芸州高田郡志道村ニ致在居候付、以邑名改志道申候」とある。また同書所収同家文書には天正年間(一五七三─九二)の志道村知行安堵の判物が載る。(中略)前記国衙領注進状に「瀧蔵寺」と記される寺は古く竜蔵寺山にあり、「高田郡村々覚書」に「先年ハ坊数拾弐坊、下寺御座候由、何年以前より退転仕候も知レ不申候」とある(『広島県の地名』。

 

「河戸村」

 ─山県郡千代田町江の川の支流可愛川流域に位置する。平安末期〜戦国期に見える村名。安芸国山県郡のうち。嘉応3年正月日伊都岐島社領安芸国壬生荘立券文に記された壬生荘四至の北限は「春木谷并志野坂川戸村訓覔郷堺」とあり、牓示の1つは壬生荘の艮方猪子坂峰并川戸村西堺にうたれていた(新出厳島文書)。乾元2年7月26日の六波羅御教書によれば、田所資賢の訴えを受けて、公廨田と雑免所当米の抑留停止が、「河戸村一分地頭」に命ぜられている(藤田精一氏旧蔵文書)。鎌倉期の安芸国衙領注進状には、「河戸村二分方八丁七反大卅分」「同村一分方四丁二反半廿歩」とあり、ともに「平田押領」と記され、平田氏が地頭であったと思われる。また、公廨田に田所氏の仮名今富・弥富が見られることから田所氏と関係深かったものと思われる(田所文書)。正平6年10月3日の常陸親王令旨には、「河戸村国衙分〈一分、二分〉」とあり、兵粮料所として、田所信高に宛行われている(芸備郡中筋者書出)。享徳2年12月30日、管領細川勝元は、河戸村を吉川経信と争っていた綿貫光資に与えるよう武田信賢に命じ、翌正月11日に沙汰付られた(閥閲録126)。康正2年6月1日の武田信賢書状に「河戸村之内国衙分」翌日付の氏名未詳書状に「河戸村国衙事」とあり、吉川元経に預け置かれている(吉川家文書)。一方、綿貫左京亮は、文明8年9月19日、河戸総領職を嫡孫長松丸に譲った(同前)。大永4年3月5日の吉川氏奉行人連署宛行状が、「北方内阿(河)戸」を給分として3丁1反を石七郎兵衛尉に、その死後享禄4年4月28日吉川興経は遺領を石七郎三郎に宛行っている(藩中諸家古文書纂)。天文19年2月16日、吉川元春は河戸の内生田9反半等を井上春勝に、河戸内石クロ9反大等を黒杭与次に(同前)、柏村士郎兵衛尉に河戸之内六呂原内いちふ田1町、同年3月13日に河戸之内実正田1町を宛行った(吉川家文書別集)。よく天文20年3月3日には武永四郎兵衛尉に河戸の内田1町が宛行われている(同前)。永禄4年と思われる3月11日の吉川元春自筆書状に「大朝新庄河戸之衆」と見え(二宮家旧蔵文書)、永禄12年と見られる閏5月28日の筑前国立花城合戦敵射伏人数注文に、河戸の彦四郎らが見え、元和3年4月23日の吉川広家功臣人数帳にも「川戸ノ彦十郎」らの名がある(吉川家文書)。天正19年3月のものと思われる吉川広家領地付立に、「参百貫 河戸」と見え(同前)、同年11月19日、河戸村の田2丁5反330歩、畠5反小、屋敷4か所合わせて14石5斗7升2合が増原元之に打渡された(譜録)。翌日付の河戸村打渡坪付には、すな原・三反田・つい地・はい谷・奥はい谷・めうと岩・むねひろ・大倉・猿岩・かきだ畠の地名が見える(閥閲録遺漏1─2)(『角川日本地名大辞典 広島県』)。山県郡山県郡千代田町川戸に比定される国衙領安芸国衙領注進状では二分方と一分方に分かれている(「田所文書」)。乾元二年(一三〇三)七月二十六日の六波羅御教書によれば、田所資賢の訴えをうけて公廨田と雑免所当米の抑留停止が河戸村一分地頭に命ぜられている(「藤田精一氏旧蔵文書」)。国衙領注進状には二分方・一分方ともに「平田押領分」の記載があり、この平田氏が当村の地頭と目される。公廨田の中に田所氏の仮名今富・弥富が見えるように、当村はもともと同氏との関係が深く、南北朝期には常陸親王令旨によって田所新左衛門尉(信高)に兵粮料所として充行われている(同上、「芸備郡中筋者書出所収文書」)。一五世紀半ばごろには、河戸村の領知をめぐって綿貫光資と吉川経信との間に係争が起きている(『萩藩閥閲録』、『吉川家文書』)(『中国地方の荘園』吉川弘文館)。

 

「井原村」

 ─安佐北区白木町井原。「和名抄」に記す高田郡三田郷のうちで、寛治三年(一〇八九)十月九日の散位佐伯忠国田地売券(野坂文書)に「合肆段 在三田郷井原村字斗前坪 四至東限公田 南限友垣田 北限山道 南限斗前」とある。またこれより四年前の応徳二年(一〇八五)三月十六日付の高田郡司藤原頼方所領畠立券文」(新出厳島文書)に「先祖相伝所領畠」と記されている三田郷内の「熊埼村・小田村・佐々井村・高山村・大寺村」は、いずれも井原村内に小字として地名が残る。なかでも佐々井村は古く治暦二年(一〇六六)三月二日付中原実安田地売券(酒井清太郎氏所蔵厳島文書)に「三田郷佐々井村字桑田」と見え、散位中原実安が佐々井村内の田を郷司藤原朝臣(守遠か)に売り渡している。また寛治三年四月五日の橘頼時が、佐々井村の相伝所領田を売却している。他の三田郷内の地と同様、井原村の地は十一世紀中期ごろには在庁官人の藤原氏が自己の所領として相続・譲与する地に含まれ、平安末期から中世初期にかけては藤原氏から源頼信、さらに厳島神社神領・佐伯氏という経緯をたどるが、寛元元年(一二四三)十一月日付の安芸国司庁宣案(新出厳島文書)には「可令早以一宮半不輸地井原村、限永代為一円当社領、造営未造舎屋等事」とあり、井原村はとくに厳島神社の未造舎屋の造営料地とされている。鎌倉時代中期とされる安芸国衙領注進状(田所文書)にも「井原村十六町三反大 爲一宮御領之間、於今度者除上覧文書了」と記される。一宮は厳島神社である。しかし厳島社領としての実際の領知はなかなか困難であったらしく、正応五年(一二九二)五月九日の厳島社神官等申状(新出厳島文書)では、井原村を「如元為一円神領、令営未造舎屋」ことを願い出ている。

 一方、「閥閲録」所収の内藤二郎左衛門家文書によれば、嘉暦二年(一三二七)「井原村地頭職内名田」が、内藤為綱より甥の泰廉に譲られており、暦応四年(一三四一)には内藤教泰が「安芸国長田郷地頭職并井原村一分地頭職」を安堵されている。なお同書所収井原孫左衛門家書上には「御当家越後国佐橋より芸州吉田え御移被成候時致随身、同国井原村え令下向、号井原高四郎師久」とあり、毛利氏の時代には在地名を負う井原氏のいたことが知られる。(中略)高瀬にある顕本法華宗高源寺は銀明山といい、承元三年(一二〇九)天台僧道正が有留村に開基したが、永禄三年(一五六〇)法華宗の僧日殷と宗意問答をし、ついに門とともに法華宗に帰し、末寺鎌倉寺を有留村に残しこの地に高源寺を創始したという(『広島県の地名』)。

 

*2019.1.17追記

 この史料を読むうえで参考になるのが、井原今朝男「中世の国衙寺社体制と民衆統合儀礼」(『中世の国家と天皇儀礼校倉書房、2012)です。

 安芸国で重要な寺社と考えられるのが、一宮(厳島神社)・松崎八幡宮惣社・天台五ヶ寺などです。一宮が約36町、松崎八幡宮が23町(無量寿院領を含む)、惣社が約6町、天台五ヶ寺が約10町と、それぞれの給田や免田が国衙領の中から設定されています。在庁官人田所氏は、国内寺社の神官や僧侶、国衙楽所の音楽集団・国衙工房の職人たちに経済的基盤を与えることで、最勝講・仁王講・大般若会・法華講などの護国法会を執行していたことがわかります。反対に言えば、国内寺社の神官や僧侶、楽人・舞人・職人らは、護国法会や年中行事に奉仕することで、給免田を得ていたことになります。

 安芸国の場合、一宮(宮島)・国分僧尼寺(西条)は国府から離れているため、在庁官人田所氏は、国府近辺、あるいは国府と交通の便のよい寺社(松崎八幡宮惣社・天台五ヶ寺など)を年中行事(地方行政)の拠点に設定したのかもしれません。一方で、松崎八幡宮惣社・天台五ヶ寺の神官や僧侶たちは、積極的に年中行事に奉仕することで国衙から給免田の指定を受けようとしたのではないでしょうか。

 それにしても気になるのが、松崎八幡宮の存在です。惣社よりも圧倒的に給免田数が多いことがわかります。惣社は、国司が巡拝の煩いをなくすために、国内の神社を合祀したもの、と説明されてきました(265頁)。したがって、護国法会や国衙祭祀を執行するにあたって重視しなければならないのは、惣社であるはずです。ところが、給免田数は松崎八幡宮のほうが多いのです。ひょっとすると、国内の神社を合祀した惣社で国内の安穏を祈るよりも、皇統の守護神石清水八幡宮の分社である松崎八幡宮で、玉体安穏を祈る方が大切だったのかもしれません。

 この史料や、次回から紹介する「沙弥某譲状」(『田所文書』2)によると、松崎八幡宮の年中行事には、「二季御祭(4・9月)」「臨時御祭」「四季御神楽」「大般若会」「仁王講」があります。一方で惣社の年中行事には、「二季御神楽(春・夏)」「四季仁王講」「法華講」があります。行事のすべてを記載しているとは限らないので、これだけではなんとも言えませんが、両者の共通点や相違点が明確になると、松崎八幡宮の歴史的特質がみえてくるのかもしれません。