周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

藤田精一氏旧蔵文書1

解題

 大正四年当時、広島陸軍幼年学校の教官であった同氏が所蔵していた文書である。

 

 

    一 六波羅御教書    ○以下三通、東大影寫本ニヨル

 

          (端裏書) (1275)

           「惣社 建治元年

                 九月十日」

 安藝國在廳上西清經并惣社三昧同一和尚承兼申、當國温科村地頭代能秀令

 名田屋敷取作毛由事、重訴状等如此、擬尋決之處、令難渋之間、且

 置論所於中、且以日参着到問注之由、先度加下知畢、而不

 用度々歸國之間、就召文上洛、或号地頭代淂替、或稱

                       (非ヵ)

 和与之由、不催促迯⬜︎之状、⬜︎普通之法、所詮任先下知状

 相副両方使者置作毛於中、来月十日以前可上洛、能秀若過

 期日者、殊可其沙汰候、仍執達如件、

                      (北條義宗)

    建治元年九月十日         左近将監(花押)

   美作三郎殿

   下妻孫次郎殿

 

 「書き下し文」

 安芸国在庁上西清経并に惣社三昧同一の和尚承兼申す、当国温科村地頭代能秀名田屋敷を押領し作毛を苅り取らしむる由の事、重訴状此くのごとし、尋ね決せんと擬するの処、難渋せしむるの間、且つうは論所を中に置き、且つうは日参着到を以て問注を遂ぐべきの由、先度下知を加へ畢んぬ、而るに叙用せず度々帰国するの間、召文に就き上洛せしめながら、或うは地頭代得替と号し、或うは和与せしむべきの由を称し、催促に従はず逃⬜︎の状、普通の法に非ず、所詮先の下知状に任せ、両方の使者を相副へ作毛を中に苅り置き、来月十日以前に上洛を催さるべし、能秀若し期日を過ぐれば、殊に其の沙汰有るべく候ふ、仍て執達件のごとし、

 

 「解釈」

 安芸国の在庁官人上西清経と、惣社三昧堂の僧で一の和尚でもある承兼が訴え申す、当国温科村の地頭代能秀が名田・屋敷を押領し、作毛を刈り取らせたこと。重訴状はこのとおりである。尋問し裁決しようとしたところ、論人が召喚に応じず裁判を遅らせるので、一方では論所を訴訟当事者の手に触れないように管理し、その一方で論人を裁判所に毎日参着させることで尋問して、主張を記録するべきであると、以前に命令を下した。しかし、論人はその命令を受け入れず度々帰国するので、召喚状によって上洛させようとするのだが、地頭代が交替したと主張したり、和解するつもりだと詐称したりして、召喚命令に従わず逃亡することは、普通のやり方ではない。結局のところ、以前の下知状のとおりに、両使が立ち会って作毛を刈り取り、来月十日以前に上洛することを催促するべきである。能秀がもし期日を過ぎるなら、厳しい処分が下されるはずです。そこで、以上の内容を下達する。

 

 「注釈」

惣社

 ─安芸国惣社のことか。安芸郡府中町本町3丁目に総社跡とある。明治七年に創設された多家神社への合祀を機に廃社となった(「安芸国」『中世諸国一宮制の基礎的研究』岩田書院、2000)。

 

「三昧同一和尚承兼」

 ─どう読んでよいかわかりません。おそらく、惣社に設置された三昧堂の僧侶で、第一位の僧である、という意味ではないでしょうか。

 

「温科村」

 ─東区安芸町温品。広島から東北方の高宮郡小河原村(現安佐北区)に至る谷の入口にあたる。安芸郡に属し、南は矢賀村、府中村(現安芸郡府中町)、西は稜線を境にして戸坂村・中山村にそれぞれ接する。北は蝦蟇ヶ峠を越えて細長い谷が矢口村(現安佐北区)に通じ、峠以北の谷も当村域に属した。村内を東北から西南へ温品川が貫流し、東には高尾山(424・5メートル)がそびえる。「芸藩通志」に「昔は此辺まで入海なりしよし、金碇とよぶ地、往年鉄錨を掘出せしといふ、其地一段許は、今に深泥幾丈を知らず、耕種牛を入ことを得ずといふ、また舟隠とよぶ地もあり、古の舟入なりしにや」とあり、府中村に近い字長伝寺には、金碇神社が鎮座する。

 建久九年(1198)正月日付平兼資解(「芸藩通志」所収田所文書)に「一所温品科方冬原」とあり、この土地の四至は「東限温科河 西依請浜 北限弥吉開発田 南限温科川依請」と記す。平安・鎌倉時代の温科村には六三町八反一二〇歩の国衙領があり、うち五四町七反余が不輸免で(年欠「安芸国衙領注進状」田所文書)、厳島社以下諸社寺の免田や、在庁官人田所氏の私領(一〇町余)などがあった(正応二年正月二十三日付「沙弥某譲状」同文書)。また平安末期に後三条天皇が設定した安芸国新勅使田に含まれる部分もあったらしく、弘長三年(1263)安芸国新勅使田損得検注馬上帳案(東寺百合文書)などにある。「久曾田三反小」は寛永十五年(1638)温品村地詰帳(広島市公文書館蔵)に見える字名「くそた」にあたる。

 承久三年(1221)関東武士平(金子)慈蓮が温科村地頭職に任じられた(同年十一月三日付「平盛忠譲状写」)以上毛利家文書)。金子氏は鎌倉時代は地頭代を派遣していたらしいが、(建治元年九月十日付「六波羅御教書」藤田精一氏旧蔵)、南北朝時代になると自ら温科村で押領を続け(嘉慶元年十月十一日付「室町将軍家御教書」東寺百合文書)、室町時代には温科氏を名乗るようになった。村の中央部温品川左岸の独立丘にある永町山城が温科氏の拠城といわれる(芸藩通志)。同氏は明応八年(1499)主君武田氏に背いて敗れた(同年八月六日付「室町幕府奉行人奉書」毛利家文書)。大永五年(1525)毛利元就は尼子・武田方から大内方に復帰、武田氏の治下にあった「温科三百貫」などを大内氏から与えられたが(年月日欠「毛利元就知行注文案」同文書)、武田氏滅亡後は大内氏領になったらしい(天文十年七月二十三日付「大内義隆預ヶ状写」同文書)。しかし天文二十一年(1552)元就は大内義隆を倒した陶晴賢から温科などの知行を認められた(同年二月二日付「毛利元就同隆元連署知行注文」同文書)。以後毛利氏は熊谷信直に温科半分を与えているのをはじめ(年未詳九月二十八日付「熊谷信直書状案」熊谷家文書)、家臣に給地を分与し、村役人として散使を置いた(「毛利氏八箇国時代分限帳」山口県文書館蔵)(『広島県の地名』)。

 

「重訴状」

 ─中世の裁判で提出される訴状で、二回目の訴状を二問状、三回目の訴状を三問状といい、二問状・三問状を総じて重訴状という(佐藤進一『新版 古文書学入門』法政大学出版局)。

 

「難渋」

 ─①訴訟当事者が裁判所の召喚に応じないなど、手続きをおくらせること。②年貢の納入をおくらせること(『古文書古記録語辞典』)。

 

「論所」─訴訟、相論の対象となった土地のこと(『古文書古記録語辞典』)。

 

「置〜於中」─〜をなかにおく。中世、幕府・朝廷の訴訟法で裁判所が係争中の目的物について訴訟当事者(訴人・論人)が手を触れないように命じること。たとえば稲は当事者双方が立ち会って刈り取り、倉庫に納めて封をし、所領は訴訟に無関係の第三者あるいは沙汰人百姓などに訴訟が落着するまで保管させた(『日本国語大辞典』)。

 

「殊可有其沙汰候」

 ─おそらく、「来たる十月十日以前に上洛しなければ、訴人の訴えのとおりに裁決する」ことを明記していると考えられます(石井良助「第一篇・第二章・第三款 召喚」『中世武家不動産訴訟法の研究』弘文堂書房、1938)。

 

「両方使者」

 ─両使のことか。訴訟に関する諸々の使命を執行するために任命・派遣された使節のこと。二人一組での行動が顕著であることから、研究史上「両使」・「両使制」と呼ばれてきた。使節の担う任務は、①出頭命令等訴訟進行に関わる使節(召文催促・召文違背の実否尋問)、②絵図注進・論人尋問等の現地調査に関わる使節、③判決後の任務に関わる使節(判決結果の伝達・沙汰付などの裁決(強制)執行・悪党召進等の警察行動)に大別できる。今回の場合、充所の「美作三郎殿・下妻孫次郎殿」が「両方使者」に当たると考えられます。「美作三郎」は小早河一族。「下妻孫次郎」は、常陸平氏の一流で、嫡流多家直幹の次男で常陸国下妻庄下司職を有した四郎広(弘)幹を祖とする一族であると思われ、西遷したものと考えられています。いずれも派遣対象国内に本拠・所領を有するなど、何らかの影響力をもった人物と考えられます(本間志奈「鎌倉幕府派遣使節について─六波羅探題使節を中心に─」『法政史学』69、2008・3、http://repo.lib.hosei.ac.jp/handle/10114/10872)。

 

「左近将監」

 ─北条義宗六波羅探題北方。文永8年(1271)11月〜建治2年(1276)12月(『角川新版日本史辞典』)。