周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

千葉文書1

解題

 千葉氏は同氏の系図によると上総介忠常の後胤で代々下野国真壁に住んでいた。忠恒から十七代の胤季の子経胤の時に信州伊那へ移り、その地名から神保を称するようになったという。

 永正のころ、信胤は安芸国へ移り、大内氏に、ついで毛利氏に属し、直接には小早川隆景の命を受けた。信胤の子神保五郎は広島県山口町に住んだ。その子の新四郎は海田(安芸郡海田町)に来住し、百姓となったが、以後代々上瀬野(広島市瀬野川町)から広島までの天下送り・宿送役をつとめた。

 

 

    一 大内義興下文

 

    (義興)

     (花押)

 下     神保新右衛門尉信胤

               賀茂郡

   可早領知、 安藝國西條寺家村内國松名肆貫文足〈完戸四郎次郎先知

   行分〉 同三永方田口村内佛師名拾貫文足〈松橋与三郎先知行分〉 同黒瀬村

   内岩屋名参貫七拾文足〈黒瀬彦三郎重實先知行分〉 同助實方内女子畑行武國

   重分貮貫陸百文足〈黒瀬三郎氏清先知行分〉 地等事、

 右、以人所充行也、爰件所々事雖淂之、准給恩地公役

 之由、任申請之旨裁許畢者、早守先例全領知之状如件、

    (1509)

    永正六年八月十三日

 

*割書は〈 〉で記載しました。

 

 「書き下し文」

 下す 神保新右衛門尉信胤

   早く領知せしむべき、安芸国西条寺家村の内国松名四貫文足〈完戸四郎次郎先の

   知行分〉 同三永方田口村の内仏師名十貫文足〈松橋与三郎先の知行分〉 同黒

   瀬村の内岩屋名三貫七十文足〈黒瀬彦三郎重実先の知行分〉 同助実方の内女子

   畑行武国重分二貫六百文足〈黒瀬三郎氏清知行分〉 地等の事、

 右、人を以て充て行ふ所なり、爰に件の所々の事之を買得せしむと雖も、給恩地に准じ、公役を遂ぐべきの由、申請の旨に任せ裁許せしめ畢んぬてへれば、早く先例を守り全く領知すべきの状件のごとし、

 

 「解釈」

 下知する、神保新右衛門尉信胤

   早く領有させるべき、安芸国西条寺家村の内国松名四貫文足〈完戸四郎次郎先の知行分〉、同三永方田口村の内仏師名十貫文足〈松橋与三郎先の知行分〉、同黒瀬村の内岩屋名三貫七十文足〈黒瀬彦三郎重実先の知行分〉、同助実方の内女子畑行武国重分二貫六百文足〈黒瀬三郎氏清知行分〉の地等のこと。

 右の地は、神保信胤に給与するところである。この時点で信胤は右の所々の地を買得していたが、給恩地に准じて、公役を勤めるつもりであるという申請の内容のとおりに裁許した。というわけで、早く先例を守り、領有を全うするべきである。

 

 

 「注釈」

「西条寺家村」

 ─東広島市西条町寺家。西条盆地北部、米満村の南に位置する。北東に竜王山(五七五・一メートル)、西に団子山(三二九・一メートル)があり、米満村から南下した黒瀬川が村内平地部を流れ、途中で東に向きを変えて御園宇村に至る。地名は建武三年(一三三六)三月八日の桃井義盛下文(熊谷家文書)にみえ、「西条郷内寺家分地頭職」が熊谷直経に預け置かれた。室町・戦国時代は大内氏の治下にあり、応仁の乱鏡山城の攻防に功のあった毛利豊元が寺家などを与えられ(文明七年十一月二十四日付「毛利豊元譲状」毛利家文書)、永正六年(一五〇九)には神保信胤が宍戸四郎次郎から買得した「寺家村内国松名四貫文」を大内氏から安堵されている(千葉文書)。東村南西部にあって近世吉川村の飛郷となった国松が国松名の遺称であろう。大永三年(一五二三)八月十日付安芸東西条所々知行注文(平賀家文書)には「寺家村 三百貫 諸給人知行」で、うち三五貫が阿曾沼氏の知行とある。阿曾沼氏のほかに鏡山城城番蔵田房信の知行分も三十貫あったが、同城落城後は尼子氏方に寝返った毛利氏に与えられ、毛利氏から粟屋元秀に宛行われた(「閥閲録」所収粟屋縫殿家文書)。また同年同じく元秀に与えられた「黒瀬右京亮給ともひろ名・もりとう名」(同文書)は当村内に小字友広・森藤として残る。大内氏滅亡後、毛利氏は出羽氏や児玉氏、石井氏らに寺家内の地を与えた(「閥閲録」所収出羽源八家文書・児玉弥兵衛家文書・石井文書)(『広島県の地名』平凡社)。

 

「三永方田口村」

 ─「上三永(みなが)村」。東広島市西条町上三永。西条盆地の東端に位置する。東西に長く北向きにゆるく傾斜する谷を三永川が西流。南北とも標高四〇〇メートル(比高二〇〇メートル)の山が連なるが、北部谷あいをを山陽道西国街道)が走る。北と東は豊田郡田万里村(現竹原市)。中世は西の下三永村とともに三永村と称され、元弘三年(一三三三)十二月八日付後醍醐天皇綸旨(福成寺文書)に福成寺領三永のことが見え、正平十三年(一三五八)十二月八日付後村上天皇綸旨(同文書)には「東条郷之内三永村」を福成寺に寄進するとある。文明七年(一四七五)以前に三永の地は大内政弘から毛利豊元に与えられたが(毛利家文書)、大永三年(一五二三)頃には三永村三百貫のうち半分が福成寺領、半分が大内方諸給人の知行となっている(同年八月十日付「安芸東西条所々知行注文」平賀家文書)。なお、このほか「三永方」として四十貫の「小郡代領」があり(同知行注文)、「三永方田口村」の用例もあるので(永正六年八月十三日付「大内義興下文」千葉文書)、より広義の地域呼称もしくは所領単位として「三永方」があったことも考えられる(『広島県の地名』平凡社)。

 

「田口村」

 ─東広島市西条町田口。下見村の南に位置する。黒瀬川が北の御園宇村から吾妻子滝を下って西流、西の吉川村から東流する古河川と字落合で合流して南の小比曽大河内村へ流れる。下見村との間には標高三三〇メートルの山があるが、その西の丘陵は低く道が通じていた。永正六年(一五〇九)八月十三日付大内義興下文(千葉文書)によると、松橋与三郎知行分の「三永方田口村内仏師名拾貫文足」が神保信胤に宛行われている。「仏師名」は現在の字武士に当たると思われ、田口村は三永(みなが)方とされている。大永三年(一五二三)八月十日付安芸東西条所々知行注文(平賀家文書)では田口村七十五貫のうち、三十五貫が阿曾沼氏、残りが大内方諸給人の知行であった。天文六年(一五三七)阿曾沼氏と思われる興郷は、当村内吉近名下作職を蔵田九郎兵衛尉に預け置いている(同年正月二十六日付「興郷判物」今川家文書)(「田口村」『広島県の地名』平凡社)。

 

「黒瀬村」

 ─黒瀬郷。「芸藩通志」によると、現黒瀬町に含まれる十六ヶ村と、北東に続く現東広島市域の馬木村、西南に続く現呉市域の郷原村を含めた十八ヶ村を黒瀬郷としている。正応二年(一二八九)正月二十三日付の沙弥某譲状(田所文書)に「惣社二季御神楽料田畠栗⬜︎⬜︎事」として「栗林二丁内黒瀬村五反 杣村一丁五反」とみえる。大永三年(一五二三)八月十日付の安芸東西条所々知行注文(平賀家文書)には「黒瀬 三百貫 大内方諸給人」「黒瀬乃美尾 百貫金蔵寺領とあり、黒瀬が東西条に含まれており、のちの乃美尾村を含む広域の地名であったらしことがわかる(『広島県の地名』平凡社)。

 

 

*この文書の発給された事情はよくわかりませんが、おそらく、神保信胤が買得地の安堵を申請し、それ認可した下文ということになると思います。ただし、この文書の場合、単なる買得安堵ではなく、①買得地を「給恩地」と同じ扱いにすること、②公役(大内氏に対して勤める税や労役か)を勤めることを、神保氏自らが申請しているのです。大内氏が、この二点を受け入れなければ、安堵の下文を発給しない、と神保氏に詰め寄った可能性もありますが、史料をみるかぎり、自主的に「給恩地扱い」と「公役勤仕」を申請しているようにしか読めません。そうすると、神保氏にはこの申請の仕方のほうが得だったということになりそうです。

 解題によれば、神保氏はこの永正頃に信州から移住してきた新参者ということになります。当然、本領など持ち合わせていなわけですから、買得によって土地の権益を集積するしかありません。しかし、いくら権益を集積しても、当知行(実際にその地を支配すること)にはなりません。そこで、大内氏に臣従することで、自己の基盤を安定させようとしたのではないでしょうか。単なる買得安堵ではなく、「給恩地」化することで、大内氏の被官となり、大内氏の権力を背景に所領を支配する名目を得ることができたと考えられます。

 大内氏領国内の知行体制についてはよくわからないのですが、戦国大名の朝倉氏・今川氏・六角氏の場合、給恩地の売買は原則として認められていなかったようです(松浦義則戦国大名朝倉氏知行制の展開」『福井県文書館研究紀要』4、2007・3、http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/08/2006bulletin/bindex.html)、大内氏の場合も同じであったなら、神保氏は買得地を「給恩地」化することで、かりにこの所領を売却しても、売買を無効化し、取り戻しやすくしようとする意図があったのかもしれません。一方で、大内氏にしても、神保氏に公役を勤めさせることができるわけなので、双方にとって、この「給恩地切替型安堵」はメリットがあったのではないでしょうか。