周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

千葉文書2

    二 神保房胤合戦手負注文

 

 (證判)  大内義隆

 「一見候了、(花押)」

 神保彦三郎房胤謹言上

  欲早賜 御證判、備後代龜鑑軍忠状事

                            賀茂郡

 右去年天文五十一月七日以来、於藝州平賀蔵人大夫興貞要害頭崎詰口、郎徒

 僕従被疵人数備左、

   郎徒

    神保次郎左衛門尉 〈矢疵二ヶ所背中左肩〉

    天野三郎兵衛尉 〈矢疵一ヶ所右肩〉

    渡邊藤次郎 〈矢疵二ヶ所左肩右腹〉

    蔵田弥太郎 〈矢疵二ヶ所右膝同脇〉

    菅弥七郎 〈矢疵一ヶ所右腕〉

   僕従

     三郎左衛門 〈矢疵一ヶ所口ノ脇〉

     助七 〈矢疵一ヶ所右膝〉

     小三郎 〈矢疵一ヶ所右肩〉

     次郎四郎 〈矢疵一ヶ所右足〉

    以上

     (1537)

     天文六年五月三日       房胤(花押)

         (隆兼)

       弘中々務丞殿

 

*割書は〈 〉で記載しました。

 

 「書き下し文」

 

 (證判)

 「一見候ひ了んぬ、(花押)」

 神保彦三郎房胤謹んで言上す、

  早く御証判を賜り、後代亀鑑に備へんと欲する軍忠状の事、

 右、去年天文五十一月七日以来、芸州平賀蔵人大夫興貞の要害頭崎詰口に於いて、

 郎徒・僕従疵を被る人数左に備ふ、

   (後略)

 

 「解釈」

 「承認しました。」

 神保彦三郎房胤が謹んで申し上げます。

  早くご証判をいただき、のちの証拠として役立てようとする軍忠状のこと。

 右、去年天文五年(1537)十一月七日以来、安芸国賀茂郡にある平賀蔵人大夫興貞の要害頭崎城の詰丸の入り口で、傷を被った郎等や下部の人数を左に書き備える。

   (後略)

 

 「注釈」

「一見状」─中世、軍忠状・着到状において、大将や奉行が内容を承認したしるしとし

      て、文書の奥や袖に「一見了」と記し花押を加えたもの(『古文書古記録

      語辞典』)。

「亀鑑」─きかん。判断の基準となるもの。手本、見本、模範、証拠、証文。亀鏡(き

     けい)とも。「永代の亀鑑となす」とか「亀鏡に備う」などと用いる(『古

     文書古記録語辞典』)。

「弘中隆兼」─?〜一五五五(?〜弘治元)。(中務丞・三河守)。大内氏家臣。父は

       興兼。天文十二年(一五四三)、大内義隆の命により安芸国西条槌山城

       にあって備後の情勢を探る。大永五年(一五二五)、天文五年、同十年

       安芸に出陣。安芸守護代。天文二十年、陶晴賢に属して大内義長に仕え

       る。同二十三年、玖珂郡岩国に出陣。弘治元年(一五五五)、晴賢の指

       示により江良房栄を誅殺。また厳島古城山麓に出陣して毛利軍と戦い敗

       死した(『戦国人名事典』新人物往来社)。