三 阿曾沼元秀宛行状(切紙)
(安芸安南郡) (成)
爲二太郎給地一、上世能之内貳貫目宛行候、彼者盛人之間者、其方奉公肝要候、
左候者従二勲功一弥々可レ加二扶持一候、仍状如レ件、
(1579)
天正七年〈己卯〉十一月吉日 元秀(花押)
野村淡路守殿
「書き下し文」
太郎の給地として、上世能の内二貫目を充て行ひ候ふ、彼者成人の間は、其方の奉公
肝要に候ふ、左候へば勲功に従ひ弥々扶持を加ふべく候ふ、仍て状件のごとし、
「解釈」
太郎の給地として、上世能のうち二貫目の地を給与します。太郎が成人となるまでの間は、あなたの奉公が肝要です。そのような状況ですので、勲功によってますます俸禄を与えるつもりです。よって、充行状は以上のとおりです。
「注釈」
「上世能」─上瀬野村(安芸区瀬野川町上瀬野)。瀬野川上・中流域に位置し、安芸郡
東北端にあたる。南の賀茂郡熊野跡村から北流する熊野川が字一貫田で瀬
野川に合流し、一帯にかなりの平地を形成する。集落はこの平地と瀬野川
上流沿いに営まれる。北の八世以山、東の水丸山など急峻な山に囲まれ
る。
建久九年(一一九八)の官宣旨案(壬生家文書)に「世能村」とあり、鎌
倉時代初頭、下瀬野村域も含めて世能村と称されている(ただし瀬野川以
南を除く)。この時世能・荒山両村が世能荒山庄として立荘されたが、承
久三年(一二二一)十月八日付清原宣景申状(清原家文書)には「凡当御
庄内地頭相交之地者、新山村・阿土村・下世能村等也(ヵ)、又号久武名
者地頭名也、散在村々、此外於上世能村(ヵ)郡司領等者、自往昔地頭更
不相交之地」とあり、この頃世能村が上下に分かれていたこと、上世能村
は地頭の権限の及ばない地であったことが知られる。なお当村には国衙領
もあったらしく安芸国衙領注進状(田所文書)に「上世乃正木[ ]
小」とみえる。中世を通じて阿曾沼氏の治下にあり、天正七年(一五七
九)「上世能之内貳貫目」が家臣野村氏に宛行われている(同年十一月吉