周梨槃特のブログ

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榊山神社文書(完)

 【榊山神社文書】

解題

 熊野庄内各社の物申役を勤めた梶山氏に伝来する文書である。

 

 

    一 熊野社神田注文

     熊野之内御神田[

 一米五石     八幡御神田       物申かゝへ

           (ヵ)

 一壹石五斗    す才神田        物申かゝへ

      此内四斗五升ハ不作

 一米五斗     熊のう神田       物申かゝへ

           (王)

 一米貳斗     天玉神田        物申かゝへ

 一米五斗     きおん神田      [     ]

         以上七石参斗

     (1555)

     天文廿四年十二月十日    赤川源左衛門尉(花押)

                   兒玉若狭守

                   渡邊新右衛門尉(花押)

       くまの物申 まいる

 

*書き下し文・現代語訳は省略。

 

 「注釈」

榊山神社」─安芸郡熊野町中溝。熊野盆地の西北にそびえる城山と金ヶ灯籠山の間に

       ある谷の入口で、盆地の大半を眺望できる丘陵上に鎮座。もと本宮八幡

       宮と称し、神功皇后以下三神を祀る。旧村社。承平三年(九三三)宇佐

       (現大分県宇佐市)より勧請したと伝えるが詳細は不明。

       社蔵の享禄元年(一五二八)十二月二十七日付越中守相真補任状は、大

       内氏家臣で菅田氏と思われる相真が、二郎左衛門尉実憲(梶山氏か)を

       「熊野惣庄祝言職」に補任するというもので、前年熊野要害(土岐城

       か)を攻略した大内氏が熊野庄を支配するようになったこと、当社が熊

       野庄内で卓越した地位にあったことなどがうかがえる。このあと、天文

       二十四年(一五五五)十二月十日、毛利氏奉行人が、当社物申の抱える

       荘内各社の神田を書き上げた注文も伝えるが、そこでも当社の神田五石

       は他社を上回っている。宮司は梶山氏であるが、大内氏の熊野要害攻撃

       で大内勢に討たれた者のなかに梶山新左衛門尉の名が見えるし(大永七

       年二月十日「天野興定合戦分捕手負注文」天野毛利文書)、平谷村の草

       分百姓として近世庄屋を世襲したのも梶山氏で、熊野盆地南部に根を張

       った在地土豪であったことがうかがえる。

       当社境内で踊られる盆踊は梶山神社年中事物録(当社蔵)に「弘治二丙

       辰八月朔日祈願ニ付踊申候」とあり、当時多くの牛が死に、虫害がひど

       かったため、神楽踊を奉納したのに始まるといわれている。

       境内社に熊野本宮神社があり、養和元年(一一八一)紀州からの勧請と

       いうが、榊山神社が近世までは本宮八幡と称していたこと、「芸藩通

       志」所収絵図では熊野権現が中央で諏訪社と八幡(現榊山神社)はその

       両横に鎮座していることなどから、あるいは榊山神社よりも熊野本宮神

       社のほうが勧請時期が古い可能性もある(『広島県の地名』平凡社)。

「物申」─祝詞などを奏すること(『日本国語大辞典』)。