周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自殺の中世史 32 ─吾妻鏡1(恥辱と自殺と称賛と)─

  寿永元年(一一八二)二月十四・十五日条

                    『吾妻鏡』第二(『国史大系』第三二巻)

 

 十四日乙卯、伊東次郎祐親法師者、去々年已後、所被召預三浦介義澄也、而御臺所御懷孕之由風聞之間、義澄得便、頻窺御氣色之處、召御前、直可有恩赦之旨被仰出、義澄傳此趣於伊東、伊東申可參上之由、義澄於營中相待之際、郎從奔來云、禪門承今恩言、更稱耻前勘、忽以企自殺、只今僅一瞬之程也云々義澄雖奔至、已取捨云々、

 十五日丙辰、義澄參門前、以堀藤次親家、申祐親法師自殺之由、武衛且歎且感給、仍召伊東九郎〈祐親子〉父入道其過雖惟重、猶欲有宥沙汰之處、令自殺畢、後悔無益食臍、况於汝有勞哉、尤可被抽賞之旨被仰、九郎申云、父已亡、後榮似無其詮、早可給身暇云々、仍被加不意誅戮、世以莫不美談之、武衛御座豆州之時、去安元々年九月之比、祐親法師欲奉誅武衛、九郎聞此事、潜告申之間、武衛逃走湯山給、不忘其功給之處、有孝行之志如此云々、

 

 「書き下し文」

 十四日乙卯、伊東次郎祐親法師は、去々年已後、三浦介義澄に召し預けらるる所なり、而るに御台所御懐孕の由風聞の間、義澄便を得て、頻りに御気色を窺ふの処、御前に召し、直に恩赦有るべきの旨仰せ出さる、義澄此の趣を伊東に伝ふ、伊東参上すべきの由を申し、義澄営中に於いて相待つの際、郎従奔り来りて云く、禅門今の恩言を承り、更に前勘を恥づと称し、忽ち以て自殺を企つ、只今僅か一瞬の程なりと云々、義澄奔り至ると雖も、已に取り捨つと云々、

 十五日 丙辰   義澄門前に参り、堀藤次親家を以て、祐親法師自殺の由を申す、武衛且つうは歎き且つうは感じ給ふ、仍て伊東九郎〈祐親子〉を召し、父入道其の過惟れ重しと雖も、猶ほ宥め沙汰有らんと欲するの処、自殺せしめ畢んぬ、後悔臍を食らふに益無し、況や汝に労り有るに於いてをや、尤も抽賞せらるべきの旨仰せらる、九郎申して云く、父已に亡ぶ、後栄其の詮無きに似たり。早く身の暇を給ふべしと云々。仍て意ならず誅戮を加へらる、世に以て美談とせざる莫し、武衛豆州に御座するの時、去る安元元年九月の比、祐親法師武衛を誅し奉らんと欲す、九郎此の事を聞き、潛かに告げ申すの間、武衛走湯山に逃れ給ふ、其の功を忘れ給はざるの処、孝行の志有りて此くの如しと云々。

 

 「解釈」(『現代語訳 吾妻鏡』1、吉川弘文館、2007)

 十四日、乙卯。伊東次郎祐親法師は去々年の治承四年以後、召して三浦介義澄に預けられていた。ところが御台所(政子)がご懐妊という噂があったので、義澄は機会を得て、何度もご機嫌をうかがったところ、(頼朝が)御前に召し直接恩赦すると仰った。義澄はこのことを伊東祐親に伝え、祐親は参上するとのことを申したので、義澄が御所で待っていたところ、郎従が走って来て、「禅門(伊東祐親)は今の(頼朝の)恩言を聴き、改めて以前の行いを恥じると言い、すぐに自殺を企てました。ただ今、わずか一瞬の間のことでした。」と言った。義澄は走って行ったが死体はすでに片付けられていたという。

 十五日、丙辰。(三浦)義澄が御所の門前に参り、堀藤次親家を通じて、祐親法師が自殺したことを申し入れた。武衛(源頼朝)は歎きつつも感動された。そこで祐親の子である伊藤九郎(祐清)を召し、「父の入道はその罪科が重いとはいえ、それでも許そうと思っていたところ、自殺してしまった。『臍を噛むに益無し。』と言われているように、後悔しても致し方なく、ましておまえには、功労がある。特に賞されるであろう。」と仰った。これに九郎は、「父は既に亡く、後の栄誉は無意味に等しいものです。早くお暇をいただきたい。」と申した。そこで(頼朝は)心ならずも誅殺された。世間ではこれを美談としない人はいなかった。頼朝が伊豆にいらっしゃった時、去る安元元年九月のころ、祐親法師は頼朝を殺そうとした。祐清はこのことを聞き、密かに告げてきたので、頼朝は走湯山へお逃げになった。その功を忘れずにおられたが、(祐清は)孝行の志が厚く、こうしたことになったという。

 

 「注釈」(以下、断らないかぎり、『現代語訳 吾妻鏡』の注釈を引用)

「祐親」─ ?─1182 平安時代後期の武将。祐近ともいう。字は次郎。伊豆の住人伊

     東祐家の子。母未詳。治承四年(一一八〇)八月以前に出家。父の死後、祖

     父家継は祐家の兄弟祐継に本領伊豆伊東荘を与え、一族の惣領とした。この

     時祐親は同国河津荘を与えられたが、惣領の地位を奪われたことに不満で、

     しばしば訴訟を起こし、祐継の死後その子祐経の所領を奪い、ために同族間

     の深刻な対立が生まれた。のちに祐親の子河津祐泰が祐経に殺害され、祐泰

     の子祐成・時致(曽我兄弟)による仇討事件が起こったのも、この両流の紛

     争に起因する。祐親は平氏に仕え、伊豆の流人源頼朝の監視を命ぜられてい

     たが、頼朝が祐親の女に通じ、一子を挙げたため、平氏を憚って安元元年

     (一一七五)頼朝を殺そうとしたので、頼朝は北条時政のもとに逃れた。治

     承四年八月頼朝が挙兵した時、これを石橋山に攻めたが、成功せず、のちの

     頼朝の勢威が高まり不利な立場に立った祐親は同年十月駿河に逃れんとして

     捕らわれ、娘婿三浦義澄に預けられた。のち義澄の尽力で罪を許されたが、

     祐親はこれを潔しとせず自殺した。時に寿永元年(一一八二)二月十四日

     (『日本古代中世人名辞典』吉川弘文館)。

「義澄」─伊東祐親の娘婿にあたる。

「祐清」─ ?─1183(?─寿永二)。祐親の子。治承四年十月十九日条及び建久四年

     六月一日条によれば、この後、祐清は平家軍に加わり北陸道の合戦で討ち死

     にしたという。一方、寿永元年二月十五日条では、父の自害を聞き頼朝に殺

     されることを願ったとあり、検討を要す。なお、祐清の兄河津三郎祐泰は安

     元二年に工藤祐経のために横死している。

 

 

*今回からしばらく、『吾妻鏡』所載の自殺関係記事を紹介していきます。『吾妻鏡』は言わずと知れた鎌倉時代の歴史書です。その特徴については、『現代語訳吾妻鏡 別巻 鎌倉時代を探る』(吉川弘文館、2016)の各論文で説明されているので、ここで詳しく述べることはしませんが、やはり編纂物である以上、記事に誤りはあるようです。

 『吾妻鏡』は、朝廷の貴族や幕府の奉行人の日記、御家人の家や寺社に伝えられた文書や記録などをもとに編纂されているのですが、引用した原史料自体の誤り、編纂過程での誤り、原本を書写していく過程での誤りという三つのレベルにおける誤りを含み込んでいるそうです(西田友広「『吾妻鏡』と文書」(前掲書所収)。

 したがって、これから紹介していく記事も、正確に史実を示しているとは言えません。これまで紹介してきた神話や説話、歴史書の類と同じレベルの信用度と言えるでしょう。ただ、その記事を採用した編纂者や同時代の人々の社会通念は読み取れそうです。できるかぎり禁欲的な態度をとりつつ、史料を紹介していこうと思います。

 

 さて、今回の史料で自殺を遂げているのは、伊東祐親です。祐親の娘は源頼朝と通じ、子(千鶴御前)を儲けるまでの仲になっていたのですが、それに憤慨した祐親は千鶴御前を殺害し、安元元年(1175)に伊豆にいる源頼朝も殺害しようとします。ところが、祐親の息子祐清が頼朝にその情報を知らせたことで、頼朝は危機を脱することができました。

 祐親はその後、治承四年(1180)十月十九日に捕らえられ(富士川の戦い)、娘婿の三浦義澄に預けられていました。そのうち、御台所北条政子が懐妊したという情報を得て、義澄は頼朝の機嫌を伺いに何度も足を運びます。その結果、頼朝は祐親の恩赦を約束したので、義澄は祐親にそれを伝えたのですが、祐親は参上するとだけ伝え、そのまま自殺してしまいます。遺言は「恥前勘」(以前の逆心を恥じる)でした。

 「前勘」が具体的に何を指すのかははっきりしません。試みに『大漢語林』(大修館書店)で「勘」を調べてみると、「①かんがえる。くらべ合わせる。調べ考える。②とりしらべる。罪人を取り調べる。」と記載されています。ついでに、収録された熟語を見ると、罪や過失に関するものが多々見受けられます。したがって、「前勘」は「以前の考え(逆心)」を意味すると考えられます。今回の記事だけを見れば、安元元年の頼朝殺害未遂事件を企てたことを指すと考えられそうですが、祐親は治承四年八月の石橋山の戦いで、大庭景親らとともに頼朝軍を打ち破っているので、これも含めた頼朝への敵対行為のすべてを指すのかもしれません。

 さて、ここで注目したいのは、またしても「恥」です。同時代の説話を紹介した「自殺の中世史29」(『沙石集』)でも、キーワードとして「恥」が現れていました。ですが、今回はいささか状況が異なるようです。

 「自殺の中世史29」では、生け捕られたことを「恥」と考え、それを拭い去ろうとして自殺を決意しました。ところが、今回の伊東祐親の場合は、捕らえられてからすでに1年4ヶ月も経過しており、三浦義澄に預けられて刑の宣告を待っている状況だったと考えられます。つまり祐親は、捕らえられたこと自体を、自殺するほどの恥だと思っていないのです。おそらく何らかの処罰があるはずだと考え、それを受け入れようとしていたのでしょう。それなのに、恩赦の決定が下ってしまったのです。祐親は、頼朝への反逆という罪を犯したにもかかわらず、それを許されてしまったために、「恥」の意識が生じてしまったと考えられます。犯した罪は、それ相応の罰で償う。それができなくなったため、自ら命を絶ったのではないでしょうか。石橋山の戦い富士川の戦いで同心していた大庭景親は、祐親と同じ時期に捕らえられ、すぐに処刑されています(治承四年十月二十六日)。したがって、祐親は自分の罪が死罪に相当すると覚悟を決めていたと考えられます。反逆したにもかかわらず、罪を償う機会を逸し、のうのうと生きのびていくことを恥ずかしいと思い、恩赦によって死ぬことができなくなったため、自ら命を絶つしかなくなったのではないでしょうか。いや、そうした意図のもと自殺した、と編纂者が考えたのではないでしょうか。

 祐親自殺の報は、翌日源頼朝に伝えられます。頼朝はこの一件について、「歎きつつも感動なさった(且歎且感給)」ようで、伊東祐親を失ったことに悲嘆するとともに、自殺を称賛しています。前述のように、祐親は捕らえられてから1年4ヶ月もの間、三浦義澄のもとに預けられていました。大庭景親とは異なり、すぐに処刑されていないことから、頼朝は本当に祐親の罪を許すつもりでいたと考えられます。したがって、祐親の自殺を嘆いたというのは本心だったのでしょう。その一方で、恩赦の命令を恥じて自殺したことを立派だとみなしたことも本心だったと想像されます。恩赦が決定されたにもかかわらず、それを受け入れることを恥じ、自殺を遂げる行為は、当時の武家社会では称賛される行為だったことだけはわかります。

 以上が、伊東祐親自殺事件の概要です。ここに記された祐親の発言や頼朝の感慨が史実であるかどうかはわかりません。また、あくまで幕府が編纂した歴史書であるため、源頼朝に反逆した人物の言動を、幕府にとって都合のよいように書き改めた可能性もあります。罪人が恩赦命令を恥じて自殺する点や、それを悲しみつつも称賛する頼朝の美談など、明らかに権力側の倫理的な意図を感じてしまいます。ですが、これが広まり読み継がれることが、むしろ問題なのではないでしょうか。罪人が恩赦命令を恥じて自殺したという出来事が、常識として広まり語り継がれれば、それは真実となり、人々の心に一つのしがらみ(「罪人は恩赦命令を恥じて自殺すべきだ」という通念)を生みだすことになるのでしょう。『吾妻鏡』は自殺についても、知らぬ間に、鎌倉武士や後代の武士の精神に影響を与えているのかもしれません。