周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

遺骨の使いみち (How to use cremains)

  応永二十九年(一四二二)九月六日条     (『看聞日記』2─224頁)

 

 六日、雨降大風吹、所々吹破、御所門以下破了、

  (中略)

  抑聞、於河五条原今日大施餓鬼依風雨延引云々、此事去年飢饉病悩万人死亡之間、

  為追善有勧進僧、〈往来囉斎僧相集、〉以死骸之骨造地蔵六体、又立大石塔為供

                         足利義持

  養、可有施餓鬼云々、此間有読経、万人鼓操打桟敷、室町殿可有御見物云々、五山

  僧可行施餓鬼云々、(後略)

 

 「書き下し文」

 六日、雨降り大風吹く、所々吹き破る、御所の門以下破れ了んぬ、

  (中略)

  抑も聞く、五条河原に於いて今日大施餓鬼会風雨により延引すと云々、此の事去年飢饉病悩万人死亡するの間、追善のため勧進僧有り、〈往来の囉斎僧相集ふ、〉死骸の骨を以て地蔵六体を造り、又大石塔を立て供養を為す、施餓鬼有るべしと云々、此の間読経有り、万人鼓操し桟敷を打つ、室町殿御見物有るべしと云々、五山僧施餓鬼を行ふべしと云々、(後略)

 

 「解釈」

 六日、雨が降って大風が吹いた。あちこちを吹き壊した。御所の門などが壊れた。

  (中略)

  さて、聞くところによると、五条河原で今日(実施されるはずだった)大施餓鬼会が風雨により延引したそうだ。去年の飢饉や疫病で多くの人が死亡したので、その追善のために勧進僧〈往来の羅斎僧〉が集まった。死骸の骨を使って地蔵六体を造り、また大きな石塔を立てて供養した。施餓鬼会が行われるはずだという。この間に読経も行われた。多くの人々が騒ぎ立て、桟敷を設けた。室町殿足利義持が御見物になるはずだという。五山僧が施餓鬼会を営むはずだそうだ。

 

 Well, due to the bad weather, the Buddhist ritual, which was scheduled to be held at Gojo riverside, has been postponed. Last year, many people died from famine and plagues, so monks gathered to pray for their well-being. They made six Ksitigarbha statues using the bones of the corpse, and stood up large stone pagodas and prayed for their well-being.

 (I used Google Translate.)

 

 「注釈」

「施餓鬼」

 ─仏語。餓鬼道におちて飢餓に苦しむ亡者(餓鬼)に飲食物を施す意で、無縁の亡者のために催す読経や供養。真宗以外で広く行われる。本来、時節を限らない。七月一日より一五日にわたって行われるものは盂蘭盆の施餓鬼。盂蘭盆と施餓鬼の併用が両者の混同を招いたらしい(『日本国語大辞典』)。

 

「追善」─死者の冥福を祈って仏事供養を営むこと(『古文書古記録語辞典』)。

 

「囉斎」

 ─ろさい。邏斎・羅斎とも書く。①僧が四方を托鉢してめぐり供養を請うこと。②他人に食物や物品を請うこと。③乞食のこと(『古文書古記録語辞典』)。

 

「骨仏(こつぼとけ)」

 ─多くの遺骨を固めて造立された仏像。遺骨を死者の象徴として考えたり、霊魂の容器などと観念する、日本人の遺骨信仰から生まれたもので、大阪市天王寺区逢阪にある浄土宗一心寺の骨仏が広く知られる。同寺の骨仏は一八五一年(嘉永四)から八七年(明治二十)までに納骨された五万体の白骨で練造された第一期に始まり、第二次世界大戦まで六体が作られたが戦災で破損した。現在、納骨堂には五体が安置されているが、これは一九四七年(昭和二十二)に破損した六体の破片を集めて造った第七期以降のものである。十年ごとに造られ、一九九七年(平成九)には第十二期として新たにもう一体が造立された。一心寺は、一一八五年(文治元)、法然四天王寺の西門あたりに荒陵の新別所と称して止住したことに始まると伝え、徳川家康大坂夏の陣では決戦場となって死屍累々としたという。近世後期、施餓鬼寺の一心寺として有名になるにつれ納骨が年々多くなり、第五十二世真諄と院代の聴典上人の発案により骨仏が造立された。このほか骨仏は、浄土宗重願寺(東京都江東区)や築地本願寺(同中央区)が関東大震災の罹災者骨で作ったといわれ、孝真寺(金沢市十一屋町)でも一九三〇年以来、火葬場からの灰骨で造られている。このように骨仏そのものの歴史は新しいが、この背景には中世以来の納骨習俗や仏像の体内に遺骨・遺髪を納入するといった信仰の流れの中で成立したものとみることができよう(文責・蒲池勢至)(新谷尚紀・関沢まゆみ編『民俗小事典 死と葬送』(吉川弘文館、2005)。

 

 

*死者の遺骨で仏像をつくる。こうした供養の仕方があるというのを初めて知りました。ずいぶんと珍しい風習だと思っていたのですが、これは「骨仏」と呼ばれ、現代でも造られているそうです。今回の史料もネット(「コトバンク」『世界大百科事典』第2版)で簡単に検索できるので、たいして珍しくもないようですが、せっかく見つけたので紹介しました。

 さて、今回の記事では、遺骨を使って地蔵菩薩を六体造ったと記されていますが、いったいどのように遺骨を使用したのでしょうか。ここで参考になるのが、大喜直彦氏の研究です(「生命・身体としての遺骨─親鸞遺骨墨書発見によせて─」『中世びとの信仰社会史』法蔵館、2011、207頁)。この研究によると、中世では遺骨をくだいて細かくし、漆に混ぜて木像に塗るという慣習があったと考えられています。今回の場合も、おそらく同じような方法で、地蔵菩薩を造ったのではないでしょうか。

 飢饉で亡くなり餓鬼道に堕ちたであろう死者の遺骨を集め、その魂を救う地蔵菩薩と一体化させるために、細かく砕いた遺骨を木像に塗りつけたのでしょう。人間とは、ほんとうにいろいろなことを考えつくものです。