周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

石井文書(石井昭氏所蔵)4

    四 石井賢家合戦手負注文(切紙)

 

 (證判)     (大内義長)

 「一見畢、    (花押)」

 石井蔵人賢家謹而言上

 欲早賜 御證判後代亀鏡軍忠状之事

 右、去年〈天文廿貳〉、至石州、吉見大蔵少輔正頼要害御取懸之時、被疵之

 次第、備左、

 去年八月二日於三本松固屋口〈石疵左膝〉

    同六月十三日郎従寺地弥太郎矢疵二ケ所〈右肩左腕〉

    去年十二月廿二日於野坂僕従助左衛門太刀討、同日僕従五郎左衛門

    矢疵〈壱ヶ所左脚〉

    去八月二日僕従三郎兵衛〈石一ヶ所左腕〉

    同日僕従三郎左衛門〈矢疵一ヶ所左股〉

      以上

      (1554)

      天文廿三年九月二日      賢家(花押)

       (晴賢)

      陶尾張守殿

 

 「書き下し文」

 (証判)      (大内義長)

 「一見し畢んぬ、  (花押)」

 石井蔵人賢家謹んで言上す

 早く御証判を賜り後代亀鏡に備へんと欲する軍忠状の事

 右、去年〈天文二十二〉、石州に至り、吉見大蔵少輔正頼の要害に御取り懸かるの時、疵を被るの次第、左に備ふ、

 去年八月二日三本松固屋口に於いて〈石疵左膝〉

  (後略)

 

 「解釈」

 「承認しました。」

 早く大内義長様のご証判をいただき、のちの証拠として役立てようとする軍忠状のこと。

 右、去年〈天文二十二年〉に石見国に出陣し、吉見大蔵少輔正頼の城に攻め掛かりなさったときの、我々が負傷した有様を、左に書いておく。

 去年八月二日、三本松の固屋口で、石を投げられ、左膝に疵を受けた。

  (後略)

 

 「注釈」

「吉見正頼」─1513〜1588(永正十〜天正十六) (弥七・三河守・大蔵大

       輔・周鷹)石見津和野城主。頼興の五男。もと津和野興源寺の僧で周鷹

       と称したが、長兄頼隆の死去により天文九年(一五四〇)、還俗。家督

       を継ぎ、大内義隆の娘大宮姫を妻として大内氏に属す。のち陶晴賢が大

       内義隆を滅ぼして大内氏領国を把握したのに対し、同二十二年、陶氏打

       倒を目指して挙兵。弘治元年(一五五五)、再挙兵のときは毛利氏に呼

       応、晴賢を滅ぼす。その後は毛利元就に属し、長門阿武郡など一万五千

       石を領有。天正十三年(一五八五)ごろ萩の指月に隠居。同十六年閏五

       月二十二日、同地で死去。七十六歳(『戦国人名事典』新人物往来

       社)。

「三本松」─現津和野城跡(津和野町後田)。城山(霊亀山)山塊の南端、標高三六七

      メートルの山上に築かれた山城。中世の吉見氏時代は一本松城・三本松城

      と称した。別に蕗城、槖吾(つわぶき・たくご)城ともいう。国指定史

      跡。永仁三年(一二九五)吉見頼行が築城したと伝え、吉見氏代々が本拠

      としたが、関ヶ原合戦後、慶長六年(一六〇一)坂崎直盛(成正)が当城

      に入り津和野藩三万石を領し、城郭を改修した。坂崎氏改易後の元和三年

      (一六一七)には亀井政矩が入り、政矩および同氏代々が寛永─元禄年間

      (一六二四─一七〇四)にかけて城下町を拡張整備し、明治四年(一八七

      一)まで城主として居住した。

      〔吉見氏時代〕史料とするには疑問が多いが、吉見隆信覚書(下瀬家文

      書)によれば、二度目の蒙古襲来後の弘安五年(一二八二)に鎌倉幕府

      ら西石見の海岸防備を命じられた吉見頼行が、能登から海路石見国に至

      り、まず木部の木園(木曾野)に居住。その後永仁三年に城山の地を選び

      一本松城の縄張りを始め、二代頼直の正中元年(一三二四)に完成、嘉暦

      二年(一三二七)に木園から館を移したという。城山は麓を流れる津和野

      川が西麓から南端を回って大きく北に屈曲し、西・南・北を囲み、天然の

      内堀を形成していた。また東の津和野盆地、西の高田・喜時雨(きじう)

      の両盆地の外周をかなり高い山々が囲んでおり、防御上の適地であった。

      この段階の城は、現鷲原八幡宮裏の丘陵突端から北に続く丘陵に削平地を

      設けたもので、西側を大手とし、吉見氏は丘陵の西側の喜時雨に館を構え

      たと推定されている(津和野町史)。戦国期には三本松城と称し、奥ヶ野

      の御岳城、中組の徳永城や下瀬山城(現日原町)、三之瀬城(現柿木

      村)、能美山城・萩尾城(現六日市町)など多くの支城や砦をもってい

      た。

      天文二〇年(一五五一)九月に陶隆房(晴賢)が大内義隆を倒し、大内義

      長を擁立して実権を掌握すると、吉見正頼は夫人が義隆の姉であることも

      あって、陶晴賢・大内義長と対決する道を選んだ。そして同二十二年五月

      には下瀬左京助を安芸吉田郡山城(現広島県吉田町)に遣わして、毛利元

      就との連携を強めた(五月二十三日「上瀬休世書状」閥閲録)。晴賢・義

      長方は同二十三年三月、当城を包囲する態勢を固め、これに呼応した益田

      氏も下瀬山城を包囲して当城との連絡を絶った。同年の春から秋にかけて

      「喜汁原」や「三本松本郷表」「坪尾小屋」などにおいて、戦闘が断続的

      に続いた(天文二十三年四月二十一日「益田藤兼感状」俣賀文書など)。

      陶晴賢は、津和野川の対岸で後ろを見下ろす鷲原の段原山に本陣を置いた

      といい、陣跡には陶ヶ嶽、津和野川の渡河点には戦(幾久)という古称が

      残る(津和野町史)。天文末年の段階では、当城は北方の尾根上に、ピー

      クを選んで点々と曲輪が設けられたようで、小規模な堀切が確認できる。

      当城の北限は三本の大規模な堀切が設けられていた千人塚の谷奥までとみ

      られる。南限は鷲原八幡宮裏の丘陵突端の中荒城である。ここは陶方の

      攻撃を最も受けやすい地点であったと考えられ、起伏を拾って曲輪を重ね

      ている。このうちで最大規模の曲輪群は標高三四三メートルの地点を主郭

      とするもので、西方の喜時雨側の尾根にも曲輪群を延ばして防御としてい

      る。吉見正頼は、長期間の籠城に耐えきれず、天文二十三年八月末に室町

      幕府の計らいで、尼子氏の斡旋によって、陶晴賢・益田藤兼との和議に応

      じ、三本松城を開城した。毛利元就・同隆元軍が、九月十五日安芸の折敷

      畑合戦で陶方を大破し、翌弘治元年(一五五五)十月一日の厳島合戦で陶

      晴賢を敗死させたので、正頼は山口に向けて進撃を開始し、大内義長を自

      刃させた。吉見氏は以後毛利氏に臣従し、当城を拠点として、鹿足郡全域

      (野々郷・吉賀郷)と長門国厚東郡に置いて一万五千四百五十石余を領し

      た(毛利氏八箇国時代分限帳)(『島根県の地名』平凡社)。