(深津郡) (弘中)
去四日備後外郡五ヶ庄動之時、人数等令二馳走一出張之由、隆兼注進之趣遂二
披露一候、尤神妙之由、得二其心一可レ申之旨候、恐々謹言、
(天文十六年)(1547) (小原)
六月十二日 隆言(花押)
(青景)
隆著(花押)
(陶)
隆満(花押)
(宣家)
石井九郎三郎殿
○以上、八通ヲ一巻ニ収ム
「書き下し文」
去んぬる四日備後外郡五ヶ庄の動きの時、人数等馳走せしめ出張するの由、隆兼注進の趣披露を遂げ候ふ、尤も神妙の由、其の心を得申すべきの旨に候ふ、恐々謹言、
「解釈」
去る六月四日、備後外郡五ヶ庄での戦のとき、人員を集め出陣したことについては、弘中隆兼の注進した内容を、大内義隆様に披露しました。いかにも殊勝なことであるという義隆様のお気持ちを理解し申し上げるべきです。以上、謹んで申し上げます。
「注釈」
「備後外郡」─備後南部の諸郡すなわち深津・安那・品治・沼隈・御調・芦田・世羅の
七郡をまとめて外郡と呼び、備後北部山手の諸郡すなわち甲奴・神石・
奴可・恵蘇・三次・三谷・三上の七郡をまとめて内郡と呼ぶ呼称は戦国
時代広く使われたが、応仁の乱初頭にすでにこの呼称があった(山内首
藤家文書一二四号)。すなわち外郡の国人衆は東軍に、内郡のそれは西
軍に属したことになる。世羅郡は外郡に入っているが時には内郡と呼ば
れる場合もあった。ちょうどこのあたりが内・外両郡の境界であったの
である。従って応仁の乱においても備後の東・西両軍の合戦は世羅郡を
中心に展開された(『福山市史』上、一九八三)。