周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

越後屋、おぬしもワルよのぉ〜

  永享三年(1431)七月六・十・十九日条

           (『図書寮叢刊 看聞日記』3─297・300・302頁)

 

 六日、晴、明日花合如例取集、座敷等室礼、抑聞、米商買之者六人侍所召捕糺問、被

           去月以来

  書湯起請云々、此事此間洛中辺土飢饉、忽及餓死云々、是米商人所行也、露顕之

  間、張本六人余党数十人被召捕、厳密沙汰云々、

   

 十日、朝雨下、花飾撤之、瓶等人々返遣、抑去月以来洛中辺土飢饉及餓死、是米商人

  所行之由露顕之間、去五日米商人張本六人侍所召捕糺明、被書湯起請、皆有其失、

  糺問之間白状、諸国米塞運送之通路、是所持米為沽却也、又飢渇祭三ヶ度行云々、

  与党商人も皆被召捕、張本六人被籠舎可被斬云々、所司代依此事失面目、職辞退

              足利義教

  云々、洛中飢饉以外也、自公方被定法、可米札沽却之由被触云々、(後略)

 

 十九日、晴、(中略)米商人被召捕張本六人之内、門次郎〈元乞食也〉・唐紙師等三

  人今日被刎首云々、京都米如元本復云々、珍重也、

 

 「書き下し文」

 六日、晴る、明日花合例のごとく取り集め、座敷等を室礼ふ、抑も聞く、米商買の者六人を侍所召し捕り糾問し、湯起請を書かせらると云々、此の事去月以来此の間洛中辺土飢饉、忽ち餓死に及ぶと云々、是れ米商人の所行なり、露顕するの間、張本六人・余党数十人召し捕られ、厳密に沙汰すと云々、

 

 十日、朝雨下る。花飾之を徹し、瓶等人々に返し遣はす。そもそも去んぬる月以来、洛中・辺土飢饉、餓死に及ぶ。これ、米商人の所行の由、露顕するの間、去んぬる五日、米商人の張本六人、侍所召し捕り糺明し、湯起請を書かせらる。みなその失あり。糺問するの間、白状す。諸国米運送の通路を塞ぐ。これ、所持する米沽却せんがためなり。また、飢渇祭三か度行なうと云々。与党の商人もみな召し捕らる。張本六人、籠舎せられ、斬らるべしと云々。所司代このことにより面目を失い、職を辞退すと云々。洛中飢饉以ての外なり。公方より法を定められ、米札沽却すべきの由、触れらると云々、(後略)

 

 十九日、晴る、(中略)米商人召し捕らるるる張本六人の内、門次郎〈元乞食なり〉・唐紙師ら三人今日首を刎ねらると云々、京都の米元のごとく本復すと云々、珍重なり、

 

*十日条のみ、東島誠「閉塞とV字回復の十五世紀」(『自由にしてケシカラン人々の世紀』講談社、2010、90頁)の書き下し文を引用しました。

 

 

 「解釈」

 六日、晴れ。明日の七夕花合のため、いつものように座敷飾りを取り集め、座敷などをしつらえた。さて聞くところによると、米商売に関わる者六人を侍所が召し捕って尋問し、(六人は)湯起請を執行されたという。この一件で、先月以来、洛中洛外が飢饉になり、あっという間に人々が餓死してしまったそうだ。これは米商人の仕業である。事が露顕したので、主犯格六人とその残党数十人が召し捕られ、厳しく処罰されるという。

 

 十日、朝雨が降った。花合の飾りを撤去し、花瓶などを人々に返却した。さて、先月以来、洛中洛外が飢饉になり、人々が餓死する状態にまでなった。この一件は米商人の仕業だということが露顕したので、去る七月五日に米商人の主犯格六人は、侍所が召し捕って尋問し、湯起請を執行された。全員にその失(異変)が現れた。尋問したところ、白状した。(商人たちは)諸国の米の運送路を塞いだ。これは、(商人たちが)所持している米を売却するためであった。また、飢渇祭を三度も行ったそうだ。仲間の商人もみな召し捕られた。張本六人は拘禁され、斬首されるはずだという。所司代浦上性貞はこの一件によって体面を損ない、職を辞したそうだ。洛中の飢饉は不都合なことである。公方足利義教より法律が定められ、もとのように米を売却しなければならない、とお触れになったという。

 

 十九日、晴れ。召し捕られた米商人の主犯格六人のうち、門次郎〈もと乞食である〉・唐紙師ら三人が今日首を刎ねられたという。京都の米は以前のように流通しているそうだ。めでたいことである。

 

 

 「注釈」

「花合」

 ─七夕で実施される法楽行事の一つ。「天神名号」の軸、絵画、花や花瓶、香炉などを多数ならべ置いて飾った。花には二星(牽牛星織姫星)の供花的要素のほかに、観賞的要素もあった(小林善帆「たて花─連歌会・七夕花合せ・立阿弥の「花」をめぐって─」『日本研究』国際日本文化研究センター紀要、34、2007・3、https://nichibun.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=589&item_no=1&page_id=41&block_id=63)。

 

「飢渇祭」

 ─飢渇状態の解消を祈る祭(東島誠「閉塞とV字回復の十五世紀」(『自由にしてケシカラン人々の世紀』講談社、2010、92頁)。

 

所司代

 ─浦上美作入道性貞(今谷明「増訂 室町幕府侍所頭人並山城守護補任沿革考証稿」『守護領国支配機構の研究』法政大学出版局、1986、23頁)。

 

「米札」

 ─未詳。「札」は「猶」の読み間違いか。東京大学史料編纂所の「古記録フルテキストデータベース」では、当該箇所は「可米猶沽却之由」と表示されるので、解釈は「猶」で訳しておきます。

 

 

*いつの時代にも、悪いヤツはいるものです。今回の悪党は、越後屋ではなく、京都の米商人たちでした。

 さて、この史料は研究者のあいだではかなり有名らしく、最近の研究では、清水克行「古米か?新米か?」(『大飢饉、室町社会を襲う!』吉川弘文館、2008、40頁)と前掲東島著書(90頁)で分析されています。両氏の研究に導かれながら、事件の概要を説明しておくと、次のようになります。

 永享三年(1431)の六月から七月にかけて、京都は飢饉に襲われていました。これは天災ではなく、なんと一部の米商人たちが引き起こした人災だったのです。米商人の主犯格六人は、仲間の商人と結託して、諸国からの米の流通路を塞いで、人為的に京都を飢饉に陥らせたのです。実際に餓死者も出ているわけですから、被害は甚大だったと考えられます。こんな状況で米商人たちは、自分たちの保有している米を高く売りさばいたのでしょう。ボロ儲けです。主犯格六人と仲間を含めた、たった数十人の民間人で、京都を飢饉にしてしまうことができるとは、なんとも恐ろしいことです。

 ところで、この犯人らを召し捕った侍所の所司代浦上性貞は、この一件でメンツを潰して職を辞したことになっていますが、東島著書によると、実は浦上自身も米商人たちと結託していたそうなのです。役人と商人が結託して不正に蓄財する。まさに、時代劇?現代劇?、それともノンフィクション?でよく見かける構図です。

 それにしてもよくわからないのが、主犯格として斬首された門次郎と唐紙師です。彼らは米商人と見なされているのですが、唐紙師の場合、唐紙をつくったり、襖障子に貼り付けたりする職人のはずです。同時に米も商っていたということなのでしょうか。それとも、この謀略を主導して、いくらかの分け前に預かっただけなのでしょうか。よくわかりません。

 また、門次郎はもともと乞食だったようですが、何をきっかけに米商人化したのでしょうか。それとも、別に商人というわけではなく、この謀略を主導しただけなのでしょうか。いったい、乞食と米商人の間のどこに、社会的な接点があったのでしょうか。こちらもよくわかりません。

 唐紙師でありながら米商人、乞食でありながら米商人。一人の人間がさまざまな身分や役割を、重層的に備えている。これが中世びとの存在形態だったようです。

 

 

*2021.6.28追記

 乞食の門次郎について、次のような指摘を見つけました。

 

 『看聞日記』の伝えるところでは、室町初期(十五世紀)京中の米商人の連合組織が米相場の釣り上げをはかり、飢饉が起こった。その悪徳米商人の張本人は元乞食の門次郎という男であった。元乞食が米商人の座組織に入っているということは、洛中の町にも店舗を構えていたことを意味して、れっきとした「町人」(市民)であったことを意味する。京中の町々は自治が強く、家屋売買価の十分の一を町共同体に納入すれば町共同体に加入を許されたから、お金さえあれば町人としての上昇転化は可能であったことがわかる。そのほか、村落などで浪人を招き寄せて開発するなどの例からみて、個々の人々の上昇転化コースは相当あったと見られる。しかし、戦国期も終わりに近づくと、京都の町々の掟では、被差別民に家屋を売らないことが規定されはじめる(『鶏鉾町文書』等)ので、それも不可能になっていくのである(脇田晴子「序論 研究史と課題」『日本中世被差別民の研究』岩波書店、2002年、17・18頁)。

 

 私は「乞食」という存在を、現代で言うところの生活困窮者だと思い込んでいたのですが、どうやらそうではないようです。永原慶二氏によると、当時の「乞食」は、「たんなる生活状態をさす概念ではなく、一定の身分的状態を表す言葉」であったそうです(「付説 富裕な乞食」『永原慶二著作選集』第三巻、吉川弘文館、2007年、初出1971年、286頁)。すべての被差別民が裕福だったわけではないのでしょうが、皮革業、死体の処理、採鉱業、流通業などに従事することで、一部の被差別民はかなり蓄財ができていたようなのです(「村落共同体からの流出民と荘園制支配」前掲永原著書、255頁)。今回の門次郎は、もともとどのような仕事に従事していたのかはわかりませんが、蓄財に成功して、京の町人へと身分上昇したと考えられます。