周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

石井文書(石井英三氏所蔵)12

    一二 大内氏奉行人書状寫

 

『横紙書翰』

 今度御上洛已来数年、別而御馳走上、至丹波供奉、剰去月廿四日於

 船岡山御合戦之時、太刀討之御感状任官、尤以目出候、弥被忠節者、可

 為肝要候、恐々謹言、

      (1511)

     永正八

                   (杉)

       九月十三日        興宣

        (元家ヵ)

      石井孫兵衛尉殿

 

 「書き下し文」

 今度御上洛以来数年、別して御馳走の上、丹波に至り供奉を遂げられ、剰へ去月四日船岡山に於いて御合戦の時、太刀討の御感状任官、尤も以て目出候ふ、いよいよ忠節を抽でらるるは、肝要たるべく候ふ、恐々謹言、

 

 「解釈」

 今度の大内義興様の御上洛以来数年に及んで、とりわけご奔走になったうえに、丹波への逃亡にもお供なさり、そのうえ去る八月二十四日の船岡山合戦のとき、太刀で戦ったことに対する御感状の発給と任官については、いかにも喜ばしいことです。ますます忠節を遂げなさることが大切です。以上、謹んで申し上げます。

 

 

 「注釈」

船岡山の戦」─永正八年(1511)八月二十四日船岡山京都市北区)に陣した細

        川澄元・同政賢・同元常の兵を足利義尹(義稙)・細川高国・大内義

        興の兵が攻め破った合戦。細川政元の手で将軍の地位を追われ越中国

        に逃れた義材は、のち義尹と改名して大内義興を頼っていた。その義

        尹が永正五年に大内義興に擁され、細川高国の支持を得て入京し、将

        軍に再任された。このため、将軍足利義澄や細川澄元は近江に逃れ

        た。澄元は永正六年に阿波国に帰り再起を期した。永正八年に入ると

        澄元は細川政賢・細川元常と連携に成功し、京都に迫った。このた

        め、八月十六日に将軍義尹・細川高国大内義興は都を離れて丹波国

        に逃れた。同二十四日に将軍義尹らが反撃に出たのが船岡山の戦であ

        る。細川政賢が戦死するなど澄元方が完敗した。なお、船岡山には澄

        元を要する近江勢も出陣していたが、前将軍義澄はすでに八月十四日

        に近江岡山城で没していた(『国史大辞典』)。

「太刀討」─太刀打。①太刀で打ち合い、たたかうこと。②張り合って競争すること。

      互角の勝負をすること。③槍の部分の名。槍の口金から血溜りまでの間。

      太刀走り。④籠手(こて)の異称(『日本国語大辞典』)。