周梨槃特のブログ

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自殺の中世史 吾妻鏡8 〜後悔と自殺〜

  承久三年(1221)六月六日条

                   『吾妻鏡』第廿五(『国史大系』第三二巻)

 

 六日己未、今曉、武藏太郎時氏、陸奥六郎有時、相具少輔判官代佐房、阿曽沼次郎親綱、小鹿嶋橋左右衛門尉公成、波多野次郎經朝、善左衛門尉太郎康知、安保形部烝實光等渡摩免戸、官軍不及發矢敗走、山田次郎重忠獨残留、與伊佐三郎行政相戰、是又逐電、鏡右衛門尉久綱留于此所、註姓名於旗面、立置高岸、與少輔判官代合戰、久綱云、依相副臆病秀康、如所存不遂合戰、後悔千萬云々、遂自殺、見旗銘拭悲涙云々、武藏太郎到于筵田、官軍卅許輩相搆合戰、負楯、精兵射東士及數返、武藏太郎令善右衛門太郎中山次郎等射返之、波多野五郎義重進先登之處、矢石中右目、心神雖違亂、則射答矢云々、官軍逃亡、凡株河、洲俣、市脇等要害悉以敗畢、

 

 「書き下し文」

 六日己未、今暁、武蔵太郎時氏・陸奥六郎有時、少輔判官代佐房・阿曽沼次郎親綱・小鹿嶋橘左衛門尉公成・波多野中務次郎経朝・善右衛門太郎康知・安保刑部丞實光等を相具し摩免戸を渡る、官軍矢を発つに及ばず敗走す、山田次郎重忠独り残留し、伊佐三郎行政と相戦い、是れ又逐電す、鏡右衛門尉久綱此所に留まり、姓名を旗面に註し、高岸に立て置き、少輔判官代と合戦す、久綱云く、臆病の秀康に相副ふにより、所存のごとく合戦を遂げず、後悔千万と云々、遂に自殺し、旗の銘を見て悲涙を拭ふと云々、武蔵太郎筵田に到り、官軍三十ばかりの輩相構へて合戦す、楯を負ひ、精兵東士を射ること数返に及ぶ、武蔵太郎善右衛門太郎・中山次郎等をして之を射返さしむ、波多野五郎義重先登を進むの処、矢石右目に中たり、心神違乱すと雖も、則ち答矢を射ると云々、官軍逃亡し、凡そ株河・洲俣・市脇等の要害悉く以て敗れ畢んぬ。

 

 「解釈」(『現代語訳 吾妻鏡』8、吉川弘文館、2010)

 六日、己未。今日の明け方、武蔵太郎(北条)時氏・陸奥六郎(北条)有時が、少輔判官代(大江)佐房・阿曽沼次郎親綱・小鹿島橘左衛門尉公成・波多野中務次郎経朝・善右衛門尉太郎(三善)康知・安保刑部丞実光らと共に摩免戸を渡った。官軍は矢を放つことなく敗走した。山田次郎重忠が一人留まり伊佐三郎行政と戦ったが、重忠もまた逐電した。鏡右衛門尉久綱はこの場に留まり、姓名を旗に記して高くそびえ立つ岸に立て置き、佐房と合戦した。久綱が言った。「臆病な(藤原)秀康に付き従ったため、思うように合戦することができず、非常に後悔している」。とうとう自殺し、(佐房は)旗の銘を見て悲涙を拭ったという。時氏が筵田に到着すると、官軍三十人ほどが待ち構えており、合戦となった。楯を背にした精鋭が東国武士を射ることは数回に及んだ。時氏は康知・中山次郎(重継)らに命じて矢を射返させた。波多野五郎義重は先陣を進んでいたところ、矢が右目に当たり、意識が朦朧としたものの、応戦の矢を射たという。官軍は逃亡し、総じて株河(くいせがわ)・洲俣・市脇などの要害は全て敗れ去った。

 

 「注釈」(以下、断らないかぎり、『現代語訳 吾妻鏡』の注釈を引用)

承久の乱

 ─1221(承久3)に後鳥羽上皇鎌倉幕府を討つためにおこした兵乱。鎌倉前期、幕府は東国政権の側面と、治天の君が率いる公家政権の権威下の軍事権門という側面を有していた。治天の君として院政を行う後鳥羽は、3代将軍源実朝を通して幕府を統御しようとしたが、実朝の横死や幕府が必ずしも自己の意向に従わないことへの不満から、武力での倒幕を決意する。幕府が北条政子・義時を中心に結集したのに対し、後鳥羽院は広範な在地の武士を軍事力として組織することができず、幕府軍が軍事的に勝利をおさめた。その結果、後鳥羽らの配流、六波羅探題の設置、新補地頭の大量補任がなされ、東国武士団の西国進出に道をひらいた。院政の政治形態や貴族社会の荘園領主権はひきつづき維持されたが、公家政権は著しく勢力を削減された。この後、北条氏を中心とした幕府が、皇位の決定をふくめ公家政権全体の主導権をにぎるようになった。

 

「佐房」

 ─生没年未詳。大江親広の男。承久の乱では父とは異なり幕府方に参じ、以後も幕府に仕えて頼経や政子に近侍する。

 

「親綱」

 ─生没年未詳。阿曽沼広綱の男。藤原姓足利氏の一族で、下野国安蘇郡阿曽沼(現、栃木県佐野市)を本拠とする武士。

 

「公成」

 ─生没年未詳。橘公長の男。奥州合戦の恩賞として出羽国秋田郡男鹿島を所領として小鹿島と称す。公業とも。

 

「康知」─?─1221(?─承久3)。三善康信の一族か。宇治川の戦いで溺死。

 

「摩免戸」─現、各務原市前渡に所在した木曽川の渡。前渡とも。

 

「重忠」

 ─?─1221(?─承久3)。山田重満の男。尾張源氏の武士で、承久の乱では子息の重継らとともに京方に参じたが、敗れて討死する。

 

「行政」─生没年未詳。伊佐三郎を称す。常陸国伊佐郡を本拠とする伊佐為宗の一族か。

 

「久綱」

 ─ ?─1221(?─承久3)。佐々木定重の男。定綱の孫。承久の乱では京方に参じたが摩免戸で敗れ、自害する。

 

「秀康」

 ─ ?─1221(承久3)。鎌倉前期の秀郷流藤原氏出身の北面・西面の武士。父は秀宗。後鳥羽上皇の側近。1221の承久の乱に際し、上皇方の総大将として美濃国摩免戸を防いで敗れ、宇治・勢多でも敗れて逃亡。10月河内でとらえられて殺された(『角川新版日本史辞典』)。

 

「筵田」─美濃国席田郡のうち。現、岐阜県本巣市の旧糸貫町付近。席田とも。

 

「重継」─生没年未詳。中山次郎と称す。秩父氏の一族か。

 

「義重」─生没年未詳。波多野忠経の男。のちに出雲守に任官し、鎌倉と京で活動。

 

「株河」

 ─岐阜県揖斐郡の池田山の渓水などを水源とし、大垣市の西部を経て養老郡養老町大野付近で牧田川に注ぐ河川。右岸の赤坂付近には株河駅があり、東山道の要衝であった。杭瀬川とも。

 

「洲俣」

 ─現、岐阜県大垣市墨俣町墨俣。当時の美濃・尾張国境である墨俣川(長良川)の渡河点。墨俣とも。

 

「市脇」─比定地未詳。墨俣川(長良川)の渡河点。

 

*今回の史料は、承久の乱に関する史料です。六月六日、味方の官軍(後鳥羽上皇方の軍勢)が敗走するなか、鏡久綱は摩免戸に留まって抗戦し、とうとう自殺してしまいます。その時に吐いたとされる言葉を素直に受け取ると、「臆病な総大将藤原秀康に属したため、思いどおりに戦えず、後悔した」という原因動機によって、自殺したことになります。つまり『吾妻鏡』は、「後悔」という心情の生起が、鏡久綱を「自殺」へ誘ったと説明しているわけです。

 「後悔千萬云々」と「遂自殺」の間に、何らかの説明を読み取る必要があると思いますし、何のために自殺したのかという目的動機も気になりますが、残念ながらこれ以上の情報を読み取ることはできません。