周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

井原著書2

 井原今朝男『中世の国家と天皇儀礼校倉書房、2012

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

序章

P12

 現代国家や象徴天皇制の安定性が顕著にみえ、大衆民主主義が謳歌される姿の時代であればこそ、現実批判力を鍛えることを学問の固有の任務とする歴史学の存在意義が高まる。

 原子力安全神話をつくり出した自然科学者・電力会社の技術者・経済通産省の技術官僚による科学知に対する国民の信頼感は、福島原発事故とともに崩れ去った。危機状況の中で、民衆から必要とされる学問知・専門知とは、現状追認や現実肯定のための知識ではない。今安定してみえる国家や天皇制が危機的状況に追い込まれるときが必ずやってくる。そのとき、必要とされる知の体系こそ、現代国家や天皇制にとってかわる社会組織の知の体系である。それは、現代国家や象徴天皇制の批判的検討なしには生まれない知の体系である。大学や先端研究機関に要請される学問知はそれゆえに現実批判力を鋭敏にすることが求められている。その出発点こそ主権在民基本的人権と国際平和を定めた日本国憲法にほかならない。(中略)

 しかし、バブル経済が崩壊し、空白の10年を経て21世紀の時代に入った現代では、国家や官僚制の権威は地に落ち、国政のもたらす福利を国民が享受するという日本国憲法の原理は、空文と化している。生存権が権利であったことは忘れられ、生活保護の受給は恥だとする社会思潮が広がって、都会での孤独死・会社が出ても生活保護申請を拒否する国民が登場している。国民の自殺者は1998年から現在もなお三万人を超える年が連続している。労働運動や社会運動が衰退し、生存権労働三権をはじめ国民の基本的人権は空文化し、社会福祉貧困ビジネスの餌食となりつつある。ワーキングプアーが流行語になり、単独世帯では年間所得185万から195万が貧困基準になり、生活保護基準以下で生活する貧困低所得者層は、稼働世帯を合わせて858万世帯にのぼっているという(『総合社会福祉研究』39号、2011年12月)。単身女性の貧困率は、単身男性のそれを大きく上回っている。

 21世紀の日本の現代社会は、確実に一億総中産階級から、特権的富裕層とミドル中産階級と無産化した労働者階級の三つに階層分化しはじめている。マルクス資本論』が予見した労働者階級の無産化がいよいよ列島の中で本格化し始める時代となりつつある。今こそ、長い歴史のスパンで現代社会を批判的に検討する歴史学の出番でなければならない。

 

P15

 歴史の教訓を学ぶには、災害・飢饉・疫病・戦争の中で無念の思いの中で死んでいった死人の口や書き残した史資料から聞き取る歴史学の方法に依拠するしか、他に術はない。歴史学は死人の口から人間が生き抜くための教訓を聞き取る学問である。

 

P16

 第一に、現代社会で国家権力の暴力性や強制力・統治能力がみえにくい、という現象は、なによりも中世国家の時代的特徴でもある。(中略)

 →宇野邦一『詩と権力のあいだ』と同じ見方。

 

 荘官・名主・百姓らも、国家権力はなんの保護も与えてくれないと不信感が強く、私縁や有縁を求めて荘園領主や地頭・守護・大名らとの主従関係に保護を求めて被官や所従・下人となって二重・三重の主従関係を重層的につくりあげていった。(中略)言い換えれば、社会の中で私縁や私的な主従関係が優先される社会の中で、国家権力が二次的な社会的機能をもっているに過ぎなかった。それゆえ、国家権力は家政権力よりも頼りない存在に見えたのであり、現代社会ときわめてよく類似している。

 とりわけ、中世の無縁・無所有の民、下人・所従・奴婢や流民・浮浪人・乞食・非人・癩病人らに対して中世の国家権力はまったく無力であり、彼らは国家の保護力の外に置かれた。社会の最下層民衆への政策的無策こそ、厳しく断罪されなければならない。無策も国家権力の無責任を物語るものに他ならない。

 現代社会も別名企業社会と言われるがごとく、国民は国家権力の支配よりも、企業や法人など資本家の支配や影響を強く受けている。国家権力と企業の私的権力とが複雑に絡み合って、しかも表面的には「民主的」な形式をとって国民の意識の領有化を進めている。かつて、宮地正人が「現代天皇イデオロギーを考える場合には、それ自身を対象とすると同時に、それを支える社会的意識状況、とりわけ企業社会における資本の側によって作り出される擬似的社会意識を効力にいれなければならない」(『天皇制の政治史的研究』校倉書房、1981年269頁)と指摘して雑誌『PHP』分析をはじめ企業イデオロギー分析の重要性を提起していた。現代社会においては、私企業や法人・自治体などが公権力としてイデオロギー支配の機能を果たしていることに留意して検討されなければならない。

 そうした意味でも、中世社会における国家権力と諸権門の家政権力とを区別する歴史分析法は、現代国家論においても有効な問題提起をなしうるものと考える。現代国家権力が、富裕者層や中産階級保護の政策を追求し、最下層民衆への富の再分配機能を果たしていないことを、中世史研究の視角から投射することも、中世史の国家論研究の果たすべき現代的課題であると言わなくてはならない。

 

P17

 第二に、現代の象徴天皇制は、天皇の政治権力がなく権威だけだと見られているが、それは中世天皇制に類似する。それゆえ、中世天皇制を歴史学的に分析することは、象徴天皇制の機能や役割、その危険性や警戒心をどこにはらう必要があるのかを明らかにするうえで格好の研究素材になるといって間違いない。

 

P18

 とりわけ、脇田晴子『天皇と中世文化』(吉川弘文館、2003年)や今谷明象徴天皇制の発見』(文春新書、1999年)・同『象徴天皇制の源流』(新人物往来社、2012年)は現代の象徴天皇制の淵源は中世天皇にあり、権力と権威の分離は中世から始まっているとし、現代の象徴天皇制を歴史的伝統的なものとして権威づけようとして、女性宮家創設に努力している。脇田晴子は文化勲章を受章し、その学問は天皇の権威の裏づけをもつように宣伝されている。いまや、今谷・脇田の中世天皇制研究が象徴天皇制を保証するものとして機能している。

 →中世天皇制(権力と権威の二元論)は、単なる分析視角・仮説であって、史実ではないのに、現代象徴天皇制の根拠とされていることが問題だということか。

 

 しかし、それは二人の個人的責任に帰せられる問題ではない。二人の研究史上の位置は、反権力・反天皇制の論陣をはった林屋辰三郎の門下生であることは周知の事実である。しかも、天皇制を権力と権威の二元論に分離して分析する方法論は、二人以外にも天皇制を相対化し、天皇制批判の論者にも共通している。とりわけ、今谷学説への批判が重要な研究課題であることを早い時期に指摘したのは、永原慶二の門下生であった池享である。その指摘の正しさが21世紀になって明白なりつつあるといえよう。ただ、戦後歴史学がとってきた権力と権威の二元論では、象徴天皇制を擁護する今谷・脇田の論調を生み出さざるを得なかったという研究史上の方法論の問題点を解明するところには至っていない。

 戦後歴史学の分析方法論の限界が、今谷・脇田の象徴天皇制擁護論を生み出したのである。その事実こそ、私に言わせれば、中世天皇制研究の遅れを示すものであって、権力権威二元論の分析方法の欠陥を物語るものに他ならない。網野善彦他編『岩波講座天皇と王権を考える』(全10巻、岩波書店、2002年)のシリーズ以降での王権論では、国家と天皇、官僚と王権、国家論と天皇制論とを相対的に区別する分析視角がほとんど見られなくなっている。

 古代史研究では、関晃や早川庄八『日本古代官僚制の研究』(岩波書店、1986年)、大津透『律令国家支配構造の研究』(岩波書店、1993年)などで、天皇制と古代律令官僚制とは区別して論じるべきであることが史実とともに明らかにされている。その方法論は佐藤進一『日本の中世国家』(岩波書店、1986年)でも展開されている。権力と権威の分有論や国家と天皇の一体論・王権論への批判的検討を深めることなしに、象徴天皇制や現代国家論を批判し、相対化することは不可能な学界状態にあるといって過言ではない。

 →政治史(現象論)と国家史(実体論)は違う。

 

 前著『日本中世の国政と家政』は、一貫して権力と権威の二分論の分析方法を批判し、中世天皇制において家政と国政の区別があり、天皇家による統治権的権力は弱体化していても、天皇の家父長制的権力は専制化していたことを指摘してきた。政治権力を国政権力と家政権力に二分する方法は、マックス・ウェーバーの『支配の社会学Ⅰ』(翻訳世良晃四郎、創文社、1960年)にも早くから指摘されているものである。官僚制的官吏と家産官僚制的官吏を区別する方法、統治権的支配と家父長制的支配の区分論は、日本の天皇制研究では極めて重要な分析視角と考える。そのために、脇田・今谷批判をはじめ、権威と権力の二元論や王権と官僚制を区別しない王権論の方法論を厳しく批判していくことが重要な研究課題だと痛感している。

 →権威と権力の二元論ではなく、国家権力と家政権力の二元論で考察するべき。

 

P20

 象徴天皇制は、法制的には多くの欠陥を持ちながら、社会的に存続してきた。それは、権威があるからではなく、天皇・皇室が皇族と宮内庁という家産官僚制を持ち続け、国民輿論や時代の社会思潮に依拠しながら政党政治の力のバランスのうえに社会システムとして機能してきたからである。大衆天皇制といわれる如く、国民意識に支えられて機能する社会システムの功罪を明らかにすることは、国家機関と私企業・法人などの社会権力の機能を明らかにする分析力を鍛えなければ不可能である。私にいわせれば、象徴天皇制もまさに戦後社会が作り出した一つの社会権力である。

 

P22

 私に言わせれば、網野史学はまさに日本の戦後社会が、サラリーマン労働者を有産者階級として育成し、一億総中流意識という国民意識によって世論をまとめあげることに成功した時代の歴史学を象徴していた。それゆえに、網野史学の歴史像は、国民的ブームの一面をもちえた。

 しかし、21世紀の日本社会は、一億総中流意識の存続を許さない現実生活が待っている。いまや、特権的富裕者階級と少ない中産階級と、増加する無産的労働者階級への三極分解が日本社会を襲っている。現代社会を三極構造論でみるかどうかは、実は中世社会を二極構造とみるか、三極構造に見るか、歴史研究者の中世社会の階層性の認識方法と連動している。中世社会も、公家・寺社・武家の権門=特権的富裕層、開発領主・百姓名・町人・職人の地主階級の中産階級、脇の者・名子・被官・中間・下人・所従・奴婢・流民・乞食・非人・河原者・癩病人など無産階級の最下層民衆の三代階層の社会構造を持っていたと私は考えている。歴史学の研究者が前近代社会の歴史分析の方法論をどうするかという問題は、現状認識の方法論の取り方と連動しているのである。

 日本中世の地主階級=中産階級であった開発領主・百姓・町人・職人らは、その社会基盤が弱体であり、武士層のように独自の政治権力をつくることができなかった。しかし、惣村や町などヨコの共同体を組織することによって、家の中で被支配層として下人・名子・所従・奴婢ら非血縁者を扶養し家父長背的に支配するタテの家政権力を持っており特権社会集団であった。中世農村の流動性が高く、百姓・職人身分が不安定で、階層的に分解する不安と同居していたがゆえに、神仏への依存意識が高く、仏教や宗教への依存度が極めて高かったのである。しかも、権門寺社の家政権力と一体化して、年中行事としての神事・仏事・公事(節供・節会)を同一部に実施することによって文化的習俗的に統合する民衆統合儀礼を作り出し、中世国家意識に統合する社会思潮を作り出してきた。それゆえ、五穀豊穣・玉体安穏・国家安全・攘災招福の枠組みから排除される社会勢力を生み出していく。呪詛や人身御供が実施され、儀礼の暴力性が顕著であった。起請文には、「日本国中三千一百三十二社、尽空法界一切の神等の罰を一々身の毛穴ごとに蒙るべきものなり」「現は白癩・黒癩の病を受け、人に交わらざる果報を感得し、まさに阿鼻大城の中に入り、永く出期あることなし」とある。中世国家の構成員から排除され、村や町の共同体からも排除された社会的弱者・癩病患者・身障者・河原者・非人・乞食・犯罪人・悪党・盗賊・流民・逃亡人・浮浪者などマイノリティの人々が差別された。これこそ、儀礼の暴力性・排除性・政治性を物語るものである(拙著『増補中世寺院と民衆』第7章、臨川書店、2009年)。

 儀礼のもつ暴力性・排除性・政治性の解明は、文化人類学ではなしえていない。劇場国家論の批判が必要な理由である。改めて、中世社会の階層性をどのように分析するか、という方法論的認識も、現代社会の階層性をどのように見るのか、という研究者としての現状認識の方法論に直結している問題である。若い歴史学徒には、人文社会科学としての歴史学のもつ厳しさをも覚悟して引き受ける勇気をもってほしいものである。

 →統合が進めば、そこから排除されるものが現れる。それが弱者。統合面だけでは、儀礼(対象)を分析したことにはならない。必ず反対の側面(排除・暴力)を分析してはじめて、対象の全体像を捉えることができる。すべての分析対象の対比的側面を見抜けるか。

 

P23

 「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基づくものである」

 日本国憲法は序文で高らかに宣言した。しかし、現実の日本社会では貧困所得者層850万世帯の人々が登場している。「健康で文化的な最低限度の生活を営む」ことができない人々の存在を忘れた学問や社会常識は、憲法違反の社会思潮であり、より人間的で文化的な社会を展望する未来に対して、暴力性を発揮していることを忘れてはならない。この現実こそが、現代国家論と象徴天皇制歴史学によって批判的に検討することを要求しているのである。

 歴史は絶対存在である過去の事実のうえに成立している。死者が絶対に生き返らないように、過去の事実は変わらないし絶対に変えられない。何も付け加えることはできない。それゆえ、時の権力者や民族・国家・階級など集団や共同体は過去を引き受けることができずに、過去の事実を意図的に粉飾しようとし、歴史の暗部に蓋をする。歴史学は、過去の絶対不変の事実を掘り起こして、歴史的必然の中から現代人がより民主的で平和のうちに生活できる社会を作り出すために、歴史の中からより人間的な対応を選択する術と智慧を獲得するための学問である。それゆえ、言説化・文字化された史料の中から粉飾された色眼鏡を史料批判学によって除去し、過去の事実を事実として掘り起こすための論理と推論のうえに成立する。史料批判学と論理的推論の手続きを追体験できる科学性・実証性をもっていなければならない。それゆえ、歴史学は本質的に現状批判の学問にならざるをえない。

 

P27

 人類学や社会学・国文学などとの学際的共同研究が重要であるのは、歴史学が固有で独自の分析対象と分析視角をもつからである。他の学問分野ではできない分析力を歴史学が発揮しえなくなったら、それこそ歴史学の危機である。

 

P28

 国家儀礼と民間儀礼の共通性・連鎖構造が、禁裏の儀礼知と民間の慣習知の共通性を生みだした。それによって「民族」としての共通な価値観・社会常識が生まれ、中世では漢詩・管弦・和歌など文化的社会教養が生み出されてきたことを論じた。

 →文学作品の階層・地方伝播。特に、平家物語のような語り文学の影響も大きいのではないか。

 

P29

 宮中儀礼での大饗や節会に付属する歌遊・後宴における貴族層らによる宴が、室町期には御楽や御会・御遊という独自の儀礼を生みだした。それは儀礼と宴が、神仏をその場に勧請して、人と神仏とが共飲共食して法楽することによって神仏の力で護国安穏・五穀豊穣・人民快楽の実現を達成しようとする国政運営の構造論に規定されていた。このため、室町戦国期には、貴族層が地方の知行地に下国したとき、在地の百姓層・有徳人層への手猿楽や風流の質の高さに感心して、漢詩・管弦・和歌を古今伝授や私塾・切紙伝授として金銭化するようになった。民間における儀礼知と宮中や公家らの儀礼知とが基本的性格を共通にしていたからこそ地方の田舎や鄙でも金銭を出してでも、京都文化を受容しようとしたのである。そうした同一の文化圏が都鄙間で形成されていたからこそ、中世後期に学問・管弦・和歌など社会教養の資産化・財産化が進展したのである。禁裏の儀礼知のもつ雅の文化論や古典文化を強調する研究は、戦前の原勝郎、戦後の芳賀幸四郎亀井勝一郎らが強調した観念的な空虚な文化論であり、尊皇主義のあらわれである。禁裏や公家・京都文化がもっていた中世の儀礼知は、単なる文字知ではなく、音楽や芸能など目に見えないものを「所作」を介して型の稽古によって、他人に伝授することを可能にし、地方や鄙へと拡大し、宗教や民間知との文化的統合を図ることを可能にした。儀礼知の民衆的社会基盤とその歴史的意義の解明こそが今後の重要な研究課題であると私は考えている。

 現代社会の個別的要素の淵源を中世社会の中に発見しようとして歴史を連続性において分析し伝統的なものと評価することは社会学や人類学など多方面から行われている。歴史学としての中世史研究の独自の役割は、反対に、現代社会の中では消されてしまった中世という時代の個性、時代的特質を究明することによって、現代社会と国家の非人間性を明らかにし、批判的見地を再構築することである。それこそが、中世史研究の現代的意義であると考える。主権者の民が、現代国家や象徴天皇制に対する批判的検討を行おうとする際に、本書が何らかの一助になれば、これに過ぐるよろこびはない。

 

第1章 中世の国家構造と家政

P34

 しかし、当時の国民や歴史学会はその要請(石母田:国民と歴史研究者自身が新しい国家観をつくり出すべき)に十分応えることができなかったように思う。その半面、石母田自身も冷戦構造の中で国民国家の存在を当然の前提とし、いつの時代の国家も公権力を独占し、国政機関のみが公法的機能を果たすものという歴史像に縛られていたのではないか、といえよう。

 →家政が国政の一端を担うことがある。

 

P38

 だとすれば、かつて石母田がしたように「公私混淆」を政治の頽廃として現代人の目から断罪することが重要なのではない。中世国家における「公私混淆」の内部構造や時代的特質を分析し、日本寺の公私観念の独自性や歴史性を解明することこそ、歴史学研究の重要な研究課題と言わなくてはならない。

 

P42

 古代に完全な国家機構が成立したとする観念は、かつて高柳光寿が儒教的盲信だと厳しく批判したように、根本的な見直しが必要である。

 国家は社会から生まれて社会から外的になる権力として官僚制や軍隊・警察・裁判権力・徴税機構などの国家機関を拡充させていく存在である。社会利害の対立が複雑になればなるほど、国家機構も複雑で肥大化・効率化されていくものと考えるべきである。より単純な社会では幼稚な国家機構で事足りたといえよう。(中略)

 諸権門の家政権力の非自律性と、中世国家の幼稚性・小規模性が、総合に補完関係をもちながら、「公私混淆」=「国政と家政の分裂と統合」が推進された。それが中世国家の時代的特質といえる。それこそ、国家組織の発展史上での中世国家の歴史的限界を示すものである。中世社会が必要とする利害対立の調整業務=国政的業務の多様さと、中世国家の国政機関の幼稚性・小規模性とのズレ・矛盾が存在していたのである。

 この矛盾を克服するため、臨時的に天皇家政機関として生まれた摂関・承継・職事や将軍・院庁・伝奏・検非違使別当などが、常設化・恒常化して国家機関化した。しかも、弁官局外記局・官務局務・六位外記史という太政官下部機構と一体化して、中世公家政治の中央官僚行政執行機関が確立した。摂関・院・将軍・門跡らは、勅問や執奏での意見具申で国家意志決定過程に参加する合議機関である。これこそ、中世天皇制の中央官僚機関としての職事弁官機構論を提起している理由である。勿論、ひとつの仮説であり、今後いくつかの論証が必要である。本書は、国家論について中世史研究が積み残した課題に応えようとした試みである。

 

P43

 政治学の分野では、国家の構造や機能について政治的機能と非政治的機能に分けて分析する方法がとられている。これまでの歴史学研究においては、社会から外的になる権力として官僚制や軍隊・警察・裁判機構などの政治的抑圧機関が注目されてきた。

 しかし、私が検討したかったのは、むしろ非政治的な存在にみえる国家機能の役割であった。現代国家においては、昭和天皇の在位60年記念式典・元号法制化・天皇即位式・大嘗会などの儀礼や祭礼、文化勲章や知事表彰など顕彰事業、公共事業、社会福祉、教育行政、世論操作など非政治的分野での国家機能が肥大化している。社会や民衆の支持を失った国家権力がいかに脆いものであるかは、ソ連や東欧諸国の現代史が如実に物語っている。

 国家という存在は、社会における公共的機能を果たし、社会的正当性と民衆的基盤を獲得することなしには、官僚制や軍隊・警察・裁判機構など抑圧機関そのものも有効に機能しえないことが明確になっている。昨今の現代史は、法的強制力や暴力的権力的な抑圧と隷属だけでは、国家は維持・存続できないことを示している。

 

P44

 (第一に重要なこと)にもかかわらず、修正会・仁王会・四月神事・五節供・六月祓・彼岸会・十一月神事・歳末御読経などのいくつかは、天皇の朝廷行事や権門寺社の年中行事として、また国分寺や地方有力寺社はもとより、荘園鎮守や村落寺社に至るまで全国各地で同一日に同じ行事が重層的に実施されていた。天皇を頂点とする貴族と同じ構造の儀礼・祭礼が農村の中にも存在していた。同じ日に同じ行事が上は天皇から下は村の百姓まで共通して営まれていた。この事実が支配層と非支配層の一体感を育成し、文化的民族的統合を進め、あわせて権力による民衆の意志の領有を実現し、社会の均一性を高める機能を果たした。これを私は、民衆統合儀礼と呼んだ。前近代社会では、宗教的儀礼の執行を通して国家による統合的機能が発揮されていたといえる。

 

P45

 第二の社会的機能は、儀礼の体系が儀礼用途を公事として徴収する収取体制を正当化する役割を果たしていたことである。(中略)年中行事の体系こそ、中世国家による公事収取を正当化する歴史的役割を果たした。中世国家は、宗教的儀礼を執行することで、五穀豊穣・百姓安穏を民に保障し、民衆は国家に公事用途を調進する。国家と民衆は双務・互酬的契約関係によって結ばれていた。国家儀礼と民間儀礼とが連動する儀礼体系は、中世国家にとっては、宗教的儀礼によって五穀豊穣と百姓安穏を実現することが国家目標であり、それによって国税徴収を正当化させえたといわなければならない。中世の国家的次元の機能として、儀礼体系と徴税体系の重要性が再評価される必要がある。

 第三の社会的機能は、儀礼体系が身分秩序を確定する機能を持っていたことである。国家儀礼の多様な公事は、本家役・領家役・預所役・受領(国司)役・下司役・地頭役・御家人役・田堵役・百姓役・作人役など身分に応じて負担内容が決められ、慣習知となっていた。その役は義務であるとともに名誉でもあった。

 年中行事の役は、職と身分に応じて勤仕する役が決定され、役の勤仕は「祝之事」とされた。このため、国家と民衆との間における収奪機能や利害対立がカモフラージュされるというシステムになっていた。

 中世社会では「諸荘之法」として「正月節養」が行われる慣行になっていた。それは、正月に預所が百姓を招いて年の作田について請負契約を結ぶ場であり、百姓身分の確定する場であった。それゆえ、節養は「優恕之儀」を以て行うものとされ、吉書と官能の儀礼の場であり、祝の場でもあった(前掲書359頁)。階級支配の矛盾や利害対立を儀礼や祝事として覆い隠し執行する社会システムが存在した。

 以上のことは、非政治的非階級的にみる宗教的儀礼や祝事こそが中世において、階級利害の対立が先鋭化しやすい場所であったことを示している。だからこそ、儀礼は地域の身分秩序を再確認する社会的機能を持っていたといえよう。薗部寿樹『中世村落と名主座の研究』(高志書院、2011年)などのように、村落や在地での祝事や身分秩序研究の進展が期待される。

 こうしたことは、何も中世社会固有の歴史事象ではあるまい。各時代ともに儀礼が果たした歴史的機能を解明することは、その社会の階級対立・利害対立を暴き出すことにつながっているといえる。国家においても儀礼においても、非政治的機能に見えるものこそ、本質的には身分秩序や階級対立・利害対立を祝事としてカモフラージュしていたのである。中世国家に固有の研究の対象として儀礼体系を設定することが必要である。中世国家は儀礼体系を通して、中世的身分秩序を社会の中に定着させる機能を果たしていたのである。

 →権力は見えないときほど、最も発揮されている(宇野邦一『詩と権力のあいだ』)。昭和天皇危篤・崩御のとき、外食産業の売り上げは激減。祝事は自粛、赤い魚は売れなかった。国家が強制していないのに、国民が自粛し、メディアがそれを共時的に報道する。天皇に敬意を抱かせる、非政治的なシステムがメディアか。

 

P47

 国家の徴税機能は最も重要な本質的機能といえよう。もとより、徴税機能は国家機関だけではなく、権門の家政権力も荘園年貢・公事を徴収したことはいうまでもない。しかし、なぜ民衆は納税し、年貢・公事を納めるのか、という本質的問題について、これまでの歴史学はその解答を提出しえていない。(中略)

 私は、国家が各時代において租庸調や年貢・公事や一国平均役・段銭などの納入をどのように民衆に納得させていたのか、その徴税システムや正当化の論理がいかなるものであったのか、権門の家政権力の年貢公事徴収システムと国家による国役・造内裏段銭などの徴収システムとの相互関係の解明こそ、国家論の課題であると考えた。それゆえ、財政史と税制史を取り込もうとしたのである。

 これまでの中世史研究では、徴税は封建領主の経済外的強制によるものとされ、領主論にとってかえられ、国家論として租税史は検討されてこなかった。日本史学では、戦前戦後をつうじて今なお、財政史・税制史は最も弱い未開拓の分野であり、今後の若い研究者の活躍が期待される。

 

P48

 荘園所課の場合にも同様に在地転嫁の徴収構造が見られた。法勝寺大乗会や賀茂祭など国家行事で摂関家が負担するべき用途である「袈裟」や「恒例召物」は摂関家領の「冨田荘預所」や「五か荘役」として賦課されていた。ここから、荘園公事は国家儀礼において、権門寺社が本家役・寺家沙汰などとして負担すべきものが在地に転嫁されたものと考えた。本家において国家儀礼を国家機関と共同執行することのできる荘園領主のみが家領に公事を賦課する権利を国家から保障されたものという仮説を私は提起した。

 本所は国家儀礼において役を負担するから、家領日本助役を賦課できるのであり、国司も国家行事で国司役を勤めるから国内に国役を孵化できた。公事負担者が他方では公事賦課の主体になりうるという連鎖構造が社会の下部まで浸透していた。中世における国役・公事が在地における双務性・互酬性によって社会的認知を受けるとともに、国家からも承認されることが必要であったという二面性を問題提起した。(中略)

 荘園公事と国家が賦課する公事との違いを仏事や香典との関係から検討した岡野友彦「久我家領荘園における公田と公事」(『中世久我家と久我家領荘園』続群書類従完成会、2002年)がある。国家儀礼としての長講堂御八講の用途は全国の院領荘園にほぼ一律賦課されているに対して、久我家の家行事である久我八講の用途は久我荘という名字地の「散田畠」に賦課されていた事例を解明している。しかも、荘園における「散田畠」と「公田」のうち、後者にのみ名別公事が賦課されていることに注目している。荘園の国家的性格について、荘園の内部構造に踏み込んで分析する研究が前進している。

 →幕府や荘園領主、守護・地頭などが在地に賦課した年貢・公事は、国家から幕府や荘園領主、守護・地頭などに賦課された役を、在地に振り分けたものだったということ。

 

P51

 守護や地頭御家人の内裏大番役も、将軍のための役であるとともに百姓の橋上役と共通した国家的賦課の側面=天皇のための役という側面を持っていたことに注目すべきである。(中略)

 守護・守護代はあくまで諸国所課の国司代行機関となっており、国家の行政官の一側面が生きていたと言わなくてはならない。(中略)

 ここ(安嘉門院御所造営)では、国家事業を関東御訪として幕府が負担したものは、幕府の家政的所課として地頭御家人の私得分で負担すべきであって公の百姓役として転嫁することを禁じられていたと考えるべきなのである。幕府が家政権力として負担しなければならない御訪は、百姓役や土民等に賦課することが禁じられ、あくまで地頭御家人という将軍の家人の私得分から支出すべきものと厳密に区別されていたのである。

 中世社会では地頭御家人といえども私得分から支出すべきものと、百姓への役に在地転嫁してよいものとの区別が社会ルールになっていたのである。

 

P52

 本来なら門跡役として御訪料を私得分から自力で勤めるべき名誉な役を在地転嫁して百姓から徴収したのでは、経済的困窮を世間に示すことになるから「見苦」と意識したのである。

 

P53

 以上、本章の考察から、中世国家が果たしていた国家的次元の諸機能とは、宗教的儀礼による五穀豊穣・百姓安穏を国家目標とし、徴税体系を正当化し、身分秩序の安定化と天皇の名による、段銭や天役の在地転嫁の正当化システムであったと主張したい。