周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

石井文書(石井英三氏所蔵)17

    一七 安藝国賀茂郡東西條篠村打渡坪付寫

 

『竪紙書付』

 一藝州賀茂郡東西條佐々村領地打渡之坪付

  田数壹町九反半

   分米拾貳石九斗

  畑数三反大

   代方五百五十文

  以上合田畑共分米拾三石四斗五升

    (1590)

    天正十八           兒玉

       二月十一日         弥左衛門

                         『在判』

                   内藤 (元榮)

                     与三右衛門

                         『同』

         (勝家)

       石井孫兵衛殿

『裏書』

 今度御究相澄畢、

   (1597)                (元武)

    慶貳八月九日          國司備後守『在判』

                      (元宗)

                    山田吉兵衛丞『同』

 

*書き下し文・解釈は省略しました。

 

 「注釈」

「篠村」─現東広島市八本松篠。黒瀬川上流に位置し、北に虚空蔵山(666・1メー

     トル)がそびえ、東・西も400─600メートル級の山に囲まれる。南は

     正力村に接し、東の造賀村、西の志和東村、西北の内村へはそれぞれ峠越の

     道が通じていた。志和東村との間には波滝寺池があり、黒瀬川の水源となっ

     ている。

     文和三年(1354)三月十八日付源頼忠寄進状(磯部文書)によると、

     佐々村地頭三戸(源)頼忠が佐々村大明神に一反半の地を寄進しておりこの

     佐々村大明神は現岩蔵神社で、「安芸国神名帳」所載の佐々村明神にあたる

     とされる。このとき頼忠が寄進した手作地(正作)江四郎名・西念名はとも

     に文政五年(1822)の篠村水帳に小字名として残る(広島県川上村

     史)。戦国末期になると内村から転出した石井氏が東村に給地を得、天正

     八年(1590)二月十一日付安芸国賀茂郡東西条篠村打渡坪付写(石井文

     書)には田一町九反半・畑三反大とあり、慶長二年(1597)の再検地で

     も改めて認められた(同文書)(『広島県の地名』平凡社)。