周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

ウツワの小さな小便坊主 (Monniken Pis)

  永享四年(1432)五月廿四日条  (『図書寮叢刊 看聞日記』4─56頁)

 

 廿四日、晴、聞、去廿日北野社僧七八人児一両人相伴、下京辺勧進くせ舞見物、面々

  酔気之間、北山鹿苑寺未見之由申、帰路彼寺へ罷向、寺門ニ僧一人小便ス、児見之

      (抛ヵ)

  咲之間僧尤之、仍申合之間忽喧嘩及刃傷、北野法師二人死、僧一人死、自鹿苑寺

  野へ欲押寄、室町殿被聞食、北野へ寄事不可然之由被止之、両方之儀被尋聞食、北

                         〔議〕

  野法師僻事之由被仰、彼輩被召捕被籠舎云々、不思儀天魔之所為歟、

 

 「書き下し文」

 二十四日、晴る、聞く、去んぬる二十日北野社僧七、八人、児一両人を相伴し、下京辺りに勧進くせ舞を見物す、面々酔気の間、北山鹿苑寺を未だ見ざるの由申し、帰路彼の寺へ罷り向かふ、寺門に僧一人小便す、児之を見て咲ふの間僧之を抛つ、仍て申し合はすの間忽ち喧嘩刃傷に及び、北野法師二人死し、僧一人死す、鹿苑寺より北野へ押し寄せんと欲す、室町殿聞こし食され、北野へ寄する事然るべからざるの由之を止めらる、両方の儀尋ね聞こし食され、北野法師僻事の由仰せられ、彼の輩を召し捕られ籠舎せらると云々、不思議天魔の所為か、

 

 「解釈」

 二十四日、晴れ。聞くところによると、去る五月二十日、北野社の社僧七、八人が稚児二人ほどを連れて、下京あたりで勧進曲舞を見物した。各々酔っ払っているようで、北山の鹿苑寺をまだ見物したことがないと申し、帰りに鹿苑寺へ下向した。鹿苑寺の寺門で僧が一人小便をしていた。稚児はこれを見て笑ったので、小便をしていた僧はこの稚児を投げ飛ばした。そこで言い合いとなって、あっという間に喧嘩・刃傷沙汰へと展開し、北野法師が二人死亡し、鹿苑寺僧一人が死亡した。鹿苑寺から北野社へ攻め寄せようとした。(この件を)室町殿足利義教がお聞きになり、北野へ攻め寄せることは不適切なことである、とお止めになった。鹿苑寺と北野社の両方の主張を尋ねてお聞きになり、北野法師側が道理に反していると仰せになって、彼らを召し捕って拘禁なさったそうだ。けしからぬことで、天魔のしわざであろうか。

 

 May 24th, sunny. On May 20, seven or eight monks in Kitano Tenmangu shrine watched dance in the Shimokyo area with two boys,. They were drunk. They went there on the way back because they had not yet seen the Rokuonji temple(Kinkaku) in Kitayama. A monk was pissing in front of the gate of Rokuonji temple. The boy looked at him and laughed, and the monk threw this child away. Immediately the monks of Kitano Tenmangu fought with the monks of Rokuonji. Two monks of Kitano Tenmangu was dead, and a monk of Rokuonji was dead.After that, the Rokuonji monks tried to attack Kitano Tenmangu.General Ashikaga Yoshinori heard this incident and said that he should not attack Kitano Tenmangu. And he stopped the attack. The general heard both the claims of Rokuonji and Kitano Tenmangu, and ruled that the Kitano monks were illegal. The general captured and detained them. This is a terrible affair, and maybe a devil's work.

 (I used Google Translate.)

 

 

 「注釈」

勧進くせ舞」

 ─寺社の建造費を集めるのを目的とした臨時の舞踊興行(清水克行「室町人の面目」『喧嘩両成敗の誕生』講談社、2006、12〜115頁)。「曲舞・久世舞」は、①(正式ではない舞の意で、正舞に対する語)南北朝時代から室町初期にかけて流行した芸能。また、それを演ずる人。簡単な舞を伴い、鼓に合わせて歌う叙事的な歌謡。白拍子舞から派生したという。少年や美女が立烏帽子、水干、大口の男姿で演じるのが喜ばれ、また、直垂、大口姿の男や声聞師も演じた。観阿弥はこれを猿楽に取り入れてクセを成立させた。②幸若舞の別称。③能楽の喜多・金剛流で、蘭曲の別称(『日本国語大辞典』)。

 

*今回は「小便小僧」ならぬ、「小便坊主」のお話。ウィキペディアによると、小便小僧の由来の1つに、「爆弾の導火線に小便をかけて消し、町を救った少年がいた」という武勇伝があるそうですが、室町時代の「小便坊主」は、むしろ争いのきっかけをつくってしまったようです。この事件については、前掲清水著書で詳細に分析されています。

 それにしても、立小便を笑った、笑われたなどという、本当に些細な出来事で殺し合いになるなんて、なんと器の小さい話でしょうか。ちょうど、車で煽った、煽られたで、ブチギレて暴行・殺人事件にまで展開する現代人と同じぐらいの器の小ささです。まるでお猪口…。自分自身にも思い当たる節があるだけに、情けなくて笑えます。

 さて、こんな考え方をするようになったのは、東島誠『自由にしてケシカラン人々の世紀』(講談社、2010)を読んだからです。おもしろい箇所なので、そのまま引用しておきます。

 

 

 ⑫ヨーロッパでは嬰児が生まれてから殺されるということは滅多に、というよりほとんど全くない。日本の女性は、育てていくことができないと思うと、みんな喉の上に足をのせて殺してしまう。

 ⑬ヨーロッパでは、生まれる児を堕胎することはあるにはあるが、滅多にない。日本ではきわめて普通のことで、二十回もおろした女性があるほどである。(以上、フロイス『日欧文化比較』)

 

 まだ近代と現代の連続性が意識されていた二十世紀までであれば、これらはなお「信じられない」という光景であったはずである。それはまさに〈アリエナイ〉中世の一齣である。一九七〇年代のコインロッカー・ベイビーの衝撃は、村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』(一九八〇年)が、いまだ作品として成り立つ余地のあった時代であることを示していよう。しかし二〇一〇年の現在、親が自分の子供を虐待したり、車に放置して死なせたり、という話は、残念ながら、われわれの感覚を麻痺させるほどによく聞かれるニュースになりつつあるのである。それはもはや、〈アリエナイ〉異質的社会の出来事ではなくなってきている。

   (中略)

 しかし二十一世紀に入ってはっきり言えることは、現代もまた近代と異質である、そういう認識が広く共有されるようになった、ということである。むしろ現代は、〈異質な近代〉を越えて、中世に近いかもしれない、そう言えるところまで来ているのである。

 なお、十六世紀末のフロイスが見た光景には、前の嬰児虐待の話以外にも、近代と現代の価値観の落差に気づかされる事例が少なくない。特に女性観にかかわるものがそうである。

 

 ⑭ヨーロッパでは娘や処女を閉じ込めておくことは極めて大事なことで、厳格におこなわれる。日本では娘たちは両親にことわりもしないで一日でも幾日でも、ひとりで好きなところへ出かける。

 ⑮ヨーロッパでは妻は夫の許可が無くては、家から外へ出ない。日本の女性は夫に知らせず、好きな所に行く自由をもっている(以上、フロイス『日欧文化比較』)。

 

 「主婦(housewife)」という言葉が産業革命とともに誕生したことに象徴されるように、近代こそ女性の自由がもっとも抑圧された時代であったとする、今日の常識から見るならば、フロイスのまなざしはまさに〈近代人〉のそれである。これら戦国時代の女性の行動をフロイスのように「アリエナイ」光景と見るか否か、それはあなた自身の拠って立つ価値観を映し出す試験紙となりうるだろう(29〜31頁)。

 

 この本を読むまで、中世と現代が似ているなどという見方をしたことはありませんでした。中世の自由な感じが似ているのはよしとして、殺伐とした感じまで似ているのは残念です。中世人のキレやすさと現代人のキレやすさ。どこが同じで、どこが違うのか。両者の特徴や背景などが明確になるとおもしろいのですが。

 そういえば、児童虐待って、年々件数が増加しているそうですが、まるでそんな事実はないかのように、メディアで扱われる頻度が少なくなってきたような気がします。たいして珍しくもない、価値のないニュースは取り上げても仕方ない、という資本主義下のメディアの鉄則が透けて見えます。(*2019.2.4追記:1月24日の事件のように、死者が出なければ、取り上げられないようです。結局のところ、同類のニュースを垂れ流されることに、消費者が飽きてしまうのが、一番の原因なのでしょうが…。)

 記録に残る(報道される)のは、その出来事が珍しいから、もしくは政治的・経済的・社会的に価値があるから…。記録に残らない(報道されない)のは、その出来事がなくなったからではなく、遍在化してしまったから、もしくは政治的・経済的・社会的な価値(金銭的な価値)がなくなったから…。資料分析とは難しいものです。

 

 

*2021.6.24追記

 この事件を記したもう1つの史料を紹介します。

 

    永享四年(1432)五月二十日条(『満済准后日記』下─389頁)

 

 廿日。晴。(中略)

  北野社僧三人。於北山鹿苑寺喧嘩事在之。一人ハ於当座死去了。一人ハ蒙疵

  遁去。今一人ハ鹿苑寺ニ召取置之云々。此喧嘩題目ハ。只今社僧三人。

  北野馬場松原ニ立栖遊処ヲ。鹿苑寺一人其前ヲ過時。彼社僧牛ヵ罷透由申懸間。

  此僧正帰及過言云々。仍此社僧三人追懸間。此僧ハ鹿苑院へ逃籠閇門了。而此

                               (刃傷ヵ)

  社僧等酔狂余。門ヲ打破トスル間。老僧為制禁罷出処、太刀ヲ抜欲傷刃間。又

  逃籠寺中。鐘ヲ鳴間。地下者共馳集。如此致其沙汰云々。為公方両奉行

  飯尾肥前守・松田八郎左衛門ヲ以テ御尋処。自寺如此答申云々。酔狂條ハ勿論

          (状ヵ)

  云々。搦置社僧白浄之儀同前云々。

 

 「書き下し文」

 二十日、晴る、(中略)

  北野社僧三人、北山鹿苑寺に於いて喧嘩の事之在り、一人は当座に於いて死去し了んぬ、一人は疵を蒙り遁げ去る、今一人は鹿苑寺に之を召し取り置くと云々、此の喧嘩の題目は、只今の社僧三人、北野馬場松原に栖を立て遊ぶ処を、鹿苑寺一人其の前を過ぐる時、彼の社僧牛が罷り透る由申し懸くるの間、此の僧正帰り過言に及ぶと云々、仍て此の社僧三人追い懸くるの間、此の僧は鹿苑院へ逃げ籠もり閇門し了んぬ、而れども此の社僧ら酔狂の余り、門を打ち破らんとする間、老僧制禁せんがため罷り出づる処、太刀を抜き刃傷せんと欲する間、又寺中に逃げ籠もり、鐘を鳴らす間、地下の者ども馳せ集ひ、此くのごとく其の沙汰を致すと云々、公方として両奉行飯尾肥前守・松田八郎左衛門を以て御尋ねの処、寺より此くのごとく答え申すと云々、酔狂の條は勿論と云々、社僧を搦め置き白状するの儀同前と云々、

 

 「解釈」

 二十日、晴れ。(中略)

  北野社の社僧三人が、北山の鹿苑寺で喧嘩をすることがあった。一人はその場で死んだ。一人は傷を負って逃げ去った。もう一人は鹿苑寺で召し捕り置いたという。この喧嘩の経緯は次のようなことだった。先程の社僧三人が、北野馬場の松原で宴の場所を確保し酒宴を開いていたところ、鹿苑寺の僧正一人がその前を通り過ぎたとき、北野の社僧らが「牛が通り行くぞ」と言いがかりをつけたので、鹿苑寺の僧正はその場に戻って度を越した悪口を言ったそうだ。すると、北野社僧三人が追い掛けてきたので、この僧正は鹿苑寺へ逃げ隠れ門を閉じた。しかし北野の社僧らは、ひどく酒に酔い心を乱していたため、門を打ち破ろうとしたので、老僧(僧正)がその行為を止めようと出て参ったところ、社僧らはたちを抜いて斬り付けようとしたので、もう一度寺中に逃げ隠れ、鐘を鳴らしたので、地下人ら(下級の僧侶や町人ら)が大急ぎで集まり、このように(一人殺害、一人負傷、一人捕縛)始末したという。足利義教は、将軍として飯尾為種と松田秀藤の二人の奉行を遣わしてお尋ねになったところ、鹿苑寺からこのように返答し申し上げたそうだ。酔ったうえでの乱暴であるという件は、いうまでもないことであるという。社僧を捕縛し、その社僧が白状した内容も、鹿苑寺からの返答と同じであるそうだ。

 

 「注釈」

「北野馬場松原」

 ─北野天満宮一ノ鳥居辺りにあった松原のことか(「右近馬場跡」『京都市の地名』平凡社)。

 

「立栖」

 ─読みと意味がわかりません。文脈からすると、「酒宴のための場所を確保した」のではないかと推測できるので、ここでは「栖を立て」と読み、「宴の場所を確保し」と訳しておきます。

 

「飯尾肥前守」─飯尾為種(『角川新版日本史辞典』)。

 

「松田八郎左衛門」─松田秀藤(『角川新版日本史辞典』)。

 

 

*同じ出来事を記したとは思えないほど、【史料1】と今回の史料に記された経緯は異なりますが、同日に起きた事件なので、同じ事件を指すのでしょう。【史料2】についても、前掲清水著書(12〜15頁)で詳細に検討されています。解釈についてはこの研究を参考にしましたが、一部、私自身の解釈を優先したところがあります。