周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

正村俊之著書 その1

  正村俊之『秘密と恥』(勁草書房、1995)

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

第1章「秘密と恥」

P8、自己提示を行う際、他者に対して表現される側面と隠蔽される側面の関係は、ヘーゲルが述べた「規定(肯定)と限定的否定」の関係に相当する。あるものを規定(肯定)するとは、諸々の限定的否定を加えることにほかならず、行為の世界も、同じ判断の構造のうえに成り立っている。「私は高潔な人間である」という自己呈示は、「私は泥棒ではない、ペテン師ではない、殺人者ではない…」といった諸々の限定的否定を加えることでもある。もし、それらの限定的否定に反する自体が一つでも他者に発覚されれば、自己呈示は失敗に終わるだろう。

 自己提示を成功させるためには、呈示したい自己像に反する一切の側面、いいかえれば自己提示という価値実現の外側に立つ一切のハンカチ的な行為や自体を隠蔽しておかねばならない。自己を「陽気な人間」として提示するためには、他者に対して「陽気な自分」を表現すると同時に、「陰気な自分」を隠蔽することが必要であり、「陰気な自分」が秘密として構成されねばならない。それゆえ、自己呈示行為と反価値的秘密は、機能的には適合的だが、内容的には対立的な関係にある。

 戦略的秘密(戦略的行為を成功させるために隠蔽しておかねばならない秘密、P8)と反価値的秘密(自己呈示を成功させるために隠蔽しておかねばならない秘密、P8)は、いずれも非措定的秘密(あらかじめ銘菓になっていない)として現象することもあれば、措定的秘密(あらかじめ明確になっている)として現象することもある。

 また反価値的秘密にも二つのタイプがある。呈示したい自己像に反する可能的な事態は、往々に予期しないかたちで出現するゆえに、それらの多くは、非措定的秘密になっている。自己呈示を成就するためには、こうした可能的な事態を現実化させてはならず、非措定的秘密が保持されねばならない。しかし、隠蔽の対象となる事柄がすでに起こっている場合には、隠蔽の必要性が比較的自覚されやすく、措定的秘密となる可能性が高い。

 

 →社会に対して呈示したくない自己(反価値的秘密)を呈示することを避けるために自害する。このまま生きていると、理想的な自己像と矛盾する事態を提示してしまう。生きていること自体が、反理想的自己の証明になってしまう。それを避けるには、反価値的事実を秘密として隠蔽するか、隠蔽できないなら、そうではないことを証明するしかない、つまり、自殺するしかない。そうなると、自殺を止めるには、その価値観を捨てる以外に方法はない。価値観というものが、可変的で不変でない。

 

P10、それに対して、遂行的秘密は、相互行為の種類が何であれ、対面的な相互行為そのものを成り立たせるために要請された秘密である。遂行的秘密は、行為者の目標とは無関係に、相互行為の展開に即して発生するので、この秘密には、状況の進展とともに現れては消えていく状況的秘密が多いが、なかには、いかなる状況にも伏在している構造的秘密もある。いずれにせよ、遂行的秘密は、主体の目標との連関のなかで反省的に捉えられうるが、その時には戦略的秘密や反価値的秘密に変質してしまう。

 例えば、今二人の人物(X氏とY氏)が会話している場面を想定し、X氏がY氏の話に憤りを感じたと仮定しよう。X氏の心に芽生えた怒りは、徐々に膨れ上がるが、怒り心頭に発しようとした時、X氏は後々のことを考えて、平静さを装ったとする。ここで遂行的秘密が発生している。なぜなら、怒りを秘めておくことは、対人関係の維持に役立つとともに、最初の時点では、怒りを秘めておく必要性が本人にも自覚できていないからである。相手との関係を維持することが自分にとって得策であると判断された時点で、この秘密は意識化されるが、同時に、対人関係の維持という個人的目標を遂行するための戦略的秘密に変わっている。

 

 

P13、自然現象が予測可能であるのは、自然現象が「原因/結果」という因果的連関に服しているからであるが、社会的行為は、自然現象とは違って、価値的(規範的)な規制のもとにおかれてもいる。そのため、行為に内在する因果的連関だけでなく、価値的連関を把握することによって相手の行為を予期することができる。つまり、予期は、「予測(因果性)」と「期待(価値性)」という二つの側面をもっており、予測されると同時に期待されるわけである。期待の原初的な形態は、「〜してほしい」という「願望(感情性)」であるが、社会的行為において期待の核をなすのは、役割期待のように「〜すべきである」という「当為(規範性)」である。価値を広義に解釈するならば、願望は「感情的価値」であり、当為は「規範的価値」であるといえよう。

 

P30、対人恐怖が恥と秘密との関連性を裏付ける一つの傍証になるとはいえ、恥の現象は、秘密と同様に多様である。日本語には、恥を表現する数多くの語彙がある。①みっともない、②きまりが悪い、③はずかしき(相手が立派な)、④間(バツ)が悪い、⑤照れる等々。これらの語彙からもわかるように、恥には、一般に理解されている「恥」以外に、はにかみ、照れ、さらには人見知りと言ったものも含まれる。人に褒められたときの「照れ」も恥の範疇に入るのであり、この照れが自分の弱点の現れでないことは確かである。しかし、このような現象的多様性にもかかわらず、恥はすべて秘密の露見になっている。

 

P36、「見知られる不安」(人見知り)とは、見知らぬ人物のなかに投影された「悪い(嫌いな)母親」(子ども自身の思い通りにならない母親)が「悪い(嫌いな)自分を発見するのではないかという不安、言い換えれば、自分は人から嫌われるのではないかという不安である。この不安が恥の意識の原型をなしている。恥が「逆立ちした愛」(向坂1982)と言われるのも、この点からうなずける。

 愛という感情的価値は、人格形成の初期的な段階において自他関係の良否を判別する基本的な基準であるが、認知能力や評価能力の発達に伴って、各種の規範的価値が感情的価値のうえに積み上げられていく。個人の内面的世界のなかで規範的価値が新たに構築されると、期待面と隠蔽面の分節構造も変化して、恥辱や羞恥といった新たな恥の形態が出現する。人見知り・恥辱・羞恥のいずれであれ、価値・秘密・恥の間には共通の構造が存在しているが、恥は、価値意識のあり方に対応して、人見知り・恥辱・羞恥という三つの形態に大別される。人見知りが感情的レベルの価値意識に支えられていたのに対して、恥辱や羞恥は、規範的レベルの価値意識に支えられており、恥辱と羞恥の違いも、予期の期待面を規定する規範の違いに関連している。

 規範には、①社会の全域を網羅する「マクロ規範」と、②局所的な場において成立する「ミクロ規範」がある。マクロ規範の代表的なものが法であるが、ミクロ規範には、さらに①会話規範のように、あらゆる対面的相互作用の場面で要請される「一般性・普遍性」の高い規範と、②特的の集団・組織・階層の内部で妥当する「特殊・個別的」な規範がある。マクロ規範や、会話規範のようなミクロ規範は、社会の全構成員にとって内面化の対象となるが、それだけに自己と他者を種別化する働きが弱く、自我理想の実質的な成分にはなりにくい。これに対して、特殊・個別的なミクロ規範は、当の集団・組織・階層の構成するメンバーによって内面化されるだけだが、その規範を内面化した人間とそうでない人間を種別化することによって自我理想を容易に担いうる。同じミクロ規範といっても、行為者の内面的世界のなかで果たす役割は、必ずしも同一ではない。

 そこで、①自我理想をかたちづくるミクロ規範の総体を「自我理想的価値」、②対面的な相互作用を成り立たせるミクロ規範の総体を「相互作用的価値」と呼ぶならば、価値と秘密の関係は、次のように定式化することができる(図1・4)。すなわち、自我理想的価値の裏面をなすのが反価値的秘密であり、相互作用的価値の裏面をなすのが遂行的秘密である。これらの秘密が露見した時に生ずる恥が、それぞれここでいう「恥辱」と「羞恥」である。羞恥は後回しにして、まず恥辱について説明しよう。

 

P37、ここで恥辱とは、日常的な恥辱の概念より広いが、単なる「間の悪さ」「照れくささ」とは違って、「みっともない」「きまりが悪い」といったダメージ的な要素を含んだ恥を指している。そのなかには、恥辱性の薄いものから屈辱的なものまで、様々な恥が含まれるが、いずれにしても、恥が自我理想からの失墜に由来し、自己の劣位性を意識させる点で共通している。そして恥辱には、①人前でかく恥と、②一人ひそかに抱く恥がある。作田啓一(1967)や井上忠司(1977)らの用法にならって、①前者のタイプを「公恥」、②後者のタイプを「私恥」と呼ぼう。

 

P39、要するに、公恥と私恥の違いは、自己提示の評定者が他者なのか自己なのか、また自我理想を構成する価値が所属集団の価値なのか準拠集団の価値なのかという点に帰着する。だが、どちらにおいても、恥は自我理想からの失墜として体験されており、その失墜は、自己提示における反価値的秘密の露見という点で構造的には同型なのである。

 

P45、このように羞恥の核心は、遂行的秘密の露見にある。遂行的秘密によって逆照射された相互作用的価値とは、次のような諸規範の複合体をなしている。①他者の面前で困惑しないこと、②他者を困惑させないこと、③他者に対する攻撃性(反感や敵意)を抑えること、④自分に誇りをもち、かつ他者に対して謙虚になること、⑤第三者の相互行為を撹乱しないこと等々。

 これらの規範は、コミュニケーション理論のなかで「会話規範」として分析されたものに近い。G・リーチ(1983=1987)は、会話の原理を「協調の原理」と「丁寧さの原理」に区分したうえで、「丁寧さの原理」として、①気配りの原則(他者に対する負担を最小限にせよ)、②寛大性の原理(自己に対する利益を最小限にせよ)、③是認の原則(他者に対する非難を最小限にせよ)、④謙遜の原則(自己の賞賛を最小限にせよ)、⑤合意の原則(自他の意見の相違を最小限にせよ)、⑥共感の原則(互いの反感を最小限にせよ)をあげている。丁寧さの原理も、自己と他者の共存的な関係を作り出すことに役立っている。

 

P46、以上のことから、秘密と恥の関係について次のことが言えよう。すなわち、恥辱(公恥と私恥)との羞恥の違いは、露見する秘密の種類にあり、また秘密と対をなす価値の種類にある。自我理想的価値は、地位・身分・階層・集団に含まれる社会的な種別性をもとにして個体の固有名性を規定しており、相互作用的価値は、個体の匿名的・社会的な存在性を規定している。

 どのタイプの恥も、秘密の露見として現象するが、秘密の露見のすべてが恥を発生させるわけではない。秘密のなかで戦略的秘密は、恥には関与しない。戦略的行為が不成功に終わったとしても、自分(たち)の目標が遂げられなかったにすぎない。戦略的秘密の露見は、反価値的秘密の露見となる限りにおいて、恥を生む。例えば、重大な企業秘密をうっかり漏らして恥を掻くのは、自分のうかつな面が露呈したからである。戦略的秘密は、戦略的行為の成否を規定する要因であるが、戦略的行為は、単独の行為として現象しうるゆえに独我論的な構造をもっている。しかし、恥は、つねに現実的な他者もしくは想像的な他者としての自分に志向するような相互行為の過程で発生し、とりわけ羞恥は、社会関係のそのものを成り立たせる相互作用的価値の裏面をなしている。秘密と同様、恥も本質的に社会的なのである。

 

P55、恥の無化作用は、社会関係の粉砕を意図するような破壊作用ではない。破壊作用は、一定の意志の働きに根ざしているが、恥の無化作用には、そうした意志は介在していない。秘密の露見は、自分の意志に反して他者の予期を裏切ってしまうことであり、そこでは自分自身の予期も同時に裏切られている。社会的な秩序を樹立しようとする行為者の試みは、本人の意志をも超えた偶発的な出来事に直面して挫折させられ、それまで社会関係を築くために払ってきた努力は水泡に帰す。その意味で、恥は秩序の運動を停止させるようなカオスの力が発現した状態でもある。

 とはいえ、恥の無化作用は、単なるネガティブな作用ではない。それはちょうどカオスが秩序と一見対立するようでいて、秩序を生成する原動力になるのと類似している。恥は、「有るべきものが無く、無いはずのものが有る」という点で「理想的有」からの逸脱であるが、恥は、この逸脱を通して本来のあるべき状態を逆照射してもいる。現実の世界というのは、理想的有が不完全なかたちで実現しているのが常である。予期の相補性を支える諸規範も半ば無自覚のうちに遂行されている限り、これらの規範は、侵犯されていないかわりに完全に自覚化されることもない。ところが、恥は、その逸脱的な事態を通じて本来何が価値として成就されねばならなかったのか、そして何が秘密として保持されねばならなかったのかを指し示すのである。

 

P63、恥は、それ自体が社会的逸脱であると同時に、社会的逸脱に対する制裁様式でもある。そのため、一見逆説的だが、「恥を掻いてはいけない」という恥の制裁様式は、逸脱としての恥を多発させる社会においてこそ意義を有している。というのも、恥が例外的に起こる現象であるならば、そうした逸脱に対する制裁を加えても、その効果はおのずと知れているからである。恥に対する強い制裁様式を働かせる社会というのは、実は恥に構造的に発生させる社会でもある。このような社会のなかでこそ、「人に笑われないように」とか「恥を知れ」といった恥固有の制裁様式が秩序形成に役立つのである。

 

 →恥を構造的に発生させる社会とはどんな社会か?

 

P65、社会は、それぞれの境界をもった集団・組織を多層的に包含した体系として、重層的な境界構造をなしているが、秘密は、そうした社会的境界の設定にも関与している。秘密の保持は境界を設定し、秘密の共有は境界を取り払う効果をもつゆえに、この二つの作用が合体すると、境界を設定する力と境界を解除する力がともに働き、「あると同時に内容な境界」が確立される。

 このような境界状態こそ、恥を発生させる構造的な基盤となる。なぜなら、境界のないところでは、秘密を保持する必要がなく、また明確な境界があるところでは、秘密の漏れる可能性が少ないが、恥が発生しやすいのは、秘密を保持する必要がありつつ、秘密の漏れる可能性が高いところであるからである。日本社会が恥を構造的に発生させるならば、社会の内部的な境界構造にも、「あると同時にないような境界」という構造的な特徴が見出されるはずである。

 

 →自殺に当てはめるとどうなるか?自殺に至らしめる恥はどんな恥か?

 

 

第2章「義理と甘え」

P69、秘密と恥は、社会的コミュニケーションのいわば「負の側面」をなしている。秘密は、隠蔽されたメッセージであり、恥は、隠蔽されているはずのメッセージが伝達されることによって、社会的予期の相補性が裏切られる逸脱的な事態である。もっとも、いかなるメッセージが秘密として構成されるのか、またいかなる逸脱的な事態が恥として現象するのかは、社会的予期を構造化している規範のあり方に依存している。

 

P72〜74、義理=意地説(一分説)。義理=「他への配慮」説。義理=「好意の交換」説。そして武士にとっては、恥辱を受けた時には、恥を雪ぐこと自体が義理となっており、この義理が「道義としての義理」である。「恥、名、体面は武士の義理行為の動機であり、義理の至上命令者であるが、恥を思ふことが義理の心理的な衝動力に止まらず、やがて武士的な恥を雪ぐこと自體が義理」(姫岡1944:194)となった。この「道義としての義理」は、自らの体面(一分)を保つことを規範化している点は、《意地(一分)説》の主張した義理と重なる。

 

P77、義理は、「正しい筋道」を表していたが、この原義に即して解釈したのが《道義(規範)説》である。守随憲治によれば、義は孟子によって発見・制定されたが、義理は、その義の直系的な形式にあたる。ただし、義が正義や道義に言い換えられる点で、一般性や包括性をもち、抽象的な内容を表しているのに対して、義理は、はるかに具象性に富んでいる。「道或いは誠という名目を、最も具體的な對人関係の性質において一一の条理として解説したものが義理といはれるのである」(守随1941:13)。

 一方、有賀喜左衛門の場合には、「義理とは、日本の社会関係を規制する一定の生活規範」(有賀1955=1967:211)のことであり、「社会関係が上下関係であっても、平等関係であっても、あるいは個人的関係であっても、家関係であっても、さらに多人数の集団であっても、集団のもつ生活規範」(同:211)を指している。そして、人情が私的な事柄であるのに対して、義理は公的な性格をもち、公が私に優先されるように、義理は人情に優先されるという。

 

P81、作品(西鶴諸国ばなし)に登場する武士たちは、自分自身に対する「誇り」と他者に対する「配慮」をもって相手と接している。相互作用儀礼論のなかでゴッフマンは、行為者が自分の面子を救おうとする動機の一つとして、「自己イメージに対する情緒的固執」をあげているが、誇り高き自己イメージに対する情緒的固執こそ、《意地(一分)説》が主張した「意地(一分)」に相当する。《意地(一分)説》が把握した義理は、「名聞を思い、末代の恥辱を思う念」を発するものであり、義理行為は、自己の面子を保とうとする動機に突き動かされている。自らに誇りをもち、面子を保とうとすることは、さまざまに変化していく社会状況のなかで、自己イメージに合致する仕方で一貫した行動を取り続け、社会的期待に継続的に応えることを可能にしている。《意地説》が着目したのは、このような仕方で行為者の個体的な自立性を支える義理の側面であった。

 

P82、したがって、義理の本質をそれぞれ「自己の意地(体面)」と「他者への配慮」に求めた《意地(一分)説》と《「他への配慮」説》は、「自己の誇り」と「他者への思いやり」という、相互作用儀礼に内在する二つの局面を洞察していたことになる。義理は、その意味では「自尊心と思いやり」あるいは「誇りと謙虚さ」に基づいて相互作用を成立させる相互作用儀礼規範の一種であった。

 一方、残りの《「好意の交換」説》と《交際説》は、別種の相互交換(相互贈与)を主題化していたとはいえ、どちらも義理が相互交換(相互贈与)を促す規範であることを示している。義理は、社会的共存の仕組みとして「他者への配慮」を義務づけていただけでなく、贈与に対する返礼をも義務づけていた。なかでも《「好意の交換」説》は、「言葉に対する義理」「契約(約束)に対する義理」「信頼への呼応としての義理」といったさまざまな義理の存在を提示したが、自分の言いだした言葉を厳格に実行したり、相手と交わした約束や契約を忠実に履行したり、相手の信頼に誠意をもって応えたりすることは、どれも体面的な相互作用に欠かせないものばかりである。

 

P85、恥が「恥辱」と「羞恥」に分節されたように、義理も、個体的な自律性と社会的な共存性にそれぞれ関与した二つのタイプに大別される。それぞれを「体面規範としての義理」「返礼規範としての義理」と呼ぶことにしよう。

 

P90、この(桜井)文章は、武士の対面意識を論じたものであり、義理を町人階級の社会意識として捉えた桜井にとっては、義理を説明したものではない。しかし、先に述べたような意味で、義理と体面意識との関連を認めるならば、櫻井の指摘は、逸脱に対する制裁様式としての恥が、体面規範としての義理にどのように関与したのかを示している。すなわち、体面を保つことが規範化されている武士にとっては、「武勇」が自我理想的価値であり、その対立物である「臆病・卑怯」が反価値的秘密を構成している。武士における恥辱は、この秘密の露見として生じている。「臆病・卑怯」な面が露呈した事態は、本人の意に反しているだけでなく、勇敢な武士として振る舞うことを期待していた他者にとっても意外さを生んでおり、この予期の違背が他者の笑いを誘っている。恥と笑いは、ここでも社会的予期が裏切られた逸脱的な事態として現象している。

 

 →嘲笑のなかに自己否定の意味を付け加え、汲み取るから。

 

P91、体面規範としての義理は、恥の制裁機能に助けられながら、体面(面子・名)の維持を義務づける規範であった。自己の体面を維持するには、体面(面子・名)と結びついた役割や規範を完遂しなければならず、恥は、そうしたかたちで規範の遂行を導く原動力となっていた。姫岡の言葉を借りれば、「「武士たるものの恥辱とはただ一雫の濁り水も、名字にかかるは洗ふに落ちず濯ぐに去らず」(女殺油地獄)、「大事の武士の名をよごし先祖子孫の恥辱と成」(日本西王母)っては、武士の一分が立たないから、「恥と云ふ字に命を捨てて」(国性爺合戦)義理を立てなければならない」(姫岡勤「義理の観念とその社会的基礎」『社会学研究』1高山書院[1944:194])。義理は、また自己の面子を失った際には、恥を雪ぐこと自体をも義務づけており、「道義としての義理」は、義理のこのような側面を表していた。このように体面規範としての義理は、恥の回避を要請しつつ、恥に動機づけられながら機能する規範であった。

 

P92、なお、武士の倫理は、従来「封建的・前近代的な倫理」として捉えられてきたが、武士の恥が個人主義的な態度を助長したということに改めて注目する必要がある。というのも、「日本の思想で西欧近代の個我の思想に最も近いのは、武士の独立の思想であった」(相良1984:62)からである。相良亨によれば、武士には「自敬の精神」が強く流れており、自らを敬うに値する武士として自己を持そうとした。武士を心がけるものは、恥辱を受ければ、自らの生命を投げ捨ててでも恥を雪ごうしたが、また他人に恥辱を与えれば、ただでは済まないことを知っているゆえに、他人を不用意に辱めることを謹んだ。武士は、ゴッフマン流に言えば、自己と他者の双方に対して「敬意」を払う態度をとっていたのであり、「恥や名を重んじる姿勢も、この自らを持し他を敬う姿勢とのかかわりにおいて理解されねばならない」(相良1984:48)。このような武士の精神が明治時代における「独立の思想の素地」を築いたと、相良はいう。

 恥は、私恥・公恥・羞恥を問わず、個人主義集団主義のいずれの方向にも原理的に進みうるが、右にあげた事実は、私が本質的に集団主義的な制裁様式でないことの証左といえよう。

 

P102、西欧近代社会は、さまざまな法的・倫理的な諸条件を整備することによって近代的な契約関係を根幹に据えた制度的体系を構築したが、一方、徳川幕藩体制のもとでは、近代的な契約関係を全面的に開花しえないまま、新しい社会問題に対処しなければならない社会状況が存在した。心情規範としての義理は、このような社会状況のなかで誕生したのである。

 人情という、他者に対する共感的な心情が自然に湧き出るは、家族に代表されるような非契約的な関係である。ところが、義理は、擬制のメカニズムによって、契約関係と非契約関係との擬似同一性を確立することによって、非契約関係のなかで発生する共感的な心情を契約関係に転移させている。義理は、「擬制された情緒で支えられ」(川島武宜)、「擬制された共感関係である」(源了圓)といわれるように、擬制のメカニズムを利用することによって、本来共感的な心情が湧きにくい契約関係のなかで共感的な心情を息づかせようとしている。つまり、相手を裏切ってでも自己の利益を追求しようとする利己的な行動を抑止し、契約関係に孕まれる危険を取り除くのである。擬制はここでも古い枠組によって新しい問題を解決するための方法になっている。

 

P110、ルーマンによれば、義理は、予期のコミュニケーションに内在する危険を取り除くために予期のコミュニケーションを回避している。ここで予期のコミュニケーションとは、単に他者の行為を相互に予期するだけでなく、自分の行為に対する他者の予期を予期することが相互に行われること指している(「予期の社会的再帰性」)。予期が社会的再帰性を帯びると、自分の予期が裏切られる危険性も高まってくる。予期が裏切られた際には、現実に即して予期を修正する場合(「認知的予期」)と、現実に抗して予期を堅持する場合(「規範的予期」)があるが、西欧では、この二つの予期様式が分化した。それに応じて、交際と法も分化し、予期様式の相互の安定化が可能になった。例えば、法規範が破られた時に、法を修正するのではなく、法を破った者が罰せられるという事態は、法的予期が規範的予期として位置づけられたことによって生まれた。ところが、義理は、予期が表明される以前に充足されることを要求しており、それによって予期のコミュニケーションに伴う危険性を回避している。このことは、別の言い方をすれば、義理が交際と法の分化を回避していることでもあると、ルーマンはいう。

 義理は、正確に言えば、予期のコミュニケーションを単純に回避しているわけではない。なぜなら、「察し」に依存したコミュニケーションは、「予期の予期」に基づいているからである。送り手は、受け手が自分の心中を察することを察知しながらメッセージを伝達している。そこでは、行為者は、自分の立場から相手の意図を察知するだけでなく、相手の立場から自分(相手の相手)の意図を察知しており、相手の「察し」をあてにしながら行為している。その意味で、このコミュニケーションは「予期の再帰性」を前提にしているのである。

 にもかかわらず、義理は、ルーマンが指摘するように、予期の違背可能性を事前に封じ込め、予期のコミュニケーションに内在する危険性を排除している。義理は、擬制的なメカニズムを通じて異質な社会関係の間の差異を隠蔽し、疑似同一的な関係を確立することによって、すべての他者に対して等しく献身的に振る舞うことを要求している。このように道徳的要請のもとで、義理は、予期のコミュニケーションに孕まれる危険性を取り除いているのである。

 義理が社会関係全般を帰省する根本規範になると、「交際と法の分化」─より正確にいえば、ミクロ規範とマクロ規範の分化─は回避されることになる。本来、交際と法は、それぞれの社会のミクロ的次元とマクロ的次元を構成している。日常的な交際に関与するミクロ規範は、望ましい対人関係を定めており、一方、法のようなマクロ規範は、社会構造を構成する行為連関を定めている。法的な領域では、規範的予期を貫徹させられるのに対して、日常的な交際の場面では、規範的予期を貫徹させることは難しい。例えば、会話のルールを破って、相手の予期を裏切ったからといって、そのものを処罰するわけにはいかない。

 ところが、義理は、恥の社会的制裁機能を強化し─例えば、恥辱を受けた場合には、恥辱を晴らすことを義務づけ─、相手の如何にかかわらず、相手に対する律儀な振る舞いを道徳化することによって、規範的予期の貫徹をはかろうとしている。こうして義理が日常的な交際を統御するだけでなく、社会構造を存立させるという二重の課題を課せられると、ミクロ規範とマクロ規範の分化は回避されることになる。そして、このような義理の戦略が「潜在的な社会的緊張をもたらす」ことは明らかである。社会状況が複雑化すればするほど、このような戦略は、社会的緊張を顕在化させることになる。内面的な葛藤状態としての「義理と人情の板ばさみ」は、同一の原理に基づいて異質な社会関係を編成することの社会的矛盾を反映していた。

 

P116、社会を特徴づける基本的な現象がたとえ幼児的性格を呈していても、それは外見上の類似性にすぎない。

 したがって、ここでは母子関係に内在する通文化的概念としての「甘え」と、日本社会を構成するコミュニケーション様式としての「甘え」を区別しよう。もちろん、この二つは単なる別物ではない。というのも、星人のコミュニケーション様式としての甘えは、母子関係に内在する甘えを犠牲したものにほかならないからである。

 

P118、社会関係と社会的行動の間には、一方を原因とし、他方を結果とするような因果関係が存在しているわけではない。Aという関係とA‘という行動との間に一定の照応関係がある場合、「Aという関係が成り立っているから、A’という行動をとれる」ともいえるが、また「A‘という行動をとれるから、Aという関係が成り立っている」ともいえる。行動は、それ自身が関係の定義づけとして機能することによって関係の成立を導いてもいる。幼児の勝手気ままな振舞は、木村が言うように自他一体的な関係を前提にしているが、自他の完全な一体性が崩れた段階において、このような振舞をすることは、母親との関係を擬似一体的な関係として定義してもいる。つまり、勝手気ままな振舞をすることによって、その行動の前提となる擬似一体的な関係を創り出してもいるのである。

 

P125、先の二つの事例からもわかるように、甘える側は、勝手気ままに振舞うのとは対照的に、自己抑制的な態度をとっている。自分の欲求を表明したり、自分の利益を守ろうとしたりする自己本位的な行動は抑えられている。もちろん、どちらの場合にも、甘える側は、自分の欲望や利益を完全に放棄しているわけではなく、それどころか、相手が自分のために利他的に振舞ってくれることを内心は期待している。欲望充足や利益追及を抑制するような態度は、一般に他者への配慮から生まれるが、ここでは、そうした自制的な振舞は、相手の情を引き出すための交換条件になっている。つまり、ここでは「自己抑制」を給付、そして「他者の情」を反対給付とする社会的交換が行われているのである。

 

P126、成人間の甘えの関係は、こうした母子関係に擬制するかたちで構築されている。まず自制的な態度をとることは、事故の選択権を相手に譲渡したことを意味している。この選択権は、母親の生殺与奪の権に比較すれば、微々たるものであるが、ともかく相手は、選択権を譲り受けたことによって上位者の立場に立つことになる。一方、選択権を譲渡した者は、従属的な立場に立たされるが、同時に相手が自分に情を寄せることを期待することができる。なぜなら、選択権の譲渡はそれを期待するためのいわば「前払い」であるからである。ここで自分に情を寄せるとは、自分の心中を察して、自分を配慮してもらうことである。相手が自分に対して情を抱くことによって、譲り渡した選択権は、自分のために行使される。この相手の情にもたれかかることが甘えである。したがって、母子関係に擬制された甘えとは、「選択権の譲渡」に基づいて、他者による「選択権の利他的な行使」を期待することである。

 

 →選択権の譲渡が甘えとして機能するには、それが機能する社会関係ができあがっていなければならないし、そうした社会関係(擬制的母子関係)があるからこそ、選択権の譲渡が甘えとして機能する。因果関係は逆転する。自殺・恥・名誉・義理・人情もこの考え方で分析する必要がある。

 

P127、無私とは、本来私心(私利・私欲・私情)を超越することであるが、私心の隠蔽を拡張解釈するならば、無私にも二つのタイプがある。すなわち、私心の隠蔽には、①私心が自己と他者の双方に対して隠蔽される場合と、②私心が他者に対してのみ隠蔽される場合である。①を「狭義の無私」、①と②をあわせて「広義の無私」と呼ぼう。

 心情規範としての義理と成人の甘えには、「広義の無私」と「情」という二つの共通な要素が認められる。無私を実現する際、心情規範としての義理と甘えのいずれにおいても、メッセージ・レベルでは、指針を意味するメッセージが隠蔽され、メタメッセージ・レベルでは一定のメッセージが表現されている。ところが、メタメッセージ・レベルにおいて伝達される内容を比較してみると、そこには大きな違いがある。

 義理の場合には、「私心を捨てるという事実」がメタメッセージとして伝達されているが、甘えの場合には、「私心を隠し持っているという事実」がメタメッセージとして伝達されている。この違いは、「隠蔽することによって表現する」という方法と、「隠蔽しつつ表現する」という方法との違いとして捉えることもできる。甘えにおいては、私心を抑制する態度がとられており、その限りで無私的であるが、しかし他者を介して私心を満たそうとする願望が潜んでいる。心情規範としての義理に比べれば、甘えは、はるかに利己的な要素を含んでいる。

 義理と恥も、規範と逸脱というかたちでポジとネガの関係にあり、義理は、いかなる逸脱的な振舞が恥となるのかを定義するとともに、恥の社会的な制裁機能に依存している。恥は、人見知りという原初形態の段階を越えると、恥辱と羞恥という二つの基本形態に分化するが、恥辱と羞恥は、それぞれ体面規範としての義理と返礼規範としての義理に呼応している。つまり、義理と恥(甘えと恥)の間には「地」と「図」のような関係が成り立っており、ひとたび「図と地」の転換を行えば重なるような共通の構造が存在しているのである。

 

 →恥辱⇄体面規範としての義理、羞恥⇄返礼規範としての義理。

 

P129、これまでの日本の社会は、しばしば集団主義的といわれてきたが、自己と他者の間には(恐らく我々が意識している以上の)差異が存在している。けれども、このことは日本が西欧流の個人主義を発達させてきたことを含意しているのではない。個人主義の進展は、どのような形態であれ、自他の差異を顕在化せることによって社会的対立を引き起こす可能性を孕んでいる。西欧社会は、そのことを前提にしつつ、近代的な法・権利・権力といった制度的機構を確立することによって社会丁対立の解決をはかり、個人主義を定着させてきた。

 ところが、日本社会の歴史的発展は、そうした方向には進まなかった。自他文節が進むに連れて、むしろ自他の差異を隠蔽する仕組みが発達してきた。義理が社会的予期の違背可能性を封じ込めようとしたように、社会的対立の可能性を事前に防止する工夫が開発されてきた。個人主義と無私の精神は、一見矛盾しているようにみえるが、決して矛盾ではない。それどころか、自他の差異を顕在化させる作用は、自他の差異を潜在化させる作用によって中和されねばならなかったのであり、この二つの事象は、並行して発達してきたのである。その意味では、差異を隠蔽するコミュニケーション様式は、集団主義の産物どころか、日本的な個人主義化の産物であったといっても過言ではないだろう。

 何れにしても、自他の差異を顕在化させる作用と潜在化させる作用が働くと、自他の境界は「あると同時にない」ような曖昧な境界になる。義理と甘えは、秘密の保持と秘密の漏洩という二つの操作を同時に働かせることによって、自他の間に曖昧な境界を設定している。境界が曖昧であってこそ、他者をもう一人の自己として認識し、他者に対して共感的な心情を抱くことが容易になる。そしてこの境界の曖昧さが、また恥を発生させる構造的条件にもなっている。このように義理と甘えは、逸脱形態としての恥を発生させつつ、恥を制裁様式にして自らの規範性を維持しているのである。

 

 →個人主義の発達による社会的対立を、西洋は法・権利・権力によって抑制し、日本は無私の精神(義理)によって抑制した。