(備後安那郡志川)
去廿三日志河切取之時、尾頸至二構際一、初度ニ相付鑓仕候、高名無二比類一、感悦
無レ極候、弥可レ抽二戦功一者也、仍感状如レ件、
天文廿一(1552)
七月廿八日 隆元(花押)
元就(花押)
(雄)
渡邊源五郎殿
「書き下し文」
去んぬる廿三日志河を切り取るの時、尾頸の構の際に至り、初度に相付け鑓仕り候ふ、高名比類無し、感悦極まり無く候ふ、いよいよ戦功を抽づべき者なり、仍て感状件のごとし、
「解釈」
去る七月二十三日、志川を切り取ったとき、尾頸の構のそばまでやって来て、最初に敵と接触し槍で戦いました。あなたの手柄は比べるものがないほどすばらしい。我々はたいそう喜んでおります。ますます戦功をあげなければならないのである。よって、感状は以上のとおりである。
*書き下し文・解釈は、田口義之「志川滝山合戦の感状について」(『備陽史探訪』73、1996・11、https://bingo-history.net/archives/13622)を参考にしました。
「注釈」
「志川」─現福山市加茂町北山・滝。志川は四川とも書き、四川の谷川を登りつめた滝
の滝山にある。滝山は険阻で南側は絶壁をなし、北側よりわずかに急坂を登
ることができる。城は頂上を削平して築かれており、要害堅固な山城であ
る。天文年中(1532─55)宮氏が築城、加茂谷一円に支城を構え、宮
氏は備南最大の土豪として勢力を張ったと伝える。天文20年毛利氏の攻撃
を受け、城主宮入道光音は籠城防戦したが、次々に出城が攻略され、ついに
本城も陥落、宮氏一族も次々に毛利氏の勢力下に入り、備後は毛利氏の制覇
するところとなった(陰徳太平記)(「志川滝山城跡」『広島県の地名』平
凡社)。
「尾頸」─尾根筋が一番狭くなった場所(秋山伸隆「尾頸之堀」『宮島学センター通
信』第8号、2017・3、
http://www.pu-hiroshima.ac.jp/uploaded/attachment/11552.pdf)。