(安芸佐西郡)
去五日、於二神領明石一、陶衆与合戦之時、敵討取候、高名感悦候、殊先懸候て遂二
忠節一候、神妙之至候、連々可レ加二褒美一候、仍感状如レ件、
天文廿三(1554)
六月十一日 隆元(花押)
元就(花押)
(雄)
渡邊源五郎殿
「書き下し文」
去んぬる五日、神領明石に於いて、陶衆と合戦するの時、敵を討ち取り候ふ、高名感悦に候ふ、殊に先懸け候ひて忠節を遂げ候ふ、神妙の至りに候ふ、連々褒美を加ふべく候ふ、仍て感状件のごとし、
「解釈」
去る六月五日、厳島神領の明石で、陶衆と合戦したとき、(あなたは)敵を討ち取りました。その手柄を私たちは喜んでおります。とりわけ、他に先んじて忠節を遂げました。たいそう感心なことです。よくよく考えて褒美を与えるつもりです。よって、感状は以上のとおりである。
「注釈」
「明石」─現廿日市町宮内・明石。御手洗川の上流、折敷畑山西麓の谷間の地。宮内の
西端にあたり、明石峠を経て峠(現佐伯町)に至る。地名は天文二十三年
(1554)六月十一日付の毛利元就同隆元連署状(熊谷家文書)に「於去
五月明石口陶衆与合戦」と見え、陶晴賢と毛利元就の軍勢が戦っている。
町野入道、同相模守を大将として、先日折敷畑にて打残されたる兵共、物懲
もせず又馳せ集まり、一千余人明石表に陣取りけり、(中略)元就下知し給
ひて、小早川手に宍戸隆家、天野隆重等相加はりて横合に懸かりける間、防
州勢小勢なれば軍を分ちて防ぐべき様もなく後陣より崩れ立つて右往左往に
引いて行くを追蒐け七十余人討取りけり
と記す。天正一九年(1591)十二月二十六日付の穂田元清打渡状(「閥
閲録」所収桂四郎兵衛家文書)によれば、明石の地三二石三斗が桂元依に給