周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

西品寺文書1(完)

解題

 高屋堀(東広島市高屋町)の城主平賀弘章の孫鶴丸が応永二十年(1413)僧となり周了と称し、この寺を建立した。はじめ杵原にあり西本坊と称したが、慶長六年(1601)教伝が中島の現在地に移した。この地域の真宗寺院としては古い由緒をもち、江戸時代もその中心的な立場にあった。

 境内には元亨三年在銘の水槽があり、付録(1205頁)に収めた。

 

 

    一 本願寺奉行人連署奉書(折紙)

 

   返々此度之儀候条、各御馳走肝要候、已上、

        (秀吉)            教如

 態令申候、仍 関白様御出馬付而、為御見廻新御所様被御下向候、然

     (沼隈郡)

 者昨日備後光照寺所迄被御座候、其表へ廿六日ニ可御下向候間、

              (僧)

 急度御馳走専用候、尚子細此□申渡候間、不詳候、恐々謹言、

      天正十五年)(1587)

       三月廿三日          粟津右近(花押)

                      松尾左近(花押)

      タカヤ

       専正御房

       同御門徒衆中

 

 「書き下し文」

 態と申さしめ候ふ、仍て関白様御出馬に付きて、御見廻りのため新御所様御下向に成られ候ふ、然れば昨日備後光照寺の所まで御座に成られ候ふ、其の表へ二十六日に御下向に成らるべく候ふ間、急度御馳走専用(専要)に候ふ、なほ子細此の僧申し渡し候ふ間、詳らかにする能はず候ふ、恐々謹言、

  かえすがえす此の度の儀候ふ条、おのおの御馳走肝要に候ふ、已上、

 

 「解釈」

 わざわざ申し上げます。関白様豊臣秀吉の九州へのご出馬について、お見舞いのため新御所様教如が御下向になりました。そして、昨日備後国光照寺までいらっしゃいました。そちらへ二十六日に御下向になるはずですので、急いで用意に奔走することが最も大切なことです。なお、詳細については、この使僧が申し渡しますので、詳しくは伝えません。以上、謹んで申し上げます。

  くれぐれも、この度の件について、各々が準備に奔走することが大切です。以上。

 

 「注釈」

光照寺

 ─現沼隈町中山南・上森迫。山南川(さんな)東方の山際にあり、金明山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。近世は近江本行寺(現滋賀県神崎郡能登川町)の末寺であった。

 寺伝によると鎌倉に最宝寺を創建した親鸞の法弟明光が西国布教を志して建保四年(1216)備後に来て当地森迫に一宇を建立、光照寺と名付けて布教に務めた。明光とともに山南に来た三人の僧のうち新屋は高田郡からのち三次に移った照林坊を、苅屋は神辺(現深安郡神辺町)に光善寺(現福山市寺町に移転)を、また弘角は最善寺(現福山市寺町に移転)を建立。寄力および随身の六名もそれぞれ寺を建立して布教の基礎を固めたとするが、当寺の開基は鎌倉末期の明光坊了円の法弟慶円とするのが正しいようである(「顕名抄」奥書、「存覚一期記」)。しかし当寺が西国布教の本拠地であったことは確かとされる。寺蔵の嘉暦元年(1316)五月の一流相承絵系図によると、慶円を中心とする尼10名を含む門葉20名が惣を結成し、それぞれ道場を構えて「光明本尊」と呼ばれる仏画をかけて有縁の人々に念仏をすすめ、惣以外の者が勝手に布教することを禁じている。こうして光照寺を中心とする教線は戦国時代には備後から安芸へ、さらには出雲・石見・長門にまで拡張されその数は「沼隈郡誌」によれば備後192、安芸58、備中16、出雲47、長門17の計371ヵ寺に及んだという。

 日蓮宗の大覚が鞆(現福山市)に法華堂(現法宣寺)を建て備前・備中・備後への布教を始めたため同宗との間に衝突が起こることなどもあり、暦応元年(1338)本願寺三世覚如の長子存覚が備後に下り、名を悟一と改めて備後国守護の前で日蓮宗と討論しこれを打ち破ったことが「存覚一期記」に見える。文明年間(1469─87)には山田一乗山城(跡地は現福山市)城主渡辺越中守兼が菩提寺常国寺(現福山市)を建立、付近の仏閣全てを常国寺末とすべく圧力をかけたので、常国寺の近くにあった浄土真宗光林寺は上山南の刈屋に逃れ、のち中山南村西の迫を経て山王谷口へ移転した。

 光照寺は最初鎌倉最宝寺の末に属したが、天文六年(1537)本願寺の直末になるべく運動したが、最宝寺の反対で叶えられなかった。しかし直末同様の待遇を受けている(「天文日記」天文六年七月十五日条)。また光照寺の仲介によって渋川氏や宮氏など備後の武士と本願寺との直接交渉が生じた(同書天文五年十二月七日条、同六年十二月十四日条ほか)。本願寺顕如の時代になると光照寺との交渉はいっそう緊密になったようで、年代は不明であるが五月二十三日付で顕如から備後の坊主衆中ならびに門徒中に対し、近年備後の信徒たちが法義をおろそかにしているのを戒めて念仏をすすめ、当流に定められた掟を守るように申し送っている(「本願寺顕如光佐書状」光照寺文書)。

 天文年間九世祐永の時、神辺城主山名理興が光照寺に放火、寺は灰燼に帰し、のち渋川頼基が旧に復したと言われる(沼隈郡誌)、ちなみに現存最古の建物は永禄元年(1558)に建てられた裏門である。寛永八年(1631)近江本行寺の末となった。「備陽六郡志」は「光照寺下寺六坊あり」として傾光山南光坊・宝石山宝福寺・紫光山観正坊・白雲山光林寺・正光山善徳寺・月高山福泉坊を記すが、宝福寺は福山最善寺の末、福泉坊は南光坊の末とする。寺蔵の絹本著色親鸞上人絵伝・同法然上人絵伝・同聖徳太子絵伝が県の需要文化財に指定されるほか文書多数が残る(『広島県の地名』平凡社)。