周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自殺の中世史2─5 〜「自害」は必ずしも「自殺」に非ず その1〜

  建久九年(1198)三月二十七日付宇佐彌勒寺留守所下文

                  (「豊後城内家文書」『鎌倉遺文』972号)

 

 (端裏書)

 「彌勒寺留守所御下文〈遣筑前」建久九年也、〉」

 

  (豊後速見郡

 下 日出庄

  可早企参洛上子細迫五郎吉守身事

 右、件吉守之父故字迫七郎、為宗門、号夜打空自害、令

 得勢名田之由、宗門殊所訴申也、事若實者、甚以不當事也、若有存旨者、

 速企参洛、可子細之状、依下知如件、勿違失、故下、

   (1198)

   建久九年三月廿七日

                 預所大法師(花押)

 

*割書とその改行は、〈 」 〉で示しました。

 

 「書き下し文」

 下す 日出庄

  早く参洛を企て子細を申し上げるべき迫五郎吉守の身の事

 右、件の吉守の父故字迫七郎は、宗門を損はんがため、夜打ちと号し空自害を企て、得勢名田を押領せしむるの由、宗門殊に訴え申す所なり、若し事実ならば、甚だ以て不当の事なり、若し存ずる旨有らば、速やかに参洛を企て、子細を申さるべきの状、依て下知件のごとし、違失すること勿れ、故に下す、

 

 「解釈」

 日出庄に下達する。早く上洛の手はずを整え、詳しい事情を申し上げなければならない、迫五郎吉守の身柄のこと。

 右の件は、吉守の父で亡くなった字迫七郎が、宗門に損害を与えようとするために、宗門方の夜討ちだと言い触らし自分の体をわざと傷つけ、得勢名田を押領していたという事情を、宗門がとくに訴え申しているのである。もし事実ならば、たいそう道理に合わないことである。もし思うところがあれば、すぐに上洛の手はずを整え、詳しい事情を申し上げなければならないことを命じる。違反をしてはならない。とくに下文を発給する。

 

 「注釈」

弥勒寺」

 ─〔講師職と石清水八幡宮〕天長六年(829)光恵の代に大宰府観世音寺・諸国国分寺の例に倣い別当を講師と改め、同職の任官は大宰府を経由してなされた。長保元年(999)には元命が講師に任命されている(「石清水祀官家系図」石清水文書)。元命は宇佐氏の出自といわれる(「石清水祀官家系図」東大史料編纂所蔵)。なお元命はのちに永宣旨を得て六年一任であった講師職を終身化した。元命の子戒信は講師職、同清成は惣検校職を譲られたが、惣検校清成には末寺・末宮および所領・荘園の支配権が移り、当寺の権限は両職に二分された(「八幡別当令兼任弥勒寺講師例」石清水文書)。寛弘年中(1004─12)に藤原道長が境内に喜多院・法華堂・常行堂を建立(文永元年九月二十三日「弥勒寺領奉寄次第」益永家記録)、以後喜多院が当寺の中核的塔頭となる。寛治元年(1087)清成の養子清円が弥勒寺講師兼喜多院司に補任され、両職はその後、元命の娘婿円賢、次いで円賢子息寛賢と相承された。大治三年(1128)元命の姻族で曽孫にあたる山城石清水八幡宮別当紀光清が両職に補任され、やがて弥勒寺講師(同検校)ならびに喜多院司(同検校)は石清水八幡宮祠官家の紀氏(善法寺田中家)の手に帰し、同氏が当寺および寺領の支配権を掌握した。以後、当寺は石清水八幡宮を本所とし、当寺には留守所が置かれ、石清水八幡宮僧が留守職として下向、寺務・庄務に当たった(前掲別当令兼任講師例など)。しかし十五世紀後半以降、時枝氏が寺務職(留守職)を保持して当寺を掌握、やがて石清水八幡宮との関係は薄れた。なお当寺に所属する僧侶は八幡宮の僧を社僧というのに対して、寺僧という。またおもな塔頭には所司の森坊・小坂坊・桐井坊、長講の中明院・宝光坊・喜多院・宝蔵坊・増光坊、永泉坊などが知られている(元文五年「口上覚并裁許状」到津文書など)(「弥勒寺跡」『大分県の地名』平凡社)。

f:id:syurihanndoku:20190414105905j:plain

f:id:syurihanndoku:20190414105932j:plain

 

「日出庄」

 ─ひじのしょう。現速見郡日出町のうち江戸時代の日出城下・日出村・川崎村・辻間(津島)村の地域に比定される宇佐宮神宮寺弥勒寺領荘園。文治二年(1186)四月十三日の後白河院庁下文案(益永家記録)に弥勒寺領「浦部拾伍箇庄」の一つとして日出庄がみえる。浦部十五箇庄は十二世紀半ばから豊後国司源兼季や知行国主藤原頼輔の乱妨、押領にあっていたが、このとき寺家の訴えにより院庁は寺家に返付するよう命じている。ただしこの時期、弥勒寺領は実質的には山城国石清水八幡宮別当の善法寺家の家領と同様になっており、これ以後、領家や預所が設置され、当庄でも建久九年(1198)三月二十七日の留守所下文(城内文書)や建暦元年(1211)十月二十七日付の預所下文(同文書)、寛喜三年(1231)九月十四日の領家安堵状(案、同文書)などが見られるようになる。文治年中に原図が作成された宇佐宮仮殿地判指図(宇佐神宮蔵)によれば、当庄は宇佐宮仮殿造営の豊後一国役として「若宮西生枝垣十七間内」の二間分を負担している。年月日未詳弥勒寺領諸庄供米注文(永弘文書)では日出庄は供米を四斗負担している。田数は年月日未詳の弥勒喜多院所領注進状(石清水文書)では五十町である。ところが豊後国弘安図田帳では大神庄一七〇町のうちに「日出・津島七十帳」とあり独立した荘園としては扱われていない。地頭は相模守殿(北条貞時)で、得宗領となっている。鎌倉幕府が滅亡すると得宗領は没官となり、鎌倉時代以来、大神荘の「近部・藤原・井出村」の地頭であった戸次氏に与えられたようであるが、南北朝の動乱の中で戸次(大神)筑前次郎朝直が南朝方についたため、当庄の地頭職を没収され、貞和四年(1348)六月二日、豊後守護大友氏から庶子志賀氏に日出庄四分の一(朝直跡)が預けられた(「豊後守護大友氏泰書下」志賀文書)。その後文和元年(1352)には足利義詮から朝直跡の日出庄すべてが田原豊前守貞広に宛行われ(同年十一月二十二日「足利義詮袖判下文」入江文書)、延文四年(1359)十二月二十九日には田原三郎氏能に日出庄地頭職を打ち渡すようにとの守護大友氏時の施行状(草野文書)が出されている。しかし大神朝光が北朝に戻ったので、日出庄半分(東方)は返還され、その替えに田原氏能には三重郷下村(現三重町)の下畑地頭職が与えられた(貞治五年七月二十二日「豊後守護大友氏時知行預ケ状案」入江文書)。その後日出庄地頭職は氏能から子息徳一丸(親貞)へ譲られ、それを安堵した康暦元年(1379)十二月二十四日の足利義満袖判下文(入江文書)には「日出庄 戸次筑前次郎朝直跡」とある。日出庄全体のように記載されているが、先のことから日出庄半分(西方)であったと思われる。室町時代に入り、守護大友氏の領国支配体制が確立してくると、守護が在地の国人の領主権の認定を行うようになる。奉公衆である田原氏もその例外ではなく、応仁二十二年(1415)と推定される九月二十三日の大友持直知行宛行状(広瀬家史料館所蔵文書)では、日出庄内辻間村が田染庄内の田地とともに田原親幸に与えられ、同二十九年には大友親著によって安堵されている(六月一日「大友親著安堵状」入江文書)。この安堵状には「任氏能知行之旨」とあることから、辻間村は日出庄の西方に相当すると思われる。さらに応永三十二年には改めて田原蔵人に「日出・辻間八十町」が預けられた(十月十三日「大友持直知行預ケ状」草野文書)。その後この田原氏の「日出・辻間」に対する支配権がどうなったかは明確ではないが、享徳二年(1453)の辻間村支配土代(城内文書)では、木付孫三郎・木付太郎・工藤助三郎・富永三郎・永松次郎・白仁右馬助・河野大覚・上尾石見・麻生四郎・帯刀美濃などに分与されている。これらの土豪は田原氏の被官ではなく、大友家の給人と思われ、辻間村は大友惣領家の支配するところとなったと思われる(→辻間村)。一方、日出庄東方は大神氏がその支配を戦国期まで維持したようで、永禄七年(1564)の日出庄鎮守若宮八幡宮の扁額銘写(図跡考)に大檀那として「大神中務少輔源鑑房」が見えている。天正四年(1576)の日出庄領家検田小名寄帳(城内文書)によれば、当庄には坂本・貞光金丸・大田・江後内山・武友東・成門・成藤・成行専道・恒松・東金丸・勢家・重宗・向江・竹原・末丸善性・末丸覚薗などの名があった。これらのうちいくつかは旧川崎村域に字名として残っており、西方辻間村に対する東方は江戸時代の日出城下・日出村・川崎村に相当すると推定される。日出庄には若宮八幡宮が荘鎮守として祀られていたほか八津島宮(善神王)があり、法花(法華)寺・光明寺・如意珠繁寺・赤山西明寺無量光寺・密乗院などがあった。これらの寺院では大般若経の書写が行われており、現愛媛県三瓶町の地福寺、湯布院の仏山寺、杵築市の生桑寺に伝存している。また大友氏にとって商業・軍事の面で重要な津であり、宣教師の史料にもしばしばみえる日出港があり、豊前宇佐方面への備えとして鹿越城(かなごえじょう)が構えられていた(→日出湊→鹿越城跡)(『大分県の地名』平凡社)。

 

「得勢名田」

 ─鎌倉期〜室町期に見える名の名前。豊後国速見郡大神(おおが)郷日出庄のうち。現在地は未詳だが、日出町大字日出のうち、大字豊岡に近い場所と思われる。建久九年九月二十七日の宇佐宮弥勒寺留守所下文に「日出庄、可早企参洛申上子細迫五郎吉守身事…令押領得勢名田之由」とあるのが初見(城内文書/大友史料1)。寛喜三年九月十四日、津島兼高に日出庄得勢名が安堵されている。兼高は百姓らの間に地頭方に対して違背の聞こえがあるとして起請文を提出、その誠意が認められて名の領有が許された(城内文書/大友史料2)享徳二年十二月二十日辻間村坪付注文に、「一、得勢自公田壱町六段大」とあるのが終見(城内文書/大友文書11)(『角川日本地名大辞典44 大分県』)。

 

 

*今回の史料は、すでに清水克行氏が分析されているので、まずはその解釈を引用しておきます(「中世社会の復讐手段としての自害」『室町社会の騒擾と秩序』吉川弘文館、2004、37頁)。

 

 (前略)豊後国日出荘で、迫七郎という者が敵対する宗門に「夜打」をうけたとして「空自害」をし、結果的に「得勢名田」の押領に成功したのだという。わざわざ「空自害」と記されていることから考えても、「自害」には「夜打」とならんで、現実に敵対者の落ち度となるほどの法的な力があったのだろう。『塵芥集』第三四条とおなじような自害者への配慮が三百年前の遠く九州でもなされていたのである。(後略)

 

 迫七郎は、敵対者である宗門から夜打ちされたと主張し、「空自害」を起こしています。当時、「夜打ち」は犯罪行為と認識されていたようで(笠松宏至「夜討ち」『中世の罪と罰東京大学出版会、1983、100頁)、それによって自害に追い込まれたということになっています。その後どういう経緯を辿ったのかわかりませんが、最終的には宗門方の「得勢名田」を迫七郎は手に入れたようです。通常、「夜討ち」は斬罪に処されるそうですが(前掲笠松著書、91頁)、宗門方の人物は処刑されたうえ、所領まで押領されたのか、処刑されずに所領だけ押領されたのか、関連史料がないのではっきりしません。

 事件の経緯については、これ以上追究することはできないのですが、実は、史料解釈の点で1つよくわからない箇所が残されています。それこそが今回のキーワード、「空自害」です。迫七郎は「夜打ち」を原因動機に、「空自害」を行なっているのですが、なぜ迫七郎は「夜打ち」されたことによって、「自害」したと「偽証した」のでしょうか。どうして、「夜打ち」されると「自害」しなければならないのでしょうか。私(現代人)の常識からすると、賊が夜陰に紛れて殴り込んできたら、抵抗・逃避することはあっても、自殺しようとは思いません。どう考えても、「夜打ち被害」という原因と、「自害決行」という結果が結びつかないのです。そもそも、この「空自害」とはいったいどのような行為だったのでしょうか。そのまま理解すれば、「嘘の自害」、つまり狂言自殺(自殺未遂)ということになりそうですが、本当に「自殺」と理解してよいのでしょうか。

 もう一度、この部分を直訳しておけば、迫七郎は「宗門に損害を与えようとするために、宗門方の夜討ちだと言い触らし『空自害』を企てた」となります。つまり、実際には起きていない夜打ちが、本当に起きたかのように見せるため、「わざと自分の体を傷つけた」か「傷を負ったように演じた」という意味だったのではないでしょうか。この場面で、あえて「自殺を企てた」と言い張る理由がわかりません。やはり、「自害」=「自分で自分の身を傷つけた」という意味でとどめておくべきではないでしょうか。この史料は、残念ながら「自殺」の史料ではない、と考えられます。