周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

竹林寺文書(小野篁伝説) その2

    一 安芸国豊田郡入野郷篁山竹林寺縁起 その2

 

*送り仮名・返り点は、『県史』に記載されているものをそのまま記しています。ただし、大部分の旧字・異体字常用漢字で記載し、割書は〈 〉で記載しました。本文が長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。なお、森下要治監修・解説『篁山竹林寺縁起』(広島大学デジタルミュージアム・デジタル郷土図書館、http://opac.lib.hiroshima-u.ac.jp/portal/dc/kyodo/chikurinji/top.html)に、竹林寺や縁起絵巻の情報が詳細に紹介されています。書き下し文や解釈はこれを参照しながら作成してみましたが、わからないところが多いです。

 

 

  ノ ノフモトニ   ヘノヒテサトト   ノ   リ     ノモノ  ツネニ ノ  ヲ

 彼山之麓  竹野辺之秀識 云 人之下女有一生不犯者、恒当寺御本尊

 テ シ            リ  カ ロ   ノ ニ   ノ タ ノトキノ シ

奉信敬延暦十九年〈庚辰〉自中夏之比、彼寺一千日之間丑剋参詣無怠、

サル    ニ  ノ ハカリニ     ニネフリ イ ケレハ   セフキ  テ ミトチヤウヲ

去程千日已満夜半斗、   御宝前眠  居 鳬、  風吹来 而  御戸帳

 チ ルト ヲホヘテ     リ  トヒラキリヽヽト   テ ケ リ    ニ モヒ テ   ヲ

打 上  覚、    自内扉切々     鳴而披鳬、不思儀念 奉之、

イツクシキ        テ テ       ヲ シ テ  カラカ フトコロニ   シ レ ヒ

厳   童子一人立出給、  五色玉持来侍、自 之  懐中   押 入 給鳬、

 ク  トモ  タニ   ヘテ イヨヽヽ   コウ ニシテ     ノ ニ キ リ

夢幻一 新   覚而 弥   信力強盛、  而下向道 趣 鳬、

     (絵3)

 コロ ハ   ナカハノ ナリ   ムラト ニ リ  ノ    ノホトリニ   リ ヤスラフニ

 比 者 五月半  事、竹田村云処 在竹林、其辺    立寄而徘徊、

      クノヲ  ク ハヘ  テ リ  ルヤ    ニ         ノ  ニ

笋子不幾数一 多 生 出 鳬、有八千代俄戯之心哉、此竹子

 シテ トツキヲ   ル   テ   ノ  ヲ  ノ ヲ  シテ ク

レ  嫁   立帰時、惜別離名残一首歌  詠 云、

 美之賀与能 奈古利曾於新幾 志乃乃免野 左歌那記古登遠 飛登仁賀多留南

  ヒ ステヽ   ヘリ

 云 捨而帰 侍、

     (絵4)

  ノ        シテ テ  ヲ              ノ

 其後彼八千代懐妊 経十月、而仁皇五十代桓武天皇御宇延暦廿一年〈壬午〉

  ノ  モウケ   ノ   ヲ ハナハタ テ  キ リ ウフ ヲ ル アヒセ  ノ    テ

中春之比、生玉体之一子、太  悦而懐取  宇浮湯奉レ 浴、 彼霊水成

     リ      ハ  ノ   カラ ナ  テ  レハ レ        シ   ノ ヲ

御池而在于今、然則此少兒 自 名 乗 而 吾是篁也云々、弥成奇異思

 ル シ          リ      ロ  テ    リ ヲ  テハ   ルコト ヲ 

養育、加之自二三歳之比始而覚終、汲流而知レ 源、

 ヘハ シ  ノ     テ    ス     ハ      ル

喩 如唐土顔回、以一而察十、子路一而知二云々、

     (絵5)

  ル  ニ ノ      ハ  トモ ト    ヤツ      ニ  ナヽメ   ニ    ノ

 去 程 彼 竹野辺殿者、雖下人之奴子、愛敬誠不斜、 然処竹野辺之

   ス   ノ      ル キ ノ ニ  モ ス セン  ヲ   リ    ノ ナレハ

女房為嫉妬之思乎、或時 彼 篁 雖毒害、自元再来人成者

ス    スルコト ニ ウラミ テ    ノトキ  ノ ヲ テ  テ  リ  ヒ  リ

、終此旨恨給玉而十二歳剋  彼郷立出、指東登 給 侍、

     (絵6)

  ル ニ テ    ヲ   ニ  ノ テ       ネ      ヲ   テ

 去程越国々関々、終山城国花洛、而尋槐市之跡、積蛍雪鑚仰之

    ニ    ノ  ハ  ヘテ ニ  キ     ハ スキ ニ     ノ ハ ニ

、故能芸才覚之業者越レ 他、手跡詩歌之道 過世、無陰其誉天下者也、

     (絵7)

   つづく

 

 「書き下し文」

 彼の山の麓に竹野辺の秀識と云ふ人の下女に一生不犯の者有り、恒に当寺の御本尊を信敬し奉りて、延暦十九年〈庚辰〉仲夏の比より、彼の寺に一千日の間丑の剋の参詣怠り無し、去る程千日已に満の夜半斗に、御宝前にて眠り居ければ、風吹き来たりて御戸の帳を打ち上ぐると覚へて、内より扉切々と鳴りて披けけり、不思儀に念もひ之を見奉りて、厳しき童子一人立ち出で給ひて、五色の玉を持来し侍りて、自らかの懐の中に押し入れ給ひけり、夢幻とも無く新たに覚へていよいよ信力強盛にして、下向の道に趣きけり、

     (絵3)

 比は五月半ばの事なり、竹田村と云ふ処に竹の林在り、其の辺りに立ち寄り徘徊ふに、笋子幾ばくの数を知らず多く生へ出でけり、八千代俄に戯の心有るや、此の竹の子に嫁ぎを為て立ち帰る時、別離の名残を惜しみて一首の歌を詠じて云く、

 「ミシカヨノ ナコリソヲシキ シノノメノ サカナキコトヲ ヒトニカタルナ(短夜の 名残ぞ惜しき しののめの さがなきことを 人に語るな)」ト 云ひ捨てて帰り侍へり、

     (絵4)

 其の後彼の八千代懐妊して十月を経て、人皇五十代桓武天皇の御宇延暦二十一年〈壬午〉仲春の比、玉体の一子を生け、太だ悦びて懐き取り宇浮湯を浴びせ奉る、彼の霊水御池に成りて今に在り、然れば則ち此の少児自ら名乗りて吾れは是れ篁なりと云々、いよいよ奇異の思ひを成し養育を為(し)奉る、しかのみならず二、三歳の比より始めを聞きて終わりを覚り、流れを汲みては源を知ること、喩へば唐土顔回のごとし、一を以て十を察し、子路は一を聴きて二を知ると云々、

     (絵5)

 去る程に彼の竹野辺殿は、下人の奴子たりと雖も、愛敬誠に斜めならず、然り処に竹野辺の女房嫉妬の思ひを為(す)るか、或る時彼の篁に毒害を為(せ)んと欲すと雖も、元より再来の人なれば服すること能はず、終に此の旨恨み給ひて十二歳の剋彼の郷立ち出で、東を指して登り給ひ侍り、

     (絵6)

 

 去る程に国々関々を越えて、終に山城国の花洛に入りて、槐市の跡を尋ね、蛍雪鑚仰の功を積みて、故に能芸・才覚の業は他に越へて、手跡・詩歌の道は世に過ぎ、其の誉は天下に陰るる無き者なり、

     (絵7)

   つづく

 

 「解釈」

 この桜山の麓に住んでいる竹野辺の秀識という人の下女に、一生不犯の誓いを立てた者がいた。いつも当寺の御本尊を信敬し申し上げて、延暦十九年〈庚辰〉(800)五月ごろから、この寺に千日間丑の刻参りを怠りなく続けた。そうしているうちに、千日詣が満願した夜中ごろに、御宝前で眠っていたところ、風が吹いてきて本堂の御戸の帳を吹き上げたと思い(目を覚まして見てみると)、内陣から扉がきりきりと鳴って開いた。不思議なことだと思ってこの様子を拝見していると、尊く気高い子どもが一人立ち現れなさって、五色の玉を持って来まして、童子自らが下女の懐の中に押し入れなさった。夢や幻でもなかったので、気持ちを新たにし、信心の力はますます強く盛んになり、帰途に就いた。

     (絵3)

 時期は五月半ばのことである。竹田村というところに竹林があった。(下女の八千代は)そのほとりに立ち寄って休息していたところ、竹の子が、どれほどの数かわからないが、たくさん生え出てきた。八千代は急に遊び心が生じたのだろうか、この竹の子に嫁ぎ、立ち帰るときに別離の名残を惜しんで、一首の歌を詠んで言うには、

 「この短い夜のようにあっけない、私たちの夫婦仲の名残惜しいことよ。夜明けの意地悪さを人に言わないでおくれ」と言い捨てて帰りました。

     (絵4)

 その後、この八千代は懐妊して十ヶ月を経て、人皇五十代桓武天皇延暦二十一年〈壬午〉(802)二月ごろ、玉のように美しい子どもを産んだ。たいそう喜んで抱き取り、産湯を浴びせてさしあげた。この産湯に使った霊水は池になって今でも残っている。そして、この幼子は自ら名乗って、私は篁であると言ったそうだ。ますます不思議だと思い、養育してさしあげた。それだけではなく、二、三歳のころから物事の最初を聞いて終わりまでを理解し、流れる水を汲み取ってその源の様子を知るように、末を見て本を知ることは、たとえば中国の顔回のようである。顔回は一を聞いて十を察し、子路は一を聞いて二を知るだけだという。

     (絵5)

 そうしているうちに、竹野辺殿は下人の子どもではあったが、並々ではなくかわいがった。しかし、竹野辺殿の女房は嫉妬したのだろうか、ある時この篁を毒殺しようと考えたのだが、もともと文殊菩薩行基菩薩の生まれ変わりの人であるので、毒を飲むことはなかった。篁は、結局この一件を恨みなさって、十二歳のときにこの里を出て、東を目指し上りなさいました。

     (絵6)

 そうしているうちに、諸国・諸関を越えて、とうとう山城国の洛中に入り、大学の場所を訪れ、苦労して勉学に励んだ。それゆえ、技芸や学問の才能は他者を超え、文字や詩歌の道も、たいそう優れており、その名声は天下に広く知られているものである。

     (絵7)

 

   つづく

 

 「注釈」

小野篁

 ─ 802─52 平安時代前期の公卿、文人。最高官位が参議であったため、野相公あるいは野宰相と呼ばれた。延暦二十一年(802)生まれる。父の小野岑守は勅撰漢詩集『凌雲集』の撰者。篁も優れた詩人として有名である。ただし『本朝書籍目録』は『野相公集』5巻の存在を伝えるが、今はなく『経国集』『扶桑集』『本朝文粋』『和漢朗詠集』にわずかな作品を伝えるだけである。『文徳実録』によれば、少年時代は乗馬にのみ専心して学問を顧みなかったので、父に似ぬ子だと嵯峨天皇を嘆かせたが、それを聞いた篁は大いに慚愧し、以後学問に専心したという。その結果か、弘仁十三年(822)文章生、天長十年(833)東宮学士となり、『令義解』の撰修に加わり、承和元年(834)は遣唐副使を命ぜられた。しかし二度の出発はともに難船して失敗。同五年には藤原常嗣と仲違いをし病と称して乗船せず、嵯峨上皇の怒りを受けて隠岐へと流された。七年帰郷を許され、嵯峨上皇の特別のお声がかりで本爵に復した。十四年参議になったが、仁寿二年(852)十二月二十二日に没した。五十一歳。和歌にも優れ、『古今和歌集』には六首とられている。『小野篁集』はその歌集であるが、叙述法は物語的で、『篁物語』とも呼ばれている。平安時代中期以降の成立か。『新古今和歌集』以後の勅撰集にみられる篁の歌はこれからとったもので篁の真作ではあるまい。また『今昔物語集』『宇治拾遺物語』『十訓抄』『江談抄』などには、篁の優れた学才を示す説話が種々伝わっている(『日本古代中世人名辞典』吉川弘文館)。

 

 

*この部分は、母親が筍と交わって生まれたのが小野篁である、という大変珍しい出生譚として有名で、数多くの研究が積み重ねられているそうです。神や妖怪、動物と交わって子をなすという話(異類婚姻譚)はよく聞きますが、筍のような植物と交わるというのは、かなり珍しいエピソードだと思います。

 斉藤研一「石女地獄について」(『子どもの中世史』吉川弘文館、2003年、初出2000年、207〜209頁および注釈参照)によると、竹の空洞の中には何かが宿り、そこでは何らかの変身(変生)が成し遂げられるという、普遍的な心性が存在したそうです。また、依代としての竹は神聖性を備え、繁栄・繁盛のシンボルでもありました。これには、竹の成長速度の速さとも関係があり、竹の成長と子どもの成長の様子が、ダブル・イメージされているそうです。さらに、「篁」と「竹林」は語彙のレベルでも結びついており(つまり、「たけかんむり」と「皇」(広い)の形声文字)、筍を男性器のメタファーとして捉えることも可能だと指摘しています。