*送り仮名・返り点は、『県史』に記載されているものをそのまま記しています。ただし、大部分の旧字・異体字は常用漢字で記載し、割書は〈 〉で記載しました。本文が長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。なお、森下要治監修・解説『篁山竹林寺縁起』(広島大学デジタルミュージアム・デジタル郷土図書館、http://opac.lib.hiroshima-u.ac.jp/portal/dc/kyodo/chikurinji/top.html)に、竹林寺や縁起絵巻の情報が詳細に紹介されています。書き下し文や解釈はこれを参照しながら作成してみましたが、わからないところが多いです。
ノ ロ ノ ヨシスケト ヨキヒメキミヲ チ マシマシ リ
其比西三条之関白小野大臣良相 申公卿、好姫君 持 御座 鳬、
カン レイ シ[ ] □[ ] モ ラント ニ モ モト モ
容顔美麗矣天下無レ双、尓者月卿雲客等 奉 レ取レ嫁、我々 雖レ
スト ヲ ク ス ル ニハ □ ニ モ エ ヘリ
為レ望 無二左右一不二領掌給一、或 説 奉二女御一共申聞 侍、
ノ ハ ハラハヘノ リニ ル ヲ ニ ノ ルヤ ニハ ト シ リ ハ
此比者京童 嘲不レ成事云、 関白成レ聟耶 申鳬、抑篁雖二才芸
ル ニ ハ ラ テ ク ハ タ チ ヲ ニカリキヌ
勝一レ他貧道天下第一也、或時学徒嘲云、 御辺未レ持二妻女一故狩衣々装
ル キサマ ノ コソ リ ヒ フ ヲ テ シ ヘト ヒヽ レハ
見苦敷様也、関白姫君社成二齢十六一給、是望 為二女房一給 謂鳬、
シ ト タ ヲ キコトハヲ テ テ ヲ シ リ シ ラニ
光陰可レ惜時不レ待二人一云古詞 引、 而作レ詩 通鳬、人無二更少時
ラク シ ス ル ヲ レト フコヽロハ ノ ニ キ スキ ヲ
須ヘシ レ惜、年不二常春一酒 莫レ空云々、言 無益言葉 易レ過時
リ ラン チラカ ト イトナム ヲ ラ ヲ ヲ ス キ テ
自レ送、 汝等 為二営 事一云也、学徒等猶此語 不レ得レ聞重而
ヒ レハ ラ ク イテサラハ ノ ニ フ ニ テ コソ
咲鳬、 篁言、出 左 者 成二彼聟一云、其時同音笑而聟入之時
レラ ノ ラン□物ヲ ク ニ ラ シ ハ ヲ ラント シ ヲ
我等御辺取レ履云々、篁曰、誠汝等諍論給、 其時御辺達奉レ仕深為二約束一、
ノ ヲ ラ テ ノ ニ キ ヒ
生年十八歳之時、即作二申文一自持レ之、良相御所行給鳬、
(絵8)
ル タ テ ノ ノ ニ ヲ ヒ レ レ モ シ ク ルマテ
然間至二彼関白御所一、 而子細云 入 鳬共、無二申次人一、時剋移迄而
ニ フシ チ テ ミ ヒ レハ タテフミ チケル ル ニテ ノ
庭上立、折節大臣良相立出 見 給 鳬、立文 持童子、去躰地上三尺斗
アカリテ ニ ニケリ スト タヽ ニ ヒ フニ ヲ ル ノ ヲ チ キ ミ
挙レ 空居鳬、 非二啻人一 思問玉二子細一、奉二彼状一、即披見
フニ ノ ニ ク ハ テ カノシヒヲ ツトメ□ ハ テ レイ□ ニ ヒ シ
給 其詞云、 冬払二霄蛾燈一 勤切、 夏向二藜藿儀一 思深、
ニ レハ テ ツトメ キコト ニ リ
並而右七左七横山逆出云々、是篁明二蛍雪鑚仰之勤 深一、 而次造二
ヨメト ヲ ヘリ
婦 云文宇一侍、
(絵9)
ヒ玉フ ハ カ ヲ ト ト エ チ ヲ リ シ ニ 玉ヘリ
大臣思 様 吾姫君於ヨメニ給曰儀覚、 則扇取 直 虚空書二
ト フ ヲ ラ モフ ハ レハ テ トノミノ レト 玉フ ト チ ニ
龍云文宇一、篁念様 是 立レ月己巳日来 言返答得レ意、即学所
ヘリ ノ トラニ テ ク ノ ツチノトノ キ ス タチ
帰而以前学徒等 語曰、 来月之己 巳日可レ為二聟入一也、御辺達者
ノ シ ノ シ 玉エト リ レハ シケル ラ シ
約束之間可レ奉二相伴一、其用意仕給 在 鳬、嘲哢鳬学徒等後悔申鳬
シ
無二其甲斐一、
(絵10)
つづく
「書き下し文」
其の比西三条の関白小野大臣良相と申す公卿、好き姫君を持ち御座しけり、容顔美麗天下に双無し、尓れは月卿雲客らも嫁に取り奉らんと、我も我もと望み為すと雖も、左右無く領掌し給はず、或る説には女御に奉るとも申し聞こえ侍り、此の比は京童の嘲りに成らざる事を云ふに、関白の聟には成るやと申しけり、そもそも篁才芸は他に勝ると雖も貧道は天下第一なり、或る時学徒ら嘲りて云く、御辺は未だ妻女を持たざる故に、狩衣衣装見苦しき様なり、関白の姫君こそ齢十六に成り給ふ、是れを望みて女房に為し給へと謂ひければ、光陰惜しむべし、時人を待たずと云ふ古き詞を引きて、詩を作りて通しけり、人更に少き時無し、須く惜しむべし、年常には春ならず、酒空しくすること莫かれと云々、言ふこころは無益の言葉に過ぎ易き時を送らんより、汝らか営む事を為すと云ふなり、学徒ら猶ほ此の語を聞き得ず重ねて咲ひければ、篁言く、いでさらば彼の聟に成ると云ふ、其の時同音に笑ひて聟入りの時こそ我ら御辺の履物を取らんと云々、篁曰く、誠に汝ら諍論し給はば、其の時御辺達を仕り奉らんと深く約束を為し、生年十八歳の時、即ち申文を作り自ら之を持ちて、良相の御所に行き給ひけり、
(絵8)
然る間彼の関白の御所に至りて子細を云ひ入れけれども、申し次ぐ人無し、時剋移るまで庭上に立つ、折節大臣良相立ち出でて見給ひければ、立て文を持ちける童子、去る躰にて地の上三尺ばかり空に挙がりて居にけり、啻だ人に非ずと思ひ子細を問ひ玉ふに、彼の状を奉る、即ち披き見給ふに其の詞に云く、冬は霄蛾の燈を払ひて勤め切り、夏は藜藿儀に向かひて思ひ深し、並びに「右七左七横山逆出」と云々、是れは篁蛍雪鑚仰の勤め深きことを明らめて、次に婦と云ふ文字を造り侍り、
(絵9)
大臣思ひ玉ふ様は吾が姫君を嫁に給へと曰ふ儀と覚え、則ち扇を取り直し虚空に龍と云ふ文字を書き玉へり、篁念ふ様は是れは月を立て己の巳の日に来たれと言ひ玉ふ返答と意得、則ち学ぶ所に帰り以前の学徒らに語りて曰く、来月の己の巳の日に婿入りを為すべきなり、御辺達は約束の間相伴し奉るべし、その用意し仕り給へと在りければ、嘲弄しける学徒ら後悔し申しけるも其の甲斐無し、
(絵10)
つづく
「解釈」
そのころ、西三条の関白小野大臣藤原良相と申す公卿は、すぐれた姫君をお持ちになっていた。お顔立ちは美しく、天下に並ぶものはない。この娘を公卿や殿上人らも嫁にいただこうと、我も我もと望むが、ためらうことなくご承知にならなかった。ある説では、女御として差し上げるという噂がありました。このごろは、京の無法者たちが、物事が成し遂げられないことを嘲笑して、「関白の聟にでもなるのか」と申した。さて、篁の技芸や才能は他者よりも優れていたが、天下第一の貧乏人であった。あるとき学徒たちが嘲笑して言うには、「あなたはまだ妻を持っていないがゆえに、狩衣などの衣装が見苦しいのである。関白の姫君は十六歳におなりになった。この姫を望んで妻になされ」と言ったので、「一瞬を大切にしなさい。時間は人を待ってはくれない。」という古い表現を引用し、漢詩を作って送った。少年時代は二度と来ないものです。だから、わずかな時を惜しみ、むだにしてはなりません。季節は、一年を通していつも春というわけではありません。だから、春を惜しみながら酌む酒の楽しみを、今尽くそうではありませんか」という詩だった。この漢詩の意味は、「つまらない言葉に左右されて過ごすよりは、あなたたちの為すべきことを為せ」というのである。学徒らは依然としてこの漢詩の意味を理解することができず、再び笑ったので、篁が言うには、「さあ、それならば関白の聟になろう」と言った。その言葉を発すると同時に学徒らは笑って、「聟入りのときにはあなたの履物を取ろう」と言った。篁が言うには、「本当にあなたたちがこの言い争いに勝ちなさるなら、その時はあなたたちにお仕えしましょう」とかたく約束し、生年十八歳のとき、申文を作成し、自らこれを持って、良相の御所にお出かけになった。
(絵8)
そうしているうちに、小野篁はあの関白藤原良相の御所にやってきて、事情を申し入れたけれども、取り次ぐ人がいなかった。時刻が移るまで庭先に立っていた。ちょうどそのとき、大臣良相が現れて篁をご覧になったところ、立文を持った青年が、そのような姿で地上から三尺ほど宙に浮いていた。普通の人々ではないと思い、事情をお尋ねになると、この書状を差し上げた。すぐにそれを開いてご覧になると、そこに書かれた言葉には、冬は夜の虫が明るい燭に飛び込むような迷いを払い除けて全力で勉学につとめ、夏は朝の葵(ひまわり)が太陽に向かうように誠心を致した。そして、「右七左七横山逆出」とあった。これは篁が苦労して勉学に励んだことを表明しており、次に「嫁」という字を作っているのです。
(絵9)
大臣の良相がお考えになるには、「あなたの姫君を嫁にくださいと篁が申し上げている」と思われ、すぐに扇を持ち直し、宙に龍という文字をお書きになった。篁が考えるには、「これは月を立て己の巳の日に来いと良相がおしゃっている」と了解し、すぐに学問所帰り、先ほど言い争った学徒らに語って言うには、「来月の己の巳の日に婿入りをするつもりである。あなた達は約束したので、婿入りに従い申し上げよ。その準備をし申し上げてください」と言うので、ばかにしていた学徒らは後悔し申したがどうにもならない。
(絵10)
つづく
「注釈」
「良相」
─藤原良相。813─67 平安時代前期の官人。弘仁四年(813)生まれる。藤原冬嗣の第五子。母は藤原美都子。良房および文徳天皇母順子と同母。またその女多可幾子、多美子はそれぞれ文徳・清和両天皇の女御となった。良相は若くして大学に学び、承和元年(834)蔵人となり、同五年叙爵。左近衛少将を拝し、「承和の変」の際には近衛を率いて皇太子直曹を包囲した。その後左近衛中将を経て嘉祥元年(848)に参議に昇進した。ついで中将・右大弁を兼ね、文徳朝に入ると春宮大夫をも兼ね、権中納言、大納言、右大将などの要職を経て天安元年(857)に右大臣に就いた。出自、学歴に恵まれ「曲量開曠」「有才弁」(『三代実録』貞観九年(867)十月十日条)と評された実力者で、特に貞観初年には「機務に専心」したといわれ、良房政権下で大きな力を持った。また貞観元年には延命院・崇親院などを設け藤原氏の貧窮者救済にあたった。同八年、応天門が炎上すると、伴善男と良相は左大臣源信に放火の罪を着せようとしたらしいが、藤原良房が信を弁護したため大事には至らなかった。これは源氏の進出に対する良相の危機感をあらわす事件としてよいが、良相と良房の間にも食い違いが生じてきていたことを表すものといえる。貞観九年十月十日没。五十五歳。贈正一位(『日本古代中世人名辞典』吉川弘文館)。
「冬払霄〜儀思深」
─『新日本古典文学大系 本朝文粋』(「野相公 奉右大臣書」巻七、書状・186)では、「不堪宵蛾払燭之迷、敢切朝藿向曦之務」(宵蛾燭を払ふ迷ひに堪へず、敢て朝藿曦に向ふ務を切にす)とあり、「夜の虫が明るい燭に飛び込むような迷いに堪えられず、朝の葵(ひまわり)が太陽に向かうように誠心を致したい」と解釈している。
「右七左七横山逆出」
─何らかの謎かけなのでしょうが、どのように解釈すればよいかわかりません。
「人無更〜酒莫空」