寛元四年(1246)六月九日条 (『大日本古記録 岡屋関白記』1─109)
(藤原頼経)
九日、丙申、晴、此間世間不静、毎夜連日回禄、又関東有事云々、入道大納言廻
(北条) (北条) (北条)
謀察、相触武士等討時頼、〈泰時朝臣末子、兄経」時死去之後執権之者也、〉又令
〔搦〕 (藤原)
行調伏祈等、此事発覚之間騒動、弱取前兵庫頭定員、令拷問之間承伏云々、定員子息
焼彼間書状等自殺云々、可謂賢歟、入道被幽閉云々、使者輙不通、仍京都人不知
(藤原道家) (藤原兼平)
実説、東山辺可有怖畏云々、向近衛則帰、右大臣来、夜半有火、上東門内小屋云々、
定員子息事虚言云々、自今夜以最尊始行大威徳供、
*割書とその改行は、〈 」 〉で記しました。
「書き下し文」
九日、丙申、晴る、此の間世間静まらず、毎夜連日回禄、又関東に事有りと云々、入道大納言謀察を廻らし、武士等に相触れ時頼〈泰時朝臣の末子、兄経時死去の後執権の者なり、〉を討たんとす、又調伏の祈り等を行なはしむ、此の事発覚の間騒動、前兵庫頭定員を搦め取り、拷問せしむるの間承伏すと云々、定員の子息彼の間に書状等を焼き自殺すと云々、賢しと謂ふべきか。入道幽閉せらると云々、使者輙く通さず、仍て京都の人実説を知らず、東山辺り怖畏有るべしと云々、近衛に向かひ則ち帰る、右大臣来たる、夜半に火有り、上東門内の小屋と云々、定員子息の事虚言と云々、今夜より最尊を以て大威徳供を始め行なふ、
「解釈」
九日、丙申、晴れ。このところ世間が静まらない。毎夜連日火事が起きている。また関東で事件が起きたという。入道大納言九条頼経が謀を巡らし、武士たちに告げ、北条時頼〈北条泰時の末子で、兄北条経時が死去した後に執権となった者である〉を討とうとした。また頼経は調伏の祈祷を執行させた。このことが発覚したので騒動になり、前兵庫頭藤原定員を捕縛し、拷問させたところ、罪を認めたという。定員の息子は、父が拷問にかけられている間に、証拠となる書状などを焼き捨て自殺したそうだ。賢明であると言わねばならないだろう。入道九条頼経は幽閉されたという。使者は簡単には通さない。だから、京都の人は本当の話を知らない。頼経の父九条道家あたりは、たいそう恐れていたはずだという。私は近衛殿に向かい、すぐに岡屋殿に帰ってきた。弟の右大臣鷹司兼平がやって来た。夜中に火事があった。上東門内の小屋が火元出そうだ。藤原定員の子息のことは、嘘だったという。今夜から最尊を導師として、大威徳供を執行しはじめた。
「注釈」
「岡屋関白記」
─近衛兼経の日記。名称は兼経の居所岡屋殿にちなむ。1222─51(貞応1─建長3)の記事が断続的に伝存。後嵯峨院政期の関白としての見聞を記す。自筆本および古写本は陽明文庫蔵(『角川新版日本史辞典』)。詳細は『東京大学史料編纂所報』(第23号、44頁、https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/23/pub_kokiroku-okaya.html)を参照。
「宮騒動」
─寛元四年(1246)、北条一門の一人、名越光時の反乱未遂事件を契機として鎌倉幕府前将軍藤原頼経が帰洛させられた事件。仁治三年(1242)、武家政治確立に貢献した北条泰時が六十歳で没すると、その後継者として四代目の執権に就任したのは若干十九歳の経時であった。この政権交代の背景には、泰時の嫡子時氏(経時の父)と次子時実とがともに早世していた事情があった。当時、北条氏内部では庶子家が多く分立しており、それらの諸家の発言権も増大していた。また、幼少時に鎌倉に迎えられて将軍に擁立された藤原頼経も二十歳を越え、反執権勢力を集めていた。そのために政局の不安定要因は多く、寛元二年、執権経時は頼経を将軍の座から追い、代わりにその子頼嗣を立てたが、みずからも病弱で同四年三月、弟時頼に執権職を譲り、閏四月に没した。これを機に義時の孫にあたる名越光時は、五代目執権時頼政権打倒をはかった。だが、それは鎌倉中の騒擾を招き、五月二十五日には時頼により機先を制せられ、逆に光時は弟時幸とともに出家に追い込まれ、六月一日に時幸は自害、七月には頼経派の評定衆の後藤基綱・藤原為佐・千葉秀胤・三善康持らは罷免、十三日には光時も越後の国務以下の所職の大半を没収され伊豆へ配流とされた。さらに頼経は七月十一日に鎌倉を追われ、京都でも頼経の実家九条家の勢力は一掃されたが、時頼はこの事件を契機に反対勢力の除去に尽力した(『国史大辞典』)。
「藤原頼経」
─1218─56。鎌倉幕府四代将軍。1219─44在職。摂関九条流藤原家三男、母は太政大臣西園寺公経の娘従一位准三宮綸子(『百錬抄』に淑子)。建保六年(1218)正月十六日、寅歳の正月寅の月の寅刻に生まれたので幼名三寅丸。三代将軍源実朝急死直後、母が頼朝の姪の娘だったので、皇族将軍下向を後鳥羽上皇に拒絶された幕府に迎えられ、承久元年(1219)六月二十五日西園寺邸を出立、同七月十九日に鎌倉に入り鎌倉殿四代目を嗣立。同三年の承久の乱には無関係。元仁元年(1224)六月の伊賀氏の変で廃立の危険があったが、北条政子の奔走で回避。嘉禄元年(1225)十二月二十日、大蔵御所から宇都宮御所に移徙。同二十九日執権北条泰時を加冠役として元服、頼経と称す。翌年正月二十七日将軍宣下、正五位下征夷大将軍兼右近衛少将。安貞元年(1227)正月二十六日近江権介。寛喜二年(1230)十二月九日、二代将軍源頼家の遺姫で二十八歳の竹御所鞠子と結婚、同三年二月五日従四位上、三月二十五日左中将、四月八日正四位下、貞永元年(1232)正月三十日備後権守二月二十七日従三位、天福元年(1233)正月二十八日権中納言、文暦元年(1234)十二月二十一日正三位、嘉禎元年(1235)十月八日按察使、十一月十九日従二位、同二年七月二十日正二位、十一月二十二日民部卿、暦仁元年(1238)二月十七日入洛、二十三日右衛門督、二十六日検非違使別当、三月七日権大納言、四月十八日権大納言辞任、十月二十九日鎌倉下着、この間、京都では父道家、兄教実が交互に摂関就任。鎌倉では執権政治が確立していて将軍に実権はなく、名越流北条、三浦、千葉、評定衆などの側近をもって反得宗派を形成したが、寛元二年(1244)四月二十八日、執権北条経時に強要されて将軍職を子頼嗣に譲り、よく三年七月五日鎌倉久遠寿量院で出家、法名を行智(行賀とも)。以後も大殿と呼ばれて権力回復を図ったが、同四年五月二十四日、執権北条時頼に自邸を封鎖され、側近は処断された。頼経も追却されて七月二十八日京都六波羅の若松殿に入った(宮騒動)。直後、父道家の関東申次も解任されて権勢を失い、かわって関東申次を世襲することになった西園寺家の勢力が伸張した。しかし、京都に帰ってからも権力回復の陰謀に努め、宝治元年(1247)六月五日の宝治合戦(三浦氏の乱)は、三浦泰村・光村兄弟らが頼経の鎌倉帰還を図って失敗した事件という側面もあり、建長三年(1251)十二月、足利泰氏が自由出家の廉で所領一処を没収され、了行法師らが陰謀の疑いで処断されたのも、背後に道家・頼経親子の存在が濃厚である。よく四年に月二十一日道家が死ぬと、三月二十一日には五代将軍頼嗣も京都に追却された。康元元年(1256)八月十一日没。三十九歳。同年九月二十五日頼嗣も没し、相次ぐ父子の急死の背後に何事かが推測される。父子二代を藤原将軍・摂家将軍・公卿将軍・七条将軍などと呼ぶ(『日本古代中世人名辞典』吉川弘文館)。
「北条時頼」
─1227─63。鎌倉時代中期の執権。幼名戒寿丸。北条五郎と称す。北条時氏の次男。母は安達景盛の娘松下禅尼。安貞元年(1227)五月十四日辰刻、京都六波羅で生まれる。寛喜二年(1230)四月十一日、父時氏の六波羅探題北方離任により鎌倉帰着。嘉禎三年(1237)四月二十二日、執権祖父北条泰時邸で元服、加冠の将軍藤原頼経の一字を受け五郎時頼と称す。暦仁元年(1238)九月一日左兵衛少尉。延応元年(1239)十一月二日毛利季光の娘と結婚。寛元元年(1243)閏七月二十七日左近将監。同二年三月六日従五位上。同四年三月二十三日、重病の兄経時の譲りを得て家督と執権職を嗣立。『吾妻鏡』のこの日の記事に、のち寄合衆に発展する「深秘御沙汰」の語初見、同五月、前将軍頼経・名越流北条時光らの陰謀を探知、同二十四日に兵をもって頼経御所と鎌倉中を制圧して未然に抑え、直後に評定衆の後藤基綱・藤原為佐・千葉秀胤・三善康持(問注所執事も)を罷免、光時を伊豆江間郷に、千葉秀胤を上総一宮に配流、頼経を京都に追却した(宮騒動)。ついで同十月、頼経の父前摂政九条流藤原道家の関東申次罷免と西園寺実氏の同職任命を京都に要求、実現させた。これにより九条家の威勢は落ち、かわって以降代々関東申次を世襲した西園寺家の地位があがり、同十一月後嵯峨院政にも実氏を中心とした院評定衆が創設され朝政刷新にもなった。宝治元年(1247)四月、幕初以来の雄族三浦氏の討滅を図り、同六月五日異心なきを誓う三浦泰村を奇襲して滅ぼし、同七日千葉秀胤も上総一宮で滅ぼして実権を確立、専制化を強めた(三浦氏の乱)。この時点を得宗専制の成立と見る説もあるが、建長元年(1249)六月十四日相模守に任じ、同十二月九日、訴訟の公正迅速を目的として評定衆の下に引付衆を付設したことをもって、合議制の進展、執権政治の最盛期とする見方もある。同三年十二月、自由出家のかどで足利泰氏の所領一所を没収。謀反の疑いで了行法師・矢作左衛門尉らを追捕処断。両事件の背後に九条一族の陰謀を探知するや、翌年春、将軍藤原頼嗣を廃立京送して、後嵯峨上皇の第一皇子宗尊親王を将軍に迎えた。時頼の政治には、宝治元年十二月に京都大番役を六ヶ月から三ヶ月勤番に減じ、同二年閏十二月の寒中の的調べを止めるなどの御家人擁護、建長三年六月に地頭・農民間の訴訟の法を定め、同五年十月の十三条の新制で撫民のことを定めるなどの農民保護があり、特に質素倹約を勧めて、沽酒の一屋一壺制、過差・博奕・鷹狩の禁、薪・炭・藁などの物価の統制などが有名。全体に北条氏得宗家に対する外様御家人、地頭に対する領家と農民、惣領に対する庶子などの弱者の救済を図ったので、善政と謳われて人気があり、ついに変装して諸国を廻国し勧善懲悪を行なったという廻国伝説が生じた。この伝説が最初にみえるのが『増鏡』九草枕であるが、ほかにも『弘長記』にもあり、謡曲「鉢の木」「藤栄」「浦上」などの話を生んだ。この伝説を時頼が廻国使という密偵を諸国に派遣したことの反映と見る説と、伝説のある地域が多く得宗領であることから、この時期に得宗領がもっとも増加したという解釈がある。康元元年(1256)十一月二十二日、赤痢により執権職を極楽寺流北条長時に譲り、翌日出家して最明寺入道覚了房道崇と号す。長時の地位は家督時宗の幼稚の間の眼代でしかなく、直後平癒した時頼は実権を回復して後見政治を行なった。その権力は執権職に由来せず、得宗たる地位によっていたことは明白で、この時点より以前に得宗専制が成立していたと見るべきであろう。弘長三年(1263)十一月二十二日戌刻、最明寺北亭で死没。三十七歳。前後十八年間に及ぶ時頼の政治は、泰時の政治と並んで鎌倉幕府中興の仁政と謳われたが、反面、北条氏得宗家の権力のより強度な伸張を図ったことも否定できない。神奈川県鎌倉市の明月院に墓がある(『国史大辞典』)。
「藤原定員」
─?─? 鎌倉時代の幕府官僚。兵庫頭(かみ)。4代将軍となった九条頼経に京都から随従した近臣で、将軍御所を奉行。寛元4年(1246)の宮騒動で、執権北条時頼のもとへ弁明の使者となったが失敗。安達義景にあずけられ、出家した(『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』、
https://kotobank.jp/word/藤原定員-1105971)。
「九条道家」
─1193─1252 鎌倉時代の公卿(くぎょう)。建久4年6月28日生まれ。九条良経(よしつね)の子。母は一条能保(よしやす)の娘(源頼朝の姪(めい))。元久2年従三位。左大臣にすすみ、承久(じょうきゅう)3年摂政、氏長者となるが、承久の乱で辞任。子の頼経(よりつね)が4代将軍となり、岳父西園寺公経(さいおんじ-きんつね)の引き立てで復権。安貞2年関白、ついで摂政。出家後も実権をにぎるが、頼経、孫の頼嗣(よりつぐ)(5代将軍)が執権北条時頼により鎌倉からおわれ、失脚。従一位。建長4年2月21日死去。60歳。通称は光明峯寺殿。法名は行慧。日記に「玉蘂(ぎょくずい)」。(『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』、https://kotobank.jp/word/九条道家-16454)。
「鷹司兼平」
─没年:永仁2.8.8(1294.8.30)生年:安貞2(1228)鎌倉中期の公卿。五摂家のひとつ鷹司家の祖(家名は京都鷹司室町に邸宅があったことによる)。父は関白近衛家実、母は従二位藤原忠行の娘。10歳で元服して正五位下右近衛少将に任官。翌年には1年のうちに4度も昇進して従二位権大納言兼右近衛大将になった。このあと内・右・左大臣を経て、建長4(1252)年、兄近衛兼経のあとをうけて25歳の若さで摂政、氏長者となる。前年12月鎌倉で謀反計画が発覚し、鎌倉幕府将軍藤原頼嗣は更迭された。頼嗣の祖父九条道家はこの報を聞いて急死し、右大臣九条忠家も事件への関与を理由に辞任させられた。ライバルである九条家が没落すると近衛家の力は相対的に増大した。近衛家の正嫡ではない兼平が氏長者の座を手中にできたのはこのことと無縁ではない。弘長1(1261)年にいったん官を辞すが、文永5(1268)年から同10年までは嫡子基忠を摂関の地位に据え、建治1(1275)年には再び自ら摂政、氏長者となって弘安10(1287)年までその任にあった。合計すると23年もの間、摂政、関白の地位を独占していたわけで、きわめて珍しい事例である。九条家の凋落が甚しかったこと、近衛本家の基平(兼平の甥)が早世したことも見逃せないが、兼平自身が処世の術にたけた人物だったのだろう。このころの朝政の実権は上皇のもとにあったが、兼平は建治年間から弘安初年にかけて、亀山上皇をさしおいて政務をみたこともあったようだ。ただしそれは何ら新味のないもので、やがて亀山上皇の勢力が台頭するとともに兼平の発言権は失われていく。正応3(1290)年に出家、法名覚理。称念院殿と称される。朝政を主導した最後の摂関であった(『朝日日本歴史人物事典』、https://kotobank.jp/word/鷹司兼平-1087370)。
「最尊」─延暦寺僧か(天福元年五月十二日条『民経記』7─68)。
*今回の史料は、将軍九条頼経の近臣藤原定員の息子に関する自殺情報で、彼は執権北条時頼討伐の証拠を焼き捨て、自殺したと噂されていました。実のところ、この情報はガセだったのですが、この史料から、以下の2点が指摘できます。
1つ目は、謀略の証拠が露見するのを防ぐという目的動機によって自殺を遂げることがある、という認識が、当時の社会にはできあがっていたと見なせることです。拷問され続けると、耐えられずに口を割ってしまう。それを防ぐためには命を絶つしかない。このような考えのもとに自殺を遂げた、と考えられていたのではないでしょうか。私はこれを、「隠蔽目的の自殺」と名づけておきます。
2つ目は、この自殺の噂に対して、記主近衛兼経は「賢明である」と評価していることです。兼経は将軍頼経とは義兄弟の関係にあるので、頼経に不利になる証拠を焼却して自殺した、定員の子の行動を称賛したのでしょう。であるならば、兼経は定員の子の「生物的な生命」よりも、隠蔽で守られるかもしれない頼経の「政治・社会的な寿命」、つまり、頼経の「地位や権勢などの安定した継続」のほうを、価値が高いと見なしていたことになります。かりに、定員の子が本当に自殺していたなら、彼自身も自分の「生物的な生命」よりも、他者(頼経)の「政治的・社会的な生命」を優先したことになります。自己のかけがえのない生物的生命をかけて、他者の政治・社会的生命を守る。それほど昔ではない時期に、国政の中枢あたりで聞いたことのあるような話ではないでしょうか。
「政治・社会的な生命」という、所詮「言葉」でつくられた移ろいやすい価値観や関係性よりも、失えば二度と取り戻すことのできない「生物的な生命」のほうを、価値が低いと「言葉」で論理的に判断してしまう。価値観・慣習などが相当なスピードで変わり続けている現代に生きていると、「政治・社会的な生命」を過度に重視する(執着しすぎる)ことが、適切な身の処し方だとは到底思えません。