周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自殺の中世史2─10 〜逃避目的の自殺〜

  文永二年(一二六五)五月二十一・二十五・二十九日条

      (「文永二年中臣祐賢記」『増補續史料大成 春日社記録』1─431)

 

 廿一日、御神事如例、

   (中略)

 一今日、巳剋、山僧光玄於南都水門、爲六波羅沙汰被搦取了、自殺云々、但未死去

                   教玄(堯賢ノ誤ヵ)

  也、妻子相共ニ即令上洛畢、水門ニハ隆忍房宿所也、此光玄ハ三井寺燒失并大内

  ニ付火スル張本也、

  件隆忍房之房主ハ不可令失給之由武士等令申寺家之間、即隆忍房ヲハ被召籠寺家

  云々、後にハ里公文所に被置之、

 一廿五日、光玄僧都六波羅家死去云々、

 一晦日廿九日、隆忍房堯賢、依被召参洛六波羅家、於寺家御沙汰兵士ヲ被具之、

 

 「書き下し文」

 二十一日、御神事例のごとし、

   (中略)

 一つ、今日、巳の剋、山僧光玄南都水門に於いて、六波羅の沙汰として搦め取られ了んぬ、自殺すと云々、但し未だ死去せざるなり、妻子相共に即ち上洛せしめ畢んぬ、水門には隆忍房堯賢の宿所なり、此の光玄は三井寺焼失并びに大内に付火する張本なり、

  件の隆忍房の房主は失せしめ給ふべからざるの由武士ら寺家に申さしむるの間、即ち隆忍房をば寺家に召し籠めらると云々、後には里公文所に之を置かる、

 一つ、二十五日、光玄僧都六波羅家に於いて死去すと云々、

 一つ、晦日二十九日、隆忍房堯賢、召さるるにより六波羅家に参洛す、寺家の御沙汰に於いて兵士を具せらる、

 

 「解釈」

 二十一日、御神事はいつものように執行された。

   (中略)

 一つ、今日、巳の刻、延暦寺僧光玄が、奈良の水門で六波羅探題の命令として捕縛された。光玄は自殺したそうだ。ただし、まだ死んでいないのである。すぐに妻子を一緒に上洛させた。水門には隆忍房堯賢の屋敷がある。この光玄は三井寺大内裏に放火した犯人である。

  この隆忍房の房主は逃亡させなさってはならない、と武士らは興福寺に申し上げたので、すぐに隆忍房を寺家に閉じこめなさったという。後で里の公文所に隆忍房を移した。

 一つ、二十五日、光玄僧都六波羅探題で死去したそうだ。

 一つ、晦日二十九日、隆忍房堯賢はお呼び出しによって六波羅探題に参上した。寺家のご命令で護送の兵士を添えられた。

 

 「注釈」

「寺家」

 ─当時の興福寺別当は、大乗院門跡円実(澤田頌悟「興福寺別当次第表」『大乗院寺社雑事記研究論集』第5巻、和泉書院、2016年)。

 

「水門」

 ─現奈良市水門町。東大寺境内南西の一隅にあり、当初の伽藍院坊の旧地にあたる奈良町外辺の村で「奈良坊目拙解」は「東大寺領、各年貢地」とし、東水門町・南水門町・西水門町・北水門町の四カ所に人家があり、一郷をなすと記す。康治二年(1143)六月二十八日の重誉房地田地配分状(大東急文庫所蔵文書)は、国分門の北脇の楞伽院という東大寺子院の敷地を信尊・姉子・尊珍に分与した文書であるが、 ここに水門川の名が見える。安貞二年(1228)六月七日の尼蓮阿弥陀仏屋等譲状には、「スイモムノチノケム」、すなわち水門の地の券とある。中世は東大寺七郷のうちであったと思われる。

 「奈良坊目拙解」によれば、当地は永禄十年(1567)十月十日の松永久秀による兵火、寛永十九年(1642)一月二十七日の大火でことごとく焼失し、のち在家が復活、八幡宮神職・衆徒・楽人・工匠らが居住した。元禄二年(1689)の家数三十一、竈数五十八。さらに同書によれば東大寺南面の築地坤方から寺内へ水門を構えて吉城川を引いたから水門村と称した。この流れは戒壇院前で西に曲がり手掻・押上・従弟橋(いとくいばし)に出る。また白蛇川が八幡山御供所から東大寺西南院の北、新禅院門前に至り、西の水門川に落ち合う。また一流が西塔屋敷北竜王宮の前を流れ、尼橋の北で落ち合い三流が水門村内にあるという(『奈良県の地名』)。

 

「里公文所

 ─稲葉伸道氏によると、公文所興福寺の運営・大和支配における実務を担った役所で、具体的には、①行事の費用調達の命令、②造営用途の賦課、③検断権の行使、④所領相論の裁許などの役割を果たしていました。ただ、この公文所と「里公文所」の関係は不明だそうです(「興福寺政所系列の組織と機能」『中世寺院の権力構造』岩波書店、1997年、200〜204頁・213頁の注(36))。

 

 

*今回の記事は、放火犯である延暦寺僧光玄が、六波羅探題の役人に捕らえられ、自殺したというものでした。放火犯は斬罪に処されることになっていますが、死刑という苦痛から逃れるために、自ら命を絶ったと考えられます(逃避目的の自殺)。