周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

中村儀三郎氏所蔵文書1

解題

 中村家は、代々、醤油醸造や塩浜の経営をしていた。明治初めに下市村(竹原市竹原町)戸長などをつとめている。

 

 

    一 毛利輝元書状(切紙)   ○以下二通、東大影写本ニヨル

 

           (小早川)

 急度申入候、明後日廿六隆景乗舟候条、無御油御渡海肝要候、仍動方角之

     (恵瓊) (羽柴秀吉            (摩)

 儀、以安国寺羽筑申候間、至上伊予新居宇广郡諸勢差渡候、隆景

 陣所へ早々一人被差出、可仰談事肝心候、恐々謹言、

      天正十三年)          右馬頭

       五月廿四日           輝元(花押)

         (隆通)

       山内新左衛門殿 御宿所

 

 「書き下し文」

 急度申し入れ候ふ、明後日二十六隆景乗舟し候ふ条、御油断無く御渡海肝要に候ふ、仍て動もすれば方角の儀、安国寺を以て羽筑より申され候ふ間、上伊予の新居・宇摩郡に至り諸勢を差し渡し候へ、隆景の陣所へ早々に一人差し出され、仰せ談ぜらるべき事肝心に候ふ、恐々謹言、

 

 「注釈」

 急いで申し入れます。明後日二十六日に小早川隆景が乗舟しますことについて、あなた様(山内隆通)もご油断なくご渡海になることが大切です。そこで、何かにつけて、侵攻の方角の件については、安国寺恵瓊を使者にして羽柴筑前守秀吉から申されますので、伊予国東部の新居郡・宇摩郡に上陸し、軍勢を派遣してください。隆景の陣所へ早々に一人を差し出し、ご相談になるべきことが大切です。以上、謹んで申し上げます。

 

 「注釈」

「山内隆通」─1530〜1586(享禄三〜天正十四)(聟法師・少輔四郎・法名

       雲玄鶴居士)備後の国人領主山内首藤氏の庶家多賀山(たかのやま)通

       続の嫡男。本家山内氏を継ぐ。はじめ尼子氏の麾下にあったが、天正

       十二年(1553)、宍戸隆家の仲介で毛利元就支配下に入った。天

       正十四年(1586)十月十五日死去(『戦国人名辞典』新人物往来

       社)。

「至上伊予〜差渡候」─書き下し文・解釈ともによくわかりません。