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安芸国楽音寺

 『安芸国楽音寺 ─楽音寺縁起絵巻と楽音寺文書の全貌─』

                     (広島県立歴史博物館、1996)

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

「楽音寺の歴史」

 《沼田庄と沼田氏》

 楽音寺は、真言宗御室仁和寺派の寺院〔応永年間(1394〜1428)頃以前は天台宗であったという〕で、現在の広島県豊田郡本郷町南方に位置する。このあたりは、平安時代から蓮華王院領の沼田庄が存在していたところで、沼田庄の開発領主であり、この地域の有力者であった沼田氏が、天慶年間(938〜47)頃に当時を氏寺として創建したとされている。また、この地域には梅木平(ばいきひら)古墳(広島県史跡・七世紀初頭前後)、貞丸古墳(広島県史跡・七世紀中頃)などの巨大な古墳があることからも、早くから開けていたことが推察される。

 沼田庄の本家である京都の蓮華王院は、後白河法皇の発願により、長寛二年(1164)に平清盛によって造営された寺院である。沼田庄の立荘の経緯等については詳細な資料はないが、平安時代末期頃に沼田氏の平氏への寄進を媒介にして成立したと推定される。

 鎌倉時代には、沼田庄は本庄と新庄とに分かれていたが、耕作田地面積が460町余りに及ぶ広大な荘園であった。本庄は、現在の豊田郡本郷町を中心として、三原市西南部と竹原市東南部、新庄は、現在の賀茂郡河内町・大和町豊栄町域と竹原市域に散在する。

 ところで、沼田庄の開発を進めた沼田氏の始祖は、十世紀半ばに起きた藤原純友の乱を平定した藤原倫実(ともざね)で、その功績に対して沼田七郷が与えられ(「楽音寺縁起絵巻」)、このうち六郷を荘園化したものが沼田本庄と考えられている。沼田氏は、平家滅亡とともに没落したようで、その後を小早川氏が沼田庄地頭職として領有している。しかし、鎌倉時代になっても沼田庄の下級荘官である公文や、沼田氏氏寺の楽音寺の院主職には沼田氏の一族のものが就任していたと言われている。院主職は、文治三年(1187)以降、建武五年(1338)まで、「栄俊─仁光─宴海─隆憲─舜海─良承─頼賢」と継承されていることが知られている(「蟇沼(ひきぬ)寺文書」)。

 

 《沼田庄と小早川氏》

 鎌倉時代になって、沼田氏の後、沼田庄の年貢の徴収・土地の管理・治安維持などを職務とする地頭に補任されたのは、相模国土肥郷(とひごう・現在の神奈川県足柄下郡湯河原町)の土肥実平の子遠平である。これは実平の平氏追討の功績に拠るものとされる。遠平は小早川を名乗り、養子景平(信濃国平賀義信の子)がこの職を継いだ。景平は、まもなくその子茂平と季平に対して、本庄と新庄をそれぞれ相続させた。この頃、[建永元年(1206)頃]、小早川氏は沼田庄に本拠を置いて在地勢力として安定したようである。

 本庄を譲り受けた茂平は、沼田小早川家の祖となり、その所領の中核部分はほとんど分割されることなく代々伝えられた。なお、茂平は文永元年(1264)に没している。一方、季平は、新庄の中心の椋梨(現在の賀茂郡大和町)に拠点を置き、椋梨氏の祖となったが、新庄はその地理的状況による支配形態のあり方の違いなどから分割相続された。さらに、承久三年(1221)に起きた承久の乱の功績により得た都宇竹原庄(現在の竹原市)の地頭職は、正嘉二年(1258)に茂平の子政景に譲渡され、政景は竹原小早川家の祖となった。

 このように、沼田庄に関わった小早川氏は、概ね三勢力において戦国時代まで勢力を保っていたと言える。[「小早川家略系図」(11頁)参照]

 

 《小早川家と楽音寺》

 さて、小早川氏は楽音寺に対して、自らの氏寺として様々な恩恵や保護の手立てを加えている。これらを「楽音寺文書」から知ることができるが、詳細については後述する。

 鎌倉時代には、新たに開墾などによって拡張した名田を楽音寺に寄進したり、茂平の娘犬女(法名浄蓮・梨子羽郷地頭)が、楽音寺に三重宝塔を造営するためや塔修理のために自らの土地を寄進したりしている。南北朝時代には、梨子羽郷が南北に二分され、楽音寺の本寺・子院・寺領の大半は南方内にあり、その地頭職は竹原小早川氏に与えられた。そのため、楽音寺は室町時代に至るまで竹原小早川氏と深い関係を結ぶこととなる。仲義(好)による楽音寺院主職の安堵や寺の修理に対する恩恵や田畠等の寄進などがうかがわれる。一方、熙平(ひろひら)・興平・繁平・隆景など沼田小早川氏からも本拠高山城(国史跡)内にある楽音寺法持院管理の若宮八幡の田地に対する配慮がなされている。

 当時、楽音寺は沼田庄内の各寺院の先頭に立ち、多くの僧侶を擁し、地域内に与える影響力が大きかった。その背景には免田の所在があった。そこで領主は楽音寺を自己の支配下に置こうとしたのであろう。

 やがて、天文十三年(1544)に毛利元就の子隆景が竹原小早川氏の養子となり、同十九年には併せて沼田小早川氏の跡も継いでいるが、この頃から当地域は次第に毛利氏の勢力下に入っていった。

 

 《楽音寺の院主職》

 さて、楽音寺一切の寺務を司る院主職には、楽音寺建立以後法持院と中台院の両門主が交代でついていたとされる。

 法持院は梨子羽郷の南方、中台院は北方に対峙し、それぞれ九坊の子院をもっていた。この両門主の勢力争いは中世末期にかけて激しくなったようであるが、中台院は、天正年間(1573〜92)に三原城下に移り、法持院が単独で寺務に当たることとなった。また、法持院は、天和年間(1681〜84)には現在の本堂東隣りに移っている。(後略)

 

 《小早川家略系図

 

 土肥実平(〜1191)─小早川遠平(〜1237)─景平(〜1244)

  ─沼田小早川茂平(〜1264)①・・・

  ─沼田新庄季平─椋梨国平・・・

 

   ・・・茂平①─雅平(〜1298)②・・・

         ─犬女(法名浄蓮)

         ─政景(竹原小早川)③・・・

 

    ・・・雅平②─宣平(〜1369)─春平(〜1402)─・・・

     ・・・熙平(1472)─興平(1526)─・・・

      ・・・又鶴丸繁平(〜1574)─隆景

 

    ・・・(竹原)政景③・・・義春─仲義(好)─弘景(陽満)─盛景─・・・

     ・・・弘景─弘平─興景─隆景

 

 

「楽音寺文書」

 《楽音寺と小早川氏との関わり》

 建永年間(1206〜07)以降、楽音寺は、沼田氏にかわる地頭小早川氏の氏寺となった。小早川氏は、沼田庄に来住すると、沼田氏の氏寺であった楽音寺を自らの氏寺として受け継ぎ、保護することによってここに勢力を植え付けようとした。楽音寺を自らの勢力下におくのは、楽音寺の荘内に及ぼす影響力の大きさにあった。したがって、荘園領主と在地領主である地頭小早川氏のとの間には、楽音寺の支配権をめぐって攻防が展開された(〈1─3〉〈1─5〉)。

 沼田小早川氏の経済的基盤には、門田と荘園領主から職務の報酬として与えられた給田があった。門田は、在地領主が屋敷地の周りに設けた田地で、荘園領主から年貢が免除される免田として認められた完全な私領であった。それは吉野屋敷八町門田や梨子羽郷地頭門田などであった。ところで、梨子羽郷の地頭職は、正嘉二年(1258)頃には小早川茂平から娘の犬女(法名浄蓮)に譲られていた。浄蓮は、この八町余りの門田を中心に、周囲の田地を取り込んだり開墾するなどして、門田を拡張していった。ところが、文永八年(1271)の検注時から仁治・建長(1243・1252)の検注後にできた新門田十四町は、検注帳に載せて課税されるべき裁決が弘安十一年(1288)に出されている。ただし、もとの八町余りは、以前地頭小早川氏の私領として荘園領主の関与は許されなかった。こうして、楽音寺の氏寺としての地位が幕府からも認められ、小早川氏は浄蓮を通じて楽音寺の寺務に介入することとなった(〈1─2〉〈1─3〉〈1─4〉)。〈2─1〉〈2─2〉〈2─3〉によると、楽音寺のある梨子羽郷への小早川氏の在地領主化の進行、つまり、楽音寺の支配権の独占化に対し、荘園領主側はそれを牽制するため、弘安四年(1281)の正検(大検注)の際、新たに開墾によって拡張された名田を新燈油田として、そこから差し出される勘料を坪付を添えて楽音寺へ寄進し、僧乗戒の沙汰として祈祷するように申し入れている。これらは、小早川氏の楽音寺に対する恩典を示しているものであるが、この他、同様のものは、次の項目にまとめた。

 さらに、楽音寺と小早川氏との関わりを示すものとして、天文年間(1532〜55)頃に小早川隆景が楽音寺に対して、領主の使僧(外交僧)として度々遠国に出かけてもらっていることに感謝しているものなどがある(〈4─9〉)。

 

 《小早川氏から楽音寺への寄進》

 正応三年(1290)に、浄蓮が関東将軍家や自分たちの菩提を弔うため、楽音寺に三重塔の造営を志して、本門田一町をその助成田として寄進し(〈3─1〉)、翌年に寄進田畠の坪付を差し出している(〈3─2〉)。浄蓮は、さらに正応五年(1291)に一町を塔修理田として寄進している(〈3─3〉)。

 茂平の子忠茂の曽孫頼平も、元弘三年(1333)に楽音寺に対し、四季に大般若経を供養する法会を営む費用として、一町二反の免田を寄進している(〈3─4〉)。ちなみに頼平は、建武新政府の中央機関である武者所の一員に加わっている。

 南北朝時代になると、梨子羽郷は南北に二分され、竹原小早川氏はそのうち南方の地頭職を与えられたが、楽音寺の寺域や寺領の大半はその中にあったため、これ以降、楽音寺は竹原小早川氏と深い関係をもつことになる。竹原小早川氏一族仲義(好)は、楽音寺院主職の頼真と親交を結んでいた人物であるが、彼は、応永六年(1399)に楽音寺に対し修理料を寄進したり(〈2─6〉)、応永七年(1400)に頼真を、楽音寺が管理に当たっていた一宮豊田神社(現在の三原市納所(のうそ))の学頭職并びに供僧職につけ、これに付属する田畠・林などを寄進している。

 永享九年(1437)・同十一年(1439)。嘉吉二年(1442)には、小早川陽満(弘景・仲義の子)・盛景父子の協力を得て楽音寺が行なった結縁灌頂に対して諸役・諸公事の免除や田畠の寄進をしている(〈2─8・9・10〉)。なお、この結縁灌頂に対しては、永享十二年(1440)に沼田小早川氏の一員と思われる小早川熙景からも免田の寄進が見られる(〈3─6〉)。さらに、同年、陽満・盛景父子は、寺内十王堂の修理等に対する免田や(〈2─11〉)、釈迦堂の修理免を寄進している(〈2─12〉)。

 

 《小早川氏から楽音寺への安堵や諸役の免除など》

 応永七年(1400)、竹原小早川氏の奉行人と思われる祐明から、梨子羽郷南方内六町の山林が一宮豊田神社に返進されている。これはもともと、一宮に寄進されていたものであるが、収益が上がらなくなったので、奉行人が預かって植林して得分ができてきたので返進するというものである(〈3─5〉)。文安元年(1444)に沼田小早川熙平は、その本拠とする城内にある若宮八幡の田地に対して、今後も先例に任せて諸公事をかけないという確約を、若宮八幡の管理に当たっている楽音寺内法持院に与えている(〈4─8・10〉)。その後も、興平〔〈3─7〉(年未詳)〕、繁平〔〈3─9〉天文十七年(1548)〕、隆景〔〈3─10〉天文二十二年(1553)〕からも、同様のことが行なわれている。また〈1─12〉も若宮免田に関するものである。

 寛正五年(1464)に小早川弘景は、大内教弘に従って河野通春を討つために四国へ渡るが、これに際し楽音寺領から挑発される労役を寺からの申し出により、四国と回帰年の布施として免除している(〈4─11〉)。

 

 《楽音寺の歴史─楽音寺の僧侶と院主職─》

 楽音寺の僧侶の名前として楽音寺文書に初見されるのは、弘安四年(1281)〈2─1・3〉に見られる「戒乗」である。戒乗は、祈祷の沙汰(執行)を領家から申し入れられている。

 正応五年(1292)〈1─5〉に見られる「隆憲」は、院主職についている。院主とは、寺務一切を司る僧侶のことで、寺の総責任者ということになる。この文書は、地頭小早川氏が楽音寺の院主職隆憲を改易したことに対して、前預所(橘)朝嗣朝臣はこれを不当として幕府に訴えたが、小早川氏は関東下知状〈1─3〉によって楽音寺一切の支配権は地頭側にあるからこの改易は正当であるとしている。隆憲改易後、新院主についたのが「舜海」である。

 浄地房舜海の名は、正応三年(1290)〈3─1〉・正応五年(1292)〈3─3〉に見られ、楽音寺三重塔などの建立に際しての祈祷を浄蓮から申しつけられている。なお、この両名の名は、『蟇沼寺文書』にある元弘三年(1333)の「楽音寺院主良承申状」に添えられた寺務職相伝系図に見られる(7頁参照)。

 〈1─6〉に見られる「真道房」は院主代官職で、また、「法泉阿闍梨御房」は院主職についた賢海のことであろう。賢海の名も、先ほどの寺務職相伝系図に見られる。この文書では、浄蓮は、院主代官職として真道房を任じたことは承認するが、十二人の僧侶を置いて、寺内田畠をそれらの所当田に分割しようとしていることには難色を示し、また、楽音寺の修理に際してその費用の工面について、苦心していることを述べている。

 〈4─3〉は、永和五年(1379)に竹原小早川義春が楽音寺南方三分の二の院主職を、「観智」に対して安堵したものである。南方三分の二の院主職というのは、楽音寺院主職に付属している寺領の三分の二が、竹原小早川氏の所領梨子羽郷南方の中にあったことによるものである。

 至徳元年(1384)の〈4─4〉には「鏡賢」「頼真」の名が見られる。頼真は、観智・鏡賢の後を受けて楽音寺院主職となっているが、蟇沼寺(東禅寺)院主職や一宮学頭職をも兼任していた。頼真は、小早川義春の後を受けた小早川仲義(好)と親交を結んでおり、楽音寺文書のなかに仲義に関するものが八通ある。仲義は、頼真に対して、今後の楽音寺南方院主代官職は領主にことわることなく、院主が自由に決めてよいこと〔康応元年(1389)〈4─5〉〕、楽音寺院主職の継ぎ目の際に領主に出す安堵料は、今後差し出さなくてもよいこと〔明徳四年(1393)〈4─6〉〕、楽音寺の百姓軍役は、領内に大事が起きたときを除き、他国援助の際は免除すること〔応永元年(1394)〈4─7〉〕、楽音寺の臨時天役として課せられる段銭・棟別銭は、幕府からのもの以外は免除すること〔応永二年(1395)〈2─4〉〕、その他、前述した楽音寺に対する修理料所の寄進〔応永六年(1399)〈2─6〉〕、万雑公事の停止〔応永七年(1400)〈2─7〉〕など、数々の恩典を与えている。万雑公事とは、年中行事の費用や、地頭や召喚の直営地での労働などの雑税のことである。

 応永二十五年(1418)には、楽音寺の院主職が頼真から頼春に替わっている。「頼春」の名は、永享九年(1437)〈2─8〉、永享十一年(1439)〈2─10〉、永享十二年(1440)〈3─6〉などに見られる。

 以上が、楽音寺文書に見られる歴代院主職についた僧侶の名前である。

 さて、楽音寺の院主職には、梨子羽郷南方に位置した法持院と北方に位置した中台院がついていた。両者のもとには、それぞれ九坊の子院があった。両者は楽音寺建立当初から存在していたと言われているが、楽音寺文書において法持院の名が初見されるのは、文安元年(1444)〈4─10〉である。

 永正年間(1504〜20)頃には、両者の勢力争いが激しくなったようであり、双方がかかえる九坊のみならず、相手方の九坊まで以前は自分のもとにあったと言い争いが生じことに対して、小早川弘平はその裁定に苦しんで、双方に自分の抱えている坊には、何という者がいるのかを書面にて提出するように命じている〈1─8〉。また、慶長五年(1600)にも両者の僧侶が互いに争うので、毛利輝元から制止されている〈6─2〉。

 

 《楽音寺の歴史─その他─》

 天正十二年(1584)に京都・仁和寺門跡の任助法親王は、九州へ向かう途中で楽音寺に宿泊し、その時に受けた接待に対して礼状を送るとともに〈4─1〉、法持院の子院である金剛坊に院号を許している〈4─2〉。ちなみに、任助は同年、厳島の大聖院に滞留中に病死している。

 判物は、土地の領有を確定する最も重要な資産文書である。天文四年(1535)〈3─8〉は、小早川興景が法持院の領地について、天文十七年(1548)〈3─9〉は、小早川繁平が若宮経免について、天文二十二年(1553)〈3─10〉は、小早川隆景が若宮朝日田について、それぞれ判物を発給している。

 〈4─12〉は、天正十四年(1586)に常州常陸国・現在の茨城県)筑波根小田住の僧侶頼源が法持院に宛てた置文である。置文は、将来の恒久的規範として代々の者が遵守することを定めた文書である。

 

 《毛利氏と楽音寺》

 天文十三年(1544)に毛利元就の子隆景が竹原小早川家を継ぎ、同十九年(1550)には沼田小早川家を継いで両小早川家を統一した。こうして、沼田庄地域も次第に毛利氏の勢力下に入っていった。

 毛利輝元は、豊臣秀吉が全国を画一的な基準による石高制の確立をはかるために行なった検地の一環として、天正十八年(1590)から翌年にかけて領国内にて検地を行なっているが、これはあまり厳重なものではなく、天正十八年、毛利氏から楽音寺の仁王門内は守護不入の地として検地が免除されている〈1─11〉。また、翌年には寺の内外で百石の高付けを申し付けられている〈3─11・12〉。

 慶長五年(1600)には、毛利輝元から楽音寺に対して、小早川氏以来の先例に従った寄進も行われている〈6─1・2〉。

 さて、検地については、慶長元年(1596)から同五年(1600)にかけて、全領国内の本格的検地が行なわれているが、毛利氏の両国では丈量の単位が360歩=1段から300歩=1段となり、その下の単位に畝があらわれるのは、この慶長の検地からとされる。楽音寺には慶長元年(1596)の検地帳〈5─1〉と、在地の代官などが権利授与者に所領を引き渡す時に交付する打渡状〔慶長五年(1600)〈6─3〉〕がある。

 

 《蟇沼寺(東禅寺)に関するもの》

 楽音寺文書中には、楽音寺の南方に位置し、密接なつながりのあった蟇沼寺(東禅寺)に関するものもある。

 蟇沼寺と楽音寺が密接な関係にあったことは、正応五年(1292)〈1─5〉の文書中に見られる、「蟇沼寺事以同前」という記述から察することができる。また、前述したように、頼真は、楽音寺の院主職のみでなく、蟇沼寺院主職も兼任していた。

 蟇沼寺の寺領であった乃力名は、名田から、名主のいない間人名(もうどみょう・間田)になったが、宝治二年(1248)に、荘園での雑税とされる万雑公事を停止して、寺の修理に当たるように命じられている〈1─1〉。中世荘園制社会のもと、名田は、農村社会において指導的位置にあった名主が所有管理等するもので、一方、間田は、名主以外の階層の一つで、半隷属的位置にあった間人が耕作にあたっていたのである。

 また、応永元年(1394)には楽音寺とともに百姓軍役を免除したり〈4─7〉、同様に応永二年(1395)に臨時天役として課せられる段銭・棟別銭を免除したり〈2─4〉、応永五年(1398)には修理料所を寄進する〈2─5〉など、小早川仲義が当時に対して与えた恩典に関するものがある。

 

 《沼田庄地域の中世の産業を示すもの》

 楽音寺文書の中に、中世、沼田庄地域において存在した産業の一端を伺うことができる興味深いものがある。

 正応四年(1291)〈3─2〉には、「紙すき」「番匠」の記述が見られ、この地域に手工業に従事する人が存在し、在地領主らの需要に応じて働いたことが察せられる。また、正応五年(1292)〈3─3〉の「大工」とあるのも同様であろう。さらに、〈5─1・6─3〉にも「番匠」の記述が見られる。

 この他、応永七年(1400)〈3─5〉からは、伐採することを目的として、木を育てていたこともわかる。

 

 《その他》

 〈1─10〉は、巻数に対する小早川隆景の返事である。巻数とは、寺院において祈祷または護摩を行なった後に、その証拠を願主を示すために作成した文書のことで、これを受け取った願主は返事を出すのが慣例であった。

 この他、小早川隆景に関するものには、天正十四年(1586)に小田景盛へ宛てた書状がある〈4─13〉。

 〈4─14〉は、天正十四年に小田景盛が、平坂寺の僧侶宥忍に宛てた寄進状である。平坂寺は、もと豊田郡本郷町船木にあった真言宗の寺院で、楽音寺や蟇沼寺とも深いつながりをもっていた。また、小早川隆景の母の祈願所とされていたという。

 〈4─15〉は、中世末期に楽音寺が中心となって執行された、一宮神社の御修正会の役人定書だが、この儀式に平坂寺・円御堂・東禅寺など沼田庄内の寺院から役人が出ていることがわかる。この他、小早川弘平の書状〈1─7・9〉や、日名内慶岳が、竹原小早川氏の奉行河合四郎右衛門に宛てた書状がある〈1─13〉。