【史料1】
嘉元二年(1304)九月十三日条 (『実躬卿記』5─240頁)
(源師重) 〔堯ヵ〕
十三日、〈壬戌、〉晴、(中略)抑万里小路大納言持参権別当桑清法印状、備叡覧、
此事八幡大山崎神人致嗷訴之余、自去比閉籠社頭、閉三方楼門立籠、追出御殿司等之
間、常燈并不断大般若経退転云々、就公家・武家重々雖有其沙汰、都不承引、剰及放
火之企間、社務妙清法印今暁以人数搦取彼神人之処、両三人自殺云々、搦手少々被刃
傷、此上者社壇流血無異儀歟、然而於閉籠之神人者、悉召取云々、是又珍事歟、後
聞、社務此子細馳申、前検校尚清法印又申入、両方申詞参差、所詮於妙清者、無身咎
之次第言上之、至尚清者、揚社務之罪科者歟云々、
「書き下し文」
十三日、〈壬戌、〉晴る、(中略)抑も万里小路大納言権別当堯清法印の状を持参し、叡覧に備ふ、此の事八幡大山崎神人嗷訴を致すの余り、去んぬる比より社頭に閉籠す、三方の楼門を閉じ立て籠もり、御殿司らを追ひ出すの間、常燈并びに不断大般若経退転すと云々、公家・武家に就き重ねがさね其の沙汰有りと雖も、都て承引せず、剰へ放火の企てに及ぶの間、社務妙清法印今暁人数を以て彼の神人を搦め取るの処、両三人自殺すと云々、搦め手少々刃傷せらる、此の上は社壇流血異儀無きか、然れども閉籠の神人に於いては、悉く召し取ると云々、是れ又珍事か、後に聞く、社務此の子細を馳せ申す、前検校尚清も又申し入る、両方申す詞参差たり、所詮妙清に於いては、身に咎無きの次第之を言上す、尚清に至りては、社務の罪科を揚ぐる者かと云々、
「解釈」
十三日、〈壬戌、〉晴、(中略)さて、万里小路大納言源師重が石清水八幡宮権別当堯清法印の書状を持参し、後二条天皇のお目にかけた。これは石清水八幡宮大山崎神人が強訴に及んだ結果、この前から社殿に閉籠していた。三方の楼門を閉じて立て籠もり、御殿司らを追い出したので、常灯や不断大般若経のお勤めが中断したという。公家や武家がたびたび評議したが、神人らの要求をまったく聞き入れなかった。そのうえに、神人らは放火までも企てたので、社務の妙清法印が今日の明け方に手勢を遣わして彼らを捕縛したところ、二、三人は自殺したそうだ。捕り手は少々刃物で傷つけられた。このうえは、社壇に血が流れたことに異論はないだろう。だが、閉籠の神人については、すべて捕縛したという。これもまた一大事だろう。あとで聞いたことによると、社務妙清がこの経緯を急いで申し上げた。前検校尚清もまた申し入れた。両人が申した内容は矛盾している。結局のところ妙清については、自身に罪はないという理由を言上した。尚清に至っては、社務妙清の罪科を指摘したのだろうという。
「注釈」
「実躬卿記」
─三条実躬の日記。『愚林記』『貫弓記』『先人記』ともいう。実躬は公貫の男。弘安八年(1285)右近衛中将、永仁三年(1295)蔵人頭、同六年参議、正和五年(1316)権大納言となり、文保元年(1317)出家した。彼の日記は少なくとも弘安六年から延慶三年(1310)の間にわたって書き留められたと見られるが、まとまった記述の残る部分は弘安六年より徳治二年(1307)の間である。ただし中間に欠失部分がある。亀山・後深草・後宇多院による院政の時期の廷臣としての実躬の行動が記述されており、鎌倉時代末期の史料として重要である。自筆本は尊経閣文庫に二十三巻、宮内庁書陵部に一巻が蔵せられている。このほかに、昭和十八年(1943)冨山房刊行の『国史辞典』四『実躬卿記』に大阪市武田長兵衛所蔵の自筆本五十一巻が存する旨の報告と詳しい説明が載っているが、筆者はこの武田氏所蔵本を閲覧する機会を得ていない(『国史大辞典』)。
「堯清」
─四十八代別当田中堯清。文永十一年(1274)正月二日誕生。弘安五年(1282)二月十九日権別当補任。正中二年(1325)正月十一日入滅(「石清水祠官家系図」『石清水八幡宮史』首巻、続群書類従完成会、1939、25頁。『石清水八幡宮寺祠官系図』国文学研究資料館、
https://www2.dhii.jp/nijl/kanzo/iiif/200011976/images/200011976_00021.jpg)。
「御殿司」
─内殿・外殿の役人で、御神体に関わる仕事や、曼荼羅供の修法を練習して三所の祭神の神威を増し、法華経・最勝経を転読して、天長地久の御願を祈ることを仕事としている(「山上御殿司」『石清水八幡宮史』首巻、41頁。「御殿司舎」『石清水八幡宮史料叢書一 男山考古録』続群書類従完成会、1960、91頁)。
「妙清」
─四十代別当壇妙清。延応元年(1239)六月十一日誕生。永仁六年(1298)十二月社務還補。嘉元三年(1305)十月四日入滅(「石清水祠官家系図」『石清水八幡宮史』首巻、69頁。『石清水八幡宮寺祠官系図』国文学研究資料館、https://www2.dhii.jp/nijl/kanzo/iiif/200011976/images/200011976_00032.jpg)。伊藤清郎「石清水八幡宮」(『中世日本の国家と寺社』高志書院、2000、239頁図1等参照)。
「尚清」
─四二・四四代別当善法寺尚清。後嵯峨院皇胤。建長六年(1254)三月誕生。永仁三年(1295)閏二月二十一日社務・検校宣下。同六年(1298)十二月社務を辞退。元応二年(1320)十月六日入滅(「石清水祠官家系図」『石清水八幡宮史』首巻、4154頁。『石清水八幡宮寺祠官系図』国文学研究資料館、https://www2.dhii.jp/nijl/kanzo/iiif/200011976/images/200011976_00038.jpg)。前掲伊藤著書参照。
【史料2】
嘉元二年(1304)九月日付石清水八幡宮召捕神人交名
(「八幡宮寺縁事抄」『鎌倉遺文』29─21992、
『石清水八幡宮史』史料第四輯、890頁)
(閉)
社頭同籠神人悪党召捕交名
平三 中三 左衛門太郎〈以上三人、雖レ参二内殿一、不レ及二自」害一抜レ刀走出
候間、召捕了、〉
九郎 源三 源三郎 得一法師〈以上四人、無二」別子細一、召捕了、〉
助二郎 宗永〈於二後戸一切腹之間、即取退候処、」於二山下宿院谷辺一殞命
畢、〉
清三郎 宗吉〈於二外殿西御前大床一切腹、取出候後、」於二西鳥居外櫟木下一、
殞命了、〉
紀内〈於二内所一切腹、取出候後、於二」谷口坊前一殞命、〉
紀八 於二瑞籬西端一切腹、于レ今現存、
禅知法師〈於二外殿西御前大床下一切腹候間、取出候、〉
以上五人
(マヽ)
翁三弓及脱、於二外殿東狐戸内一、無二子細一搦二取之一、
(1304)
嘉元二年九月 日
○本事件は、九月十三日のことなり、
*割書とその改行は、〈 」 〉で記載しました。また、この史料は『鎌倉遺文』の表記を土台に、『石清水八幡宮史』の表記によって、読点や文字の一部を改めたところがあります。
「書き下し文」
社頭に閉籠する神人・悪党を召し捕る交名
平三 中三 左衛門太郎〈以上三人、内殿に参ると雖も、自害に及ばず刀を抜き走り出だし候ふ間、召し捕り了んぬ、〉
九郎 源三 源三郎 得一法師〈以上四人、別の子細無く、召し捕り了んぬ、〉
助二郎 宗永〈後戸に於いて切腹するの間、即ち取り退き候ふ処、山下宿院谷辺に於いて殞命し畢んぬ、〉
清三郎 宗吉〈外殿の西御前の大床に於いて切腹す、取り出だし候ふ後、西鳥居の外櫟の木の下に於いて、殞命し了んぬ、〉
紀内〈内所に於いて切腹す、取り出だし候ふ後、谷口坊の前に於いて殞命す、〉
紀八 瑞牆の西端に於いて切腹す、今に現存す、
禅知法師〈外殿の西御前の大床の下に於いて、切腹し候ふ間、取り出だし候ふ、〉
以上五人
(マヽ)
翁三弓及脱、外殿の東狐戸の内に於いて、子細無く之を搦め取る、
(1304)
嘉元二年九月 日
「解釈」
社殿に閉籠した神人・悪党を召し捕った交名。
平三・中三・左衛門太郎。〈以上三人は内殿に参上したが、自害はせず刀を抜いて走り出しましたので、捕縛しました。〉
九郎・源三・源三郎・得一法師。〈以上四人は特別な事情はなく召し捕った。〉
助二郎・宗永。〈本殿の後戸で切腹したので、すぐに運び出しましたが、山下の宿院の谷あたりで命を落とした。〉
清三郎・宗吉。〈外殿の西御前の大床で切腹した。彼らを取り出したのち、西の鳥居の外の櫟の木の下で、命を落とした〉
紀内。〈内殿(ヵ)で切腹した。彼を取り出しましたのち、谷口坊の前で命を落とした。〉
紀八。瑞垣の西端で切腹した。いま現在、生きている。
禅知法師。〈外殿の西御前の大床の下で切腹したので、彼を取り出した。〉
以上、命を落とした人間は、助二郎・宗永・清三郎・宗吉・紀内の五人である。
(解釈不能)。外殿の東の狐戸の内で、特別な事情もなく捕縛した。
【史料3】
嘉元二年(1304)九月日付石清水八幡宮社頭流血先例注進状
(「八幡宮寺縁事抄」『鎌倉遺文』29─21993、
『石清水八幡宮史』史料第四輯、891頁)
一 注進
当宮社頭流血先例事
(948)
天暦二年八月十三日、検校貞延与別当清昭、依執行之諍論、互方人致闘諍之間、及
社頭流血了、
(1244)
寛元二年十月一日、御節神事之時、俗別当兼盛与神官光資依口論、兼盛以笏敺破面
之間、外殿御前板敷并登階、令流血了、
(マヽ)
検校耀清時、勢田社司親類僧参籠当宮、於内廊西寄之辺自害、不殞命之以前雖引出
之、令流血云々、
(1259)
検校宮清時、正嘉三年正月十五日夜踏歌、神人被刃傷之間、令流血了、同宮清時、
(マヽ) (マ丶)
山上僧教暹法橋被時強盗、不知所被之疵、走上北門令内廊之間、及流血云々、
先年参詣之僧、於西経所前、令自害之間、雖取却之、令流血了、
右、大概注進如件、
(1304)
嘉元二年九月 日 〈瀧─時、依被尋下注進之、」按察僧都注進歟、〉
(崎ヵ) (嘉元二年九月十三日)
山路神人京都住人助二郎、於社頭自害之時也、
*割書とその改行は、〈 」 〉で記載しました。また、この史料は『鎌倉遺文』の表記を土台に、『石清水八幡宮史』の表記によって、読点や文字の一部を改めたところがあります。
「書き下し文」
一つ、注進す、
当宮社頭流血の先例の事
天暦二年八月十三日、検校貞延と別当清昭と、執行の諍論により、互いの方人闘諍致すの間、社頭流血に及び了んぬ、
寛元二年十月一日、御節神事の時、俗別当兼盛と神官光資と口論により、兼盛笏を以て面を敺ち破るの間、外殿御前の板敷并びに登階、流血せしめ了んぬ、
検校耀清の時、勢田社司(未考)の親類の僧当宮に参籠し、内廊西寄の辺りに於いて自害す、殞命せざるの以前に之を引き出だすと雖も、流血せしむと云々、
検校宮清の時、正嘉三年正月十五日の夜踏歌、神人刃傷せらるるの間、流血し了んぬ、同じく宮清の時、山上の僧教暹法橋「被時、強盗、」之疵を被る所を知らず、「走上北門令内廊之間」流血に及ぶと云々、
先年参詣の僧、西経所の前に於いて、自害せしむるの間、之を取り却くと雖も、流血せしめ了んぬ、
右、大概注進件のごとし、
嘉元二年九月 日 〈瀧─時、尋ね下さるるにより、之を注進す、按察僧都注進するか、〉
山路神人京都住人助二郎、社頭に於いて自害の時なり、
*「 」で記した箇所は、書き下すことができませんでした。
「解釈」
一つ、注進する。
当石清水八幡宮流血の先例のこと。
天暦二年(948)八月十三日、検校貞延と別当清昭との、執行をめぐる相論により、互いの味方が闘争したので、社殿に流血が広がった。
寛元二年(1244)十月一日の御節神事のとき、俗別当兼盛と神官光資とが口論に及んだことによって、兼盛が笏を用いて光資の顔面を叩き傷つけたので、外殿御前の板敷と登り階段に血が流れてしまった。
検校耀清のとき、勢田社司の親類の僧侶が当宮に参籠し、内殿の廊下の西側のあたりで自害した。命を落とす前にこの僧侶を引き出したが、血が流れたという。
検校宮清のとき、正嘉三年(1259)正月十五日の夜に踏歌神事が催行された。そのとき神人が刃物で傷つけられので、血が流れてしまった。同じく宮清のとき、山上の僧侶教暹法橋は強盗に遭った。傷つけられたところはわからない。北門に逃げ上がり、内殿の廊下に流血が広がったという。
先年参詣した僧侶が、西の経所の前で自害したので、その僧を運び出したが、血が流れてしまった。
右、注進する先例の大部分は、以上のとおりです。
嘉元二年(1304)九月 日 〈検校瀧清のときに、尋ね下されたことにより、これを注進した。按察僧都が注進したのだろう。〉
山路神人で京都住人の助二郎が社頭で自害したときである。
「注釈」
「貞延」
─三代検校。天慶八年(945)十一月四日検校。天暦二年(948)検校兼別当。同五年(951)十二月九日入滅、七十五歳(「石清水祠官家系図」『石清水八幡宮史』首巻、84頁。『石清水八幡宮寺祠官系図』国文学研究資料館、
https://www2.dhii.jp/nijl/kanzo/iiif/200011976/images/200011976_00057.jpg)。
「清昭」
─九代別当。天慶八年(945)十一月四日別当。応和三年(963)閏三月二十二日入滅(「石清水祠官家系図」『石清水八幡宮史』首巻、85頁。『石清水八幡宮寺祠官系図』国文学研究資料館、
https://www2.dhii.jp/nijl/kanzo/iiif/200011976/images/200011976_00057.jpg)。
「兼盛・光資」
─兼盛が光資を殴打した事件の詳細については、早川庄八「寛元二年の石清水八幡宮神殿汚穢事件」(『中世に生きる律令 ─言葉と事件をめぐって─』平凡社、1986年)を参照。
「瀧清」
─竹瀧清。正応5(1292)─建武3(1336)。四十五代別当竹良清の子(「石清水祠官家系図」『石清水八幡宮史』首巻、41頁。『石清水八幡宮寺祠官系図』国文学研究資料館、
https://www2.dhii.jp/nijl/kanzo/iiif/200011976/images/200011976_00027.jpg)。
「勢田社」
─未詳。尾張熱田社のことか。
「耀清」
─柳耀清。第三十七代別当。建長七年(1255)三月一日入滅、五十四歳(「石清水祠官家系図」『石清水八幡宮史』首巻、51頁。『石清水八幡宮寺祠官系図』国文学研究資料館、
https://www2.dhii.jp/nijl/kanzo/iiif/200011976/images/200011976_00053.jpg)。耀清の活動については、鍛代敏雄「鎌倉時代における石清水八幡宮寺祠官の印章―幸清・宗清・耀清―」『東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館年報』9、2018・6、
「宮清」
─善法寺宮清。三十八代別当、二十七代検校。建長七年(1255)九月三日検校。建治二年(1276)十月十二日入滅、五十一歳(「石清水祠官家系図」『石清水八幡宮史』首巻、54頁。『石清水八幡宮寺祠官系図』国文学研究資料館、
https://www2.dhii.jp/nijl/kanzo/iiif/200011976/images/200011976_00037.jpg)。前掲鍛代論文参照。
「山路」
─『鎌倉遺文』は「山路」、『石清水八幡宮史』と小西瑞恵氏は「山崎」の誤記と考えています(「都市大山崎の歴史的位置」『大阪樟蔭女子大学学芸学部論集』39、2002・3、62・63頁、https://osaka-shoin.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1729&item_no=1&page_id=3&block_id=24)。【史料1】にも「大山崎神人」と記されているので、「山路」ではないと考えられますが、念のため、以下に「大山崎」と「山路郷」の説明を、それぞれ提示しておきます。
「大山崎」
─現乙訓郡大山崎町字大山崎。天王山と、淀川に至る南・東南山麓一帯に位置する。古代以来、村のやや西寄りで山城国と摂津国に分かれ、河川など自然の境界はない。長岡京の造営以来、長岡京・平安京と西国とを結ぶ水陸交通の要地。山崎村ともいう。
「日本書紀」白雉四年是歳条に「是に由りて、天皇、恨みて国位を捨りたまはむと欲して、宮を山碕の宮をつくらせたという。ただし天皇は実際に山崎に移ることなく、翌年没した。一方、大山崎の名称は、貞応元年(1222)十二月十七日付六波羅下知状(離宮八幡宮文書)に「八幡宮寺大山崎神人」と見える。その後とも地名は山崎だが、神人は大山崎神人を通称とし、大山崎もやがて地名となった。また平安前期、嵯峨天皇はしばしば山崎に遊び、漢詩を賦して山崎を河陽(かや)と称したので、河陽は山崎の別名として用いられた。
天平十三年(741)の東大寺奴婢帳(東南院文書)には「乙訓郡山埼里」が所見し、乙訓郡条里の南端にあたり、山崎は里名に用いられた。淀川に架ける橋は「行基年譜」に現れ、次いで長岡京造営とともに朝廷によって架橋・管理された。平安時代に入って山崎駅が置かれ、山崎津は長岡京・平安京の外港となった。一方、山崎関も置かれたが、大宝律以来、関の場所は摂津国とされ、山崎駅が史料に現れる弘仁初年にはすでに廃絶していた。
橋・津・駅の所在によって山崎の集落はしだいに賑いを見せ、斉衡二年(855)には火事で300余家を焼いたという(文徳実録)。そのなかには商家も多かったと思われ山崎は流通の一拠点をなした。「信貴山縁起」や「宇治拾遺物語」巻八に描かれる山崎長者は、そうした繁栄のなかから生まれた。だが平安中期から後期にかけて、京都の外港として淀(現京都市伏見区)が開発されるに及び、山崎の歴史は変わった。そして住人たちは、対岸男山にある石清水八幡宮(現八幡市)の神人身分を取得して、灯油を中心に商業活動を展開するに至る。大山崎神人の活動が史料に登場するのは貞応元年だが、しかし当時すでに美濃国まで商圏を拡大しており、以後室町時代を最盛期に、九州から東海地方に営業独占権をもって活躍し、京都に進出して居住する者も多かった。
白鳳期の瓦が出土する山崎廃寺のあと、宝積寺・相応寺・成恩寺など、天王山南麓の地に寺院の建立が相次ぎ、南北朝時代には山崎出身の禅僧友山士偲が地蔵寺を開創した。このように寺院が多いのも山崎の大きな特色で、江戸時代前期にも、寺庵を含めて実に五十九院に達する。
南北朝時代に天王山に築城されて以後、山崎や天王山は軍事上の要衝としてしばしば合戦が行なわれ、また軍隊の駐屯もあった。とくに応仁の乱以後は戦火に巻き込まれることが多く、そのため油商人のなかには商売をやめて逐電するものもあったが(「大乗院寺社雑事記」文明二年六月二十四日条)、一方、武士として合戦に参加するものもあり、応仁の乱には「大山崎住人中」「山崎地下衆中」などとして感状や軍勢催促状を受けている(離宮八幡宮文書)。
文明三年(1472)を史料の初見として、「大山崎惣中」が登場する(同文書)。神人はこれまでにも商業の座としての組織をもち、また山崎は神領として保の制度がとられていたが、戦乱の激化とともに新たな自治組織を結成したものであろう。神人以外の住人をも参加させる組織であったかもしれない。惣中として、町政や町の自衛に当たったほか、合戦にも参加した。同年には惣中として紀伊国和佐庄(現和歌山市)を兵糧料として与えられたのをはじめ、細川澄元・同高国らから感状を受け、また禁制や徳政免除の特権なども受けている(同文書)。この間も荏胡麻油売買の特権に関しては神人として文書を交付されており、山崎は惣中と神人の二重の組織を有した。なお惣中の団結の紐帯は天王山に祀られている地主神天神八王子社の信仰にあり、宮座を結成してその祭礼を盛大に行なっている。一方、神人の側にも、石清水八幡宮とは別に山崎の地にも離宮八幡宮の社殿が造営され、しだいに大きくなっていったようである。
永禄十一年(1568)十二月、大山崎惣中は次の前文のもとに175名の連署状を作成している(同文書)。
今度大乱ニ付、惣中御賄依不相調、各御斟酌、尤無余儀候、此分ニ候ハ者、在所可為滅亡候、今一度被成御出、可被相続候、就惣中御要脚之儀者、如何様之儀雖被仰出候、老若一味同心申、馳走可申候、若被及異儀仁躰於在之者、縦雖為親類縁類、不顧其前、末代絶傍輩可申候、両社も御照覧候へ、更不可有相違者也、仍連署如件、
永禄十一年十二月といえば、足利義昭を奉じて上洛した織田信長が山崎を駆け抜けて摂津池田まで進んだ直後にあたる。信長は町場であった山崎にも過大な矢銭をかけ、惣中は解体の危機に瀕し、この連署になった。このあと信長は山崎を直轄地にして代官を配し、惣中も名称は残るものの変質を余儀なくされた。天正十年(1582)の明智光秀・羽柴秀吉による山崎合戦は天王山の戦いとして人口に膾炙するが、事実は天王山の争奪戦は行なわれていない。山崎合戦ののち、秀吉は約一年山崎城に在城し、彼自身による天下統一の第一歩を踏み出し、山崎を城下町として経営しようとしたが、翌年には大阪に移った(攻略)(「大山崎」『京都府の地名』平凡社)。
「山路郷」
─現八幡市八幡。八幡内四郷の一。北は常盤郷、西は放生川、南は放生川を境として金振郷、東は沼地で定かでないが、東西に長い郷域であった。郷内には山路町・壇所町・森之町が属した。石清水八幡宮領。
山路郷と常盤郷との境界についての近世末の「男山考古録」は、「安居橋の通り道より北は常盤郷、南は山路郷也」、山路郷は「安居橋東の道通りより南、放生川上流の北岸」と記し、安居橋筋より北の柴座町も市場町も常盤郷とする。ところが柴座町の北に位置する近世の常盤郷田中町を例として「天正二年安居頭人補任に山路郷田中と記せり、按にドンドの辻子ハ安居橋の通り也、此処より北は常盤郷、南は山路郷なり、依て此境限を誤りたる也」と記す。安居橋筋を郷境とするこの説は江戸時代のことかと思われる。享禄五年(1532)七月の安居頭人の名に「山路郷住人市庭大西」とある(「安居頭人記」男山考古録所引)ことからすれば、江戸時代以前の郷境は安居橋筋より一筋北の高橋筋と考えるのが妥当である。そのため高橋筋南側の田中町も江戸時代以前は山路郷であったと考えられる。
安居橋筋までの常盤道は山路郷で大道となり、さらに南進して金振郷境の放生川に架かる買屋橋へ至る(「山路郷」『京都府の地名』平凡社)。
【史料4】
嘉元二年(1304)十月五日条 (『実躬卿記』5─279頁)
五日、〈甲申、〉晴、(中略)
○底本、以下藤原実任ノ奉ル仰詞ヲ続グ、
(別筆、折紙)
「宗永男以下悪徒、閉籠石清水社壇、致濫行之間、血気満神殿、所々覃破損、為遂行
更衣神事、且造替汚穢登階畢、此上准延久三年例、来十一日差遣 勅使、可被修造
〔使脱ヵ〕
内外殿、神慮難測、宸襟不聊、仍被発遣奉幣被謝申之由、令載 宣命、
(以下折裏)
放生会仲秋依天下之穢気延引、季秋依社頭之濫行延引、然而遥温天暦之古風、択定玄
律之望日、雖小忽祭祀、尽恐連懇誠、殊可祈謝之由、宜載辞別、
「書き下し文」
五日、〈甲申、〉晴、(中略)
「宗永男以下悪徒、石清水社壇に閉籠し、濫行致すの間、血気神殿に満ち、所々破損に覃ぶ、更衣神事を遂行せんがため、且つがつ汚穢の登階を造替し畢んぬ、此の上延久三年の例に准じ、来たる十一日に勅使を差し遣はし、内外殿を修造せらるべし、神慮測り難く、宸襟無聊たり、仍て奉幣使を発遣せられ謝し申さるるの由、宣命に載せしめよ、
放生会仲秋天下の穢気により延引し、季秋社頭の濫行により延引す、然れども遥か天暦の古風を温ね、玄律の望日を択び定む、小忽の祭祀と雖も、恐連懇誠を尽くし、殊に祈謝すべきの由、宜しく辞別に載すべし、
「解釈」
五日、〈甲申、〉晴、(中略)
「宗永以下の悪党が石清水八幡宮の社壇に閉じ籠もり、乱暴な振る舞いをしたので、血が神殿に広がり、所々が破損した。更衣神事を遂行しようとするために、早くも血で穢れた昇り階段を造り替えた。このうえは、延久三年(1071)の先例に従い、来たる十月十一日に勅使を派遣し、内殿・外殿も修造するべきである。神の御心は推し量りがたく、天皇の御心は晴れない。そこで、奉幣使を派遣し神に祈謝し申し上げることを、宣命に書き載せよ。
八月の放生会は天下の穢気により延引し、九月は社頭での乱行によって延引した。しかし、はるか昔、村上天皇治世の古い慣例を調べ、十二月十五日を選定した。取るに足りない祭祀であっても、畏敬の念をもち真心を込めて、とくに祈謝するべきである、と宣命に載せるのがよい。
「注釈」
「延久三年例」
─石清水八幡宮の修理造営の先例(『石清水八幡宮史』史料第一輯、171〜175頁。土田充義「石清水八幡宮本殿について」『日本建築学会論文報告集』201、1972・11、
https://www.jstage.jst.go.jp/article/aijsaxx/201/0/201_KJ00003921992/_article/-char/ja/)。
石清水八幡宮参道(馬場先)
南総門
本殿