周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

マジョリティーの限界とマイノリティーの可能性 part2

 三橋順子「性と愛のはざま ─近代的ジェンダーセクシュアリティ観を疑う─」

           (『岩波講座 日本の思想』第5巻、岩波書店、2013年9月)

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

P120

 インド文化圏にはヒジュラ(Hijra)と呼ばれる人たちがいる。インターセックス(Inter Sex)、もしくはM t F(Male to Female 男から女へ)の性別越境者(Transgender)の集団で、古くから神への奉仕者、芸能者として固有の社会的役割を担ってきた(石川、1995)。ヒジュラに「あなたたちは男か女か?」と問うと「自分たちはヒジュラだ」と答えるように、サード・ジェンダー(Third Gender)的な存在である。ヒジュラのようなサード・ジェンダーは、前近代ではヨーロッパを除く世界各地で見られ、数こそ少ないがかなり普遍性を持つ存在だった(石井、2003)。そうした人たちを念頭に置くと、ジェンダーを単純に男女二分する考え方は揺らいでくる。

 

P121

 そもそも、私のような特異なケースを論じるべきではないという考え方もある。「お前のような変態は論議に値しない」ということだ。実はこうした意見は、きわめて近代的な考え方である。私のように性別があいまいな人間、あるいは男性なのに男性と、女性なのに女性と性愛関係をもつ人などを、近代の精神医学は「変態性欲」(Sexual Perversion)と規定し精神病者として一般社会から排除してきた。こうした非典型な「性」をもつ人たちを「変態性慾」として病理化する考え方は19世紀後半のヨーロッパに始まり、日本には明治時代後期に移入され、大正〜昭和初期に通俗性科学の流行とともに一般社会に広まったまさに近代の思想だった。

 「変態性慾」はその後も「異常性欲(Abnormal Sexuality)」「性倒錯(Perversion)」と名称を変えながら精神疾患概念として受け継がれ、同性愛が世界保健機構の国際疫病分類から削除され精神疾患でなくなったのはようやく1993年のことだった。しかし、性自認(Gender Identity)と身体の性にズレがあり、生得的な性別とは別の性を生きたいと考える人は、いまだに性同一性障害(Gender Identity Disorder)という精神疾患概念で捉えられている。日本で性同一性障害概念が広まるのは1990年代末以降なので新しい進歩的な概念のように思う人も多いが、性別の移行を病理として捉える点で19世紀的な発想を引きずった古い考え方である。だからこそ、現在、欧米を中心に当事者たちが性別以降の脱病理化を目指す運動を繰り広げているのだ。

 つまり、おそらく人類のどの時代、どの地域にもほぼ一定の割合で普遍的に存在したと思われる非典型な「性」をもつ人たち(同性愛者、性別越境者など)を、どのように認識し、社会の中に位置づけるかは、「文化」の問題である。「文化」が時代や地域によってかなり異なる様相を見せることは言うまでもない。そうであるならば、近代の産物であり現代に受け継がれた男女二元システムと、異性愛をメジャーなものとし同性愛をマイナーなものとして対置させるセクシュアリティ観もまた一つの「文化」的所産である。

   (中略)

 人は身近なものほど普遍的なものと考えがちだ。だから、現代人は、前近代の人も自分たちと同じような確固とした男女二分の性別観をもち、同じように異性愛をノーマルとし同性愛をアブノーマルと考えていたと思いがちだ。いや、ほとんどの人がそうだったと疑っていない。もちろん変わらないもの、変わったようでも根本的に伝統を引きずっているもの、さまざまである。ただ、変わっていないと決めつけるのは学問的ではないし危険であると思う。本稿では、現代日本を生きるトランスジェンダーであり、「性」の歴史を研究している私の視点から、そうした近・現代のジェンダーセクシュアリティに対する思い込みを疑ってみようと思う。

 

P124

 ところで、「たけのこを 喰って大人の 仲間入り」という江戸時代中頃の川柳がある。竹の子を食べて少年が大人になる、ということだが、何も成人儀礼にたけのこの煮付けが出てくるわけではない。ここで竹の子というのは、少年のペニスのことで、二つの意味が隠されている。まず、少年の包茎状態のペニスが竹の子の先端の形に似ているという形態的な類似。それから、竹の子は少し成長すると硬くなって食べられなくなるのと同様に、少年も薹が立つと、美味しくなくなるという比喩。

 この川柳の意味は、少年を食べる、つまり能動的な男色を経験して初めて一人前の大人になるということだ。そして大人になると、遊郭に行って女色の世界を体験するか、あるいは結婚して妻とセックスをして子どもをつくるという生殖の世界に入っていく。

 つまり、前近代の日本人が男色体験を一種の通過儀礼と認識していたことがわかる。一人の男性が人生のある段階では男色で、成人してから女色ということはしばしばあり得たし、「邸内遊園図屏風」の世界のように男色と女色の世界を行き来することも珍しいことではなかった。男色も女色も一つの性経験であって、固定したセクシュアリティではない。セクシュアリティがその人の属性としてしっかり固定されているものとして、同性愛者、異性愛者という対置的な区分をする近代的な考え方とは、かなり異なるセクシュアリティ観が見て取れる。

 

P126

 従来の歌舞伎研究では、遊女歌舞伎から若衆歌舞伎へという流れを、歌舞伎の担い手が女性から少年(男性)へと変化したと捉え、それに応じて、観客の男性の視線もヘテロセクシュアリティからホモセクシュアリティ的なものに転換したと考えてきた。

 私は、それは違うと思う。そもそも遊女歌舞伎の全盛は1610─20年代で、1629年に禁令が出た。それに変わった若衆歌舞伎の全盛は1630─40年代で、1652年に禁止された。長く見ても40年くらい、短く見ると10年か15年ぐらいの差しかない。そんな短い期間に世の中の男たち(観衆)の性愛感がヘテロセクシュアリティからホモセクシュアリティに一斉に転換するなど、まったくもって不自然だ。

 先ほど述べたように、遊女歌舞伎と若衆歌舞伎の見かけはすごく似ている。私はこの見かけが似ている、ほとんど同じだということをもっと重視すべきだと思う。遊女歌舞伎にしても若衆歌舞伎にしても観客の目に映っている姿はほとんど同じなのだ。ところが近代的な発想では、遊女歌舞伎は女性であり、若衆歌舞伎は男性で、身体の性が違うから異なる存在であるということになる。目に映っているものにまったく正直でない認識だ。

 同じように見えるものが同じに思えないというのは、近代以降、私たちが衣服などで装われた見かけは虚飾であり、そうした虚飾を取り払った身体にこそ本質があると教えられ、そう信じてしまったからに他ならない。そうした身体本質主義は、やがて男女の別は性染色体がXY(男性型)かXX(女性型)かによって決定されるという近代科学の成果によって裏付けが与えられる。

 

 →視覚認識は文化(言語)認識。近世びとは遊女と若衆を明確に区別する文化ではなかった可能性がある。両者の境は明確ではなく、性的対象としての男と女のグレーゾーンだったのかもしれない。前近代は、衣装に性差を感じていたのか。

 

P127

 世の中には、外観が女性で、性器の形態も女性そっくりでも性染色体がXY型なら「そいつは男だ」と考える人がいる。自らの眼に映るものよりも性染色体の形を重んじる、身体本質主義がさらに「進化」した性染色体本質主義だ。私は、こういうタイプの男性を「性染色体と寝る男たち」と言っているが、これはまさに近代人の発想である。

 性染色体などというものを知らない前近代の日本人が、そうした身体本質主義的な発想をもっていたとは私には思えない。江戸時代の言葉に「男なり」「女なり」という和語がある。男の恰好をしている、女の外観をしているという意味だ。「男粧」「女粧」のように表記するが、「なり」には「為」「成」「形」「態」などの字もあてる。「女形」も「女なり」である。「人となり(為人)」が生来の性質、人柄という意味であることを思うと、どうも前近代の人は身体よりも衣服をまとった状態である「なり」を重視していたのではないだろうか。つまり、同じように見えたら同じということだ。少なくとも、同じように見えたら似た種類(カテゴリ)ということだと思う。

 

 →前近代の人々は見た目で判断する、視覚情報重視主義ということになるか。ただ、現代も視覚情報重視主義者が多い。しかし、見ているものが違う。前近代は服装を注視しているが、近代以降は服で覆われていない、露出されている顔や、服を透視しその奥に見える体自体を注視しているのか。前近代には身体本質主義などなかったから、トランスジェンダーで苦しむ人もいなかったのかもしれない。やはり、近代的なシェーマが優れているとは限らない。

 →「性染色体と寝る男たち」とは言い得て妙。人間は体でセックスをしているように思えて、実はそうではないのかもしれない。特に、快楽目的のセックスの場合。「性染色体」「容姿」「身体のパーツ」「性格」「夫婦・ステディー・不倫などの関係性」「身分や地位、学歴」「職業」「収入」「年齢」「シチュエーション」…といった「記号・概念」に興奮し、性行為に及んでいるだけではないか。所詮はフェティシズム。どれに興奮するかは個人の嗜好によるのだろうが、どれが正常というわけでもなく、どれを選んでも等しく変態であることに変わりはない。坂田登「セクシュアリティのエチカ(2)」(『福井大学教育地域科学部紀要』Ⅴ(哲学編)、47、2007、https://karin21.flib.u-fukui.ac.jp/repo/BD00001818_001_cover._?key=WMYQRY)とセットで読むと、よく分かる。

 

P128

 図3の遊女と図4の若衆は同じように見える。「なり」を重視する前近代の発想からすれば、遊女と若衆はよく似た種類(カテゴリー)ということになる。つまり、川(境界)の同じ岸にいる存在ということではないだろうか。それでは、川の向こう岸には誰がいるのだろう?

 それは、「大人」であると思う。「大人」とは、社会成員としてのいろいろな義務(租税、労役など)を負う人たちである。前近代の日本社会では「大人」のほとんどは男性だったので、「大人」=「一人前の男」というイメージになる。それに対して「大人(男)」ではない者として、女、若衆(少年)、娘(少女)、子ども、さらに翁、嫗などが考えられる。身体的には男性であってもまだ一人前でない少年や、隠居(リタイア)した翁は、「大人(男)」から外れる存在である。

 つまり、社会成員として義務を負う「大人(男)」と、それ以外の人たちという二つの括りで捉えられる。ただし、女については、既婚か未婚かで社会的なポジションがかなり異なる。既婚の女性は妻・妾として「大人(男)」に随伴する存在であり、時には「大人(男)」を代行する場合もある。また「大人(男)」ではない者の中で、子ども、翁、嫗には性的なイメージは希薄だから、ジェンダーセクシュアリティのカテゴリーとして「大人(男)」に対置されるのは、未婚の女(娘)と若衆(少年)ということになる。

   (中略)

 しかし、江戸時代の文献を読んでいると、やはり若衆はジェンダー的に男ではない。たとえば藤本箕山『色道大鏡』(1673─81年頃)巻二)には「前髪を落し、男に成より、物ごとに改れば、是より格定まる」とある。若衆は元服に際して、前髪を落とし、月代を剃り、髪の結い方、衣装の模様、袖の裄丈、帯、羽織、腰の物に至るまで装いを改める。つまり、若衆の外観は男とは大きく異なり、元服して初めて「男に成る」のであり、ゆえに若衆は男ではないことにある。

 

P130

 「大人(男)」と「大人(男)でない者(娘・若衆など)」とが、大きな川(境界の比喩表現)を挟んで対置している。娘と若衆は似ている存在だが、まったく同じではないから、その間には小川(小さな境界の比喩)が流れている、そんなイメージだ。やはり、川の流れ方は現代とは異なっていたのだ。

 「大人(男)」から出る性的指向の矢印が川(境界)を越えて女(娘)に向かうのが女色、「大人(男)」から川を越えて若衆に向かうのが男色ということになる。両者は川を越えるという点で同じである。川を越えるということは同類ではないということだから、「大人(男)」と若衆の関係は同類同士のホモセクシュアルにはならない。また娘と若衆との関係も似て非なる者同士なのでホモセクシュアルにはならない。

   (中略)

 ホモセクシュアルになる可能性があるとすれば川の同じ側の「大人(男)」同士の関係である。果たしてそういう関係性はあり得ただろうか。少し考えてみよう。

   (中略)

 日本の前近代の男色文化の最大の特性は年齢階梯制という仕組みにある。年齢階梯制を伴う男色とは「年長者と年少者という絶対的な区分にのっとった」関係であり、「能動の側としての年長者と受動の側としての年少者という役割が厳格に決められている」点に特徴がある(古川、1996)。

   (中略)

 年長=能動、年少=受動という役割は厳格なもので、逆転することは稀だった。

 ところが、稚児が成長し剃髪して僧侶になり、年少の少年が成長し年長になり、あるいは元服によって「大人(男)」になると、今度は能動の側に回り、年少者を犯す役割になる。こうして男色の精神と肛門性交の技術が継承され、男色文化とそのシステムの永続性が保たれていた。

   (中略)

 つまり、若衆は元服すれば川を渡って「大人(男)」の側にやってくる。そうなると川を越えての関係である男色は成り立たなくなる。

 ついでに言えば、娘も結婚すれば川を渡ってきて「大人(男)」に随伴する存在になるので、女色の対象から外れることになる。

 日本の前近代社会では、どうも川の同じ側同士の性的関係は社会的禁忌(タブー)だったようだ。こちら側に渡ってきて特定の「大人(男)」の随伴者になった(妻・妾)と関係をもてば「不義」として厳しい社会的制裁の対象になったし、「大人(男)」同士の関係も社会システムとして存在しない。もちろん個々の事例としては存在した。例えば平安時代末期の最高級貴族である左大臣藤原頼長は年齢階梯制に依らない「大人(男)」同士の性愛関係を複数の貴族・武士・従者などともち、その様子を日記『台記』にあからさまに記している。

 

P133

 (少年(若衆)が髻を結うようになる)その時期は不明だが、女性の結髪より若衆の結い髪の方が早いのは確かだと思う。束ね髪から結い髪へという変化は、若衆が先行し女性がその後追いをした可能性が高い。

   (中略)

 つまり、のちの時代に「女髻」と呼ばれる髪型は、もともとは若衆の髪型だった(金沢、1961)。

 次に、服装である。若衆が着ている大振袖は今でこそ若い(未婚の)女性の晴れ着というイメージが固定しているが、江戸時代初期に振袖を着ているのはもっぱら若衆だった。桃山時代から江戸前期のファッションを詳細に研究した森理恵は、振袖の模様や着装方法には若衆と娘の区別がほとんどなかったことを明らかにしている(森、2007)。ここでも若衆と娘の互換性が強い。

   (中略)

 安土桃山時代から江戸時代前期に起こったファッションの変化は、若衆のファッションをまず遊女たちが真似て、それを娘たちが取り入れたという形で理解すべきだと思う。つまり、若衆が女装していたのではなく、娘たちが若衆装を真似ていったのだ。娘と若衆の姿が似ているのは娘の若衆装化の結果と考えるべきだと思う。

 

P135

 同様なことは中世社会の稚児と白拍子の関係についても言える。(中略)日本古代・中世のセクシュアリティ史研究の泰斗である滝川政次郎は、白拍子は男装でなく少年もしくは稚児模倣だったと指摘している(滝川、1963)。私も男装、女装とは別に少年装の一種として稚児装を設定し、白拍子は娘による稚児装として理解すべきだと思う。

 白拍子セクシュアリティ的にも興味深い存在だ。出家後の平清盛白拍子の妓王・妓女や仏御前を寵愛するが、清盛入道は男装の女性を抱いているのではなく、女性器をもった稚児を抱いていたのだと思う。当時、出家の入道が女性と性的関係をもつことは基本的にタブーだったが、稚児との関係は許容されていた。そこに稚児装の娘である白拍子の需要があったのではないだろうか。

 

P137

 実は、南西諸島の女装の巫人(奄美大島名瀬市のユタ)のように(ジェンダー的に男でもあり女でもある双性(Double Gender)的特性をもつ人たちが神と人とを媒介するシャーマンとして宗教的職能をもつ事例は、インドのヒジュラアメリカ先住民社会のベルダーシュ(Berdarche)をはじめとして、世界各地で見られる(石川、1995、石井、2003)。

 こうした双性的特性をもつことが、通常の人間とは異なる特異な能力を持つ源泉と理解され、通常の人間ではないことから神により近い人として「神性」を帯び聖視されるという考え方を、私は「双性原理」と名付けた(三橋、2008)。男でもあり女でもあること、つまりジェンダーが重なることが、ある種のパワーを生み、社会的にプラスに評価されるのである。ちなみに、男でもなく女でもない無性はおそらく何のパワーも生まない。

 

 →現代人は、トランスジェンダーの人々の「神性」を恐れ、差別しているのではないか。

 

P139

 また、古代衣服制研究の第一人者である武田佐知子は、邪馬台国の女王卑弥呼奈良時代の女帝孝謙天皇が男装した可能性が高いことを指摘している(武田、1998)。

 

 →ひょっとすると、男性天皇が女装してパワーをもつような神事や儀式があったのではないか。本当は現在もあるのではないか。詳細な儀礼研究が、その意味でも必要ではないか。民俗儀礼や神事をその視点で分析してみると、新しいものが見えてくるのではないか。

 

P140

 近代的な男女二元概念では、女装は女になること、男装は男になることと理解され、対極的な目的をもつ行為として認識されている。しかし、前近代の「双性原理」では、女装も男装も双性になるという点では同じ目的を持った行為であり、男性が女装した結果としての双性も、女性が男装した結果としての双性も、社会的にほぼ等しい機能を持っていたと思われる。具体的に言えば、女装の男巫も男装の女巫もともに双性の巫人であり、その社会的職能に変わりはないのだ。

   (中略)

 このように双性的な人たちは社会のなかで「聖」なる存在として畏敬・畏怖されていた。畏敬と畏怖は表裏一体であり、「畏れ」は「怖れ」や「恐れ」となり容易に社会的な排除に転化する。そして社会的に排除された双性的な人たちは、社会的に差別される「賤」なる存在になりかねない。「聖」と「賤」もまた表裏一体なのである。

 インドのヒジュラは、日常的には賤しい存在として社会的に差別されている。しかし、双性の神であるシヴァの祭の時だけは、ヒジュラはシヴァの分身として聖なる存在になる。長年、ヒジュラを撮影しているカメラマン石川武志の作品に、日頃、ヒジュラを排除・差別している人が、祭礼の日、ヒジュラの足元に五体投地して祝福を授かろうとする写真がある。「双性原理」における「聖」と「賤」は必ずしも固定されたものではなく、時に劇的に逆転もするのだ。

 近代社会における双性的な人への蔑視・差別は、こうした「聖」と「賤」の二面性の「聖」の部分が隠蔽され、「賤」の部分だけが固定化したものに他ならない。

 

 →近代の科学的思考が「聖」性を除去してしまった。

 

P141

 明和5年(1768)の江戸には9箇所55軒の陰間茶屋があり、232人の陰間がいた。この人数は、現代の東京のニューハーフ(商業的トランスジェンダー)のセックスワーカーよりはるかに多い。江戸中期の男色の盛行がうかがえる。

 陰間茶屋は寛政の改革で減少し、天保の改革で全面禁止になった。

 明治6年6月13日に布告された「改定律例」で、「鶏姦」、要するに肛門性交(アナル・セックス )が禁止された。これは男色行為の抑制を意図していた。しかも量刑は懲役90日だった。

 

P143

 『旧約聖書』には同性間の背的関係や異性装の禁忌が明確に記されている。したがって、キリスト教徒にとって同性間の性的関係や異性装は明らかな背教行為(宗教犯罪)である。またキリスト教では、生殖につながらない性行為は基本的にすべてタブーとされた。欧米並みの文明国化を急ぐ明治政府による異性装禁止や男色行為の抑圧が、そうしたキリスト教倫理観におもねる側面があったことは間違いない。

 

P144

 江戸時代のセクシュアリティは、女色にしろ男色にしろ、概念的に生殖と結びつかない世界だった。遊女は(実際はともかく)子供を産まないことになっているし、男色ではいくら性行為を重ねても絶対に子供は生まれない。生産力の向上が緩やかで、経済的に外国から閉ざされた社会だった江戸時代はそれでもよかった。

 しかし、富国強兵・殖産興業を国家目標にした明治政府はそれでは困る。強兵のための兵士、興業のための労働者を増やすことがと求められ、人口増やす必要があったからだ。そのためには、セクシュアリティを生殖に直結しなければならない。具体的には、男女のカップルをどんどん作り婚姻を奨励し、夫婦間に次々に子どもを生ませ、人口の増加がはかられた。実際、明治中期以降、婚姻率・出生率は大きく上昇したと思われ、乳幼児死亡率の低下と相まって近代日本は強兵・興業の基礎になる急激な人口増加に成功する。その一方で、生殖(人口増加)に結びつかない男色は抑圧され、女色の担い手だった遊女への賤視が強まっていった。

   (中略)

 明治期に新たに形成され「国民」に押し付けられた性的規範とは、「あいまいな性」を認めず男女厳格に二分し、男性を優位に女性を劣位とするミソジニー(女性性嫌悪)を伴う男女二元のジェンダー観であり、同性間の性的関係を強く忌避し、聖愛と生殖を直結させる異性愛絶対のセクシュアリティ観であった。

 

P145

 明治末期から大正期になると、同性間の性欲や異性装を禁忌とするキリスト教文化に基盤を置く西欧(主にドイツ)の精神医学が日本に導入される。その結果、伝統的な男色文化や異性装の担い手は、「変態性慾」として位置づけられる。「同性愛」という言葉は、そうした「変態性慾」概念の導入の過程で造られた言葉(造語)であり、前近代の日本には存在しない概念だった。

 さらに、昭和初期に入ると、同性愛をはじめとする性よくの「異常」を「変態性慾」と規定し、善良な社会に悪影響を与える病理という観点で論じる通俗的な「性科学」が大流行する。これによって「変態性慾」概念が一般に広く流布され、同性愛者・異性装者に対する差別意識に「科学的」根拠が与えられ、社会的抑圧がいっそう強化されていった。

 こうして「変態性慾」の持ち主として精神病視・社会病理化された同性愛者や異性装者たちは、社会の表面からまったく排除され、アンダーグラウンド化せざるを得なくなった。たった百年たらず、日本社会のジェンダーセクシュアリティ観は激変してしまったのである。

 

 →通時的に性愛を眺めると、「異性愛・生殖目的性行為だけが正統だ」とする考え方は、相当に「異常」であることがわかる。性の厳格な区別や快楽目的の性行為こそが正統だとは言わないまでも、異性愛と同性愛、生殖目的性行為と快楽目的性行為が併存している状態こそが、「人間の」性の王道であったのではないか。

 

P146

 また、男性優位の社会の中で、ようやく異議申し立てをするまでになってきた女性たち、とりわけフェミニストは、女対男という二元的な枠組みを前提に男性に挑もうとする。したがって、フェミニストもまた「あいまいな性」の人の社会進出により性別が多元化して、男女二元的な対決構造が崩れることを嫌う傾向がある。

 

 →フェミニストフェミニズムに対する違和感はこれだった!

 

 また、近代のセクシュアリティの特質である異性愛絶対主義に意を唱えるゲイ・レズビアンの人たちも、シスジェンダー(Cisgender 性自認と身体的性別が一致している状態)であることを前提に異性愛対同性愛という二元対立構造をとる。その結果、そうした二元的構造にそぐわないバイセクシュアル(両性愛)やトランスジェンダーセクシュアリティは阻害されがちになってしまう。

 さらに、性別越境を病理化した性同一性障害という概念も男女二元システムに立脚し、「あいまいな性」をもつ人を「精神疾患」とし、それを「治療」することによって男女どちらかに帰属させる、性別二元システムへの回収装置としての役割をもっている。「あいまいな性」の人たちの存在を認めるのではなく、「治療」によって存在を無化することで、男女二元システムの安定化がはかられる(三橋、2006)。したがって、「あいまいな性」のままでもよいと考えるトランスジェンダーは、性別二元システムへの回収を拒否するものとして阻害され差別されることになる(三橋、2010)。

 性別二元化システムの近代社会の中で抑圧されつづけた同性愛者や性別越境者ですら二元論になってしまうように、近・現代社会の「性」において二元化の圧力は極めて強い。二元化圧力を緩めて、多様化・多元化の方向に「性」の社会認識をもっていくことは容易なことではない。

 このように明治以降の近代化によって築かれた日本社会の男女二元システムは極めて堅牢であり、どこから攻めてもちょっとやそっとでは揺らぎそうもない。

 しかし、私には、そうした日本社会のシステムが現在いろいろな面で硬直化し行き詰まっているように思える。何も江戸時代を賛美し、そこに帰れと言っているわけではない。それは無理だし無意味なことだ。ただ、前近代の日本がもっていた柔軟なジェンダー観を、もう一度、思い出してみてはどうだろうか。それはきっと、人間の「性」の多様性を必然的なものとして承認し、性的マジョリティと性的マイノリティが豊かに共生できる社会を気づくためのヒントになると思う。

 

 →近現代の閉塞感を打ち破り、課題を解決していくには、マジョリティの発想や価値観ではなく、マイノリティの発想や価値観でものを考えていかなければならないのかもしれない。伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書)から受けた印象も同じ。

 →現在の社会システムが男女二元システムで作り上げられている以上、そこから外れる人々は苦痛を強いられる。それゆえに、「性」に対する執着心強くなってしまい、自己の「性」の確立にこだわってしまうのではないか。男、女、ゲイ、レズ、バイ、異性装者など、さまざまな定義を作って、それぞれの存在を確立する。LGBTQIA…。定義はまだまだ増えるのだろう。現代は、こうした定義を作り、性の多様性を認知する段階なのかもしれない。言葉によって、本来区分不可能な性の世界を弁別し、性とは本来複雑で多様であることを理解できるようにしている段階なのかもしれない。だが、言葉は必ずその存在を縛るようになる。「男」「女」という二元論的区分が、「男」を縛り、「女」を縛り、「それ以外の性」を縛ったように。言葉と定義が増加しつくした先にあるのは、今以上の束縛感だけかもしれない。やはり、いずれはその言葉を捨てることになるのだろう。そのうち、M(male)F(female)+LGBTQIA…という区別など、どうでもよくなるのではないのか。このように見てくると、「性」の問題とは肉体的な問題ではなく、精神的・社会的・文化的問題のことだけを指していると言える。「言葉」がなければ、「性」で悩むことはない。そもそも、われわれはいつまで「性」に囚われて生きていかなければならないのか。いったい、いくつまで男や女、それ以外の性をやってなきゃいけないのか。何歳になったら、性を離れた人間になることができるのか。結局、そんなことはできないのか。

 →人間は若いときには性に執着してしまう。これは生物的(生殖的)にしようのないことかもしれないが、ある程度年齢を重ねると、いちいち男だとか女だとかを考えずに生きていることが多くなる。男女二元システム的考えがゼロになることはないし、考え方の隅々にそのシステムの影響・残骸がしつこく染み付いているかもしれないが、それでも若いときほど、意識はしない。「性欲」からリタイアしつつある、あるいはリタイアした人間(翁・嫗)こそが、性の世界から相手にもされない、真のマイノリティかもしれない。人間、常に性を前面に押し出して生活しているわけでもないだろう。性に対する執着がほとんどない人々、つまり年寄りの生き方や価値観をもっと学んでもいいのではないか。ほとんど下半身でものを考えなくなった人々のように、性への執着心を捨て、言葉による区別・差別を捨て、あるがままを受け入れる。やはり、維摩経の考えが楽でいい。男装していてXX染色体をもつバイの人間が、女装していてXY染色体をもつゲイの人間を好きになったという恋バナを、男装していてXY染色体をもつ異性愛者や、女装していてXX染色体をもつ異性愛者、男装していてXX染色体をもつレズなどの友人に、当たり前のように相談できる。そんな世界はいつ実現するのか。