【史料1】
応安四(一三七一)年四月九日条 (『後愚昧記』2─32頁)
(三善廣衡) 〔率〕
九日、(中略)良證語曰、八幡宮神人閉籠之間、社務卒勇士押寄之処、件閉籠神人
等切腹之間、神殿・神宝以下悉触穢了、希代事候也云々、
【史料2】
応安四(一三七一)年五月十九日条 (『後愚昧記』2─40〜43頁)
十九日、今日於新院殿上、八幡宮触穢事、有諸卿評定、
(中略)
当宮悪党人等乱入事、所司等解状〈副具」書、〉進覧之、得御意可有御披露候
哉、恐々謹言、
四月十日 法印梁清
(坊城俊任)
謹上 蔵人弁殿
八幡宮寺所司等申
〔故〕
今月五日中村□越中房尚恵部類悪党人等乱入社頭間事、
副進
交名注文 雖令先進、重備進之、
右、去五日未刻悪党人等令乱入社頭之時、南門警固社務梁清坊坊人等相防之処、自
〔祐カ〕
西門令乱入、走入中御前神殿、令放火于所々、已燃付御簾之間、院祝法眼捨身命
〔祐カ〕
打消之処、忽被殺害了、依院祝之忠節属静謐之条、社務梁清坊之高名也、争無抽賞
之御沙汰哉、将又悪党等乱入之刻、火事出来之間、奉移御躰於若宮神殿之由、
御殿司等申之、判官景吉并諸祠官坊人等一同欲搦捕之処、悪党等失為方、於中御前
艮角切腹了、御殿前之妻戸者、放生会之時出御之間、依有其恐、放御後之壁板、即
取退之後、壁板如元致沙汰畢、於板敷者、懸鉇洗之、致御祓、成清浄之儀、全昼夜
之勤行者也、且神宝御几丁以下」有破損之子細間、任傍例、先奉入西御前、移
(二年九月)
放生会下院御坐奉入之、八日仏生会神事以下遂行之畢、且嘉元年中、大山崎神人
(壇) (壇)
助次郎令閉籠社頭、〔致〕濫吹之間、社務妙清法印〈崇清曽」祖父、〉欲召取之間、
於西御前正殿、数輩令自害了、近者延文五年、社務曩清〈曾清」本師、〉之時、
駒形神人牛瀬実阿弥於社頭内殿被討取之畢、委細追可言上、若挿日比之宿意、有
掠申之輩者、無楚忽之儀、可被経御沙汰者也、於武家有抽賞之沙汰、公家之御沙汰
有何滞哉、仍且言上如件、
応安四年卯月 日 所司等上
注進 悪党人等交名
合
五郎越中房舎弟、 坊池弥五郎宗隆次男、
巽左衛門三郎入道真阿弥〈越中房」従父兄弟、〉 助三郎〈越中房」烏帽子々、〉
岡部入道〈越中房」若党、〉 竹田住人〈一人者号石見房、」一人者不知名字、〉
右、皆以雖非神人、令乱入社頭畢、此外雖有数輩、不知名字之間、且注進如件、
応安四年卯月五日
「書き下し文」
【史料1】
九日、(中略)良證語りて曰く、八幡宮神人閉籠するの間、社務勇士を率ゐて押し寄するの処、件の閉籠神人ら切腹するの間、神殿・神宝以下悉く触穢し了んぬ、希代の事に候ふなりと云々、
【史料2】
十九日、今日新院殿上に於いて、八幡宮触穢の事、諸卿評定有り、
(中略)
当宮悪党人ら乱入の事、所司らの解状〈具書を副ふ、〉進覧す、御意を得御披露有るべく候ふや、恐々謹言、
四月十日 法印梁清
謹上 蔵人弁殿
八幡宮寺所司ら申す
今月五日中村故越中房尚恵部類の悪党人ら社頭に乱入する間の事、
副へ進らす
交名注文 先に進らせしむと雖も、重ねて之を備へ進らす
右、去んぬる五日未の刻悪党人ら社頭に乱入せしむるの時、南門を警固する社務梁清坊の坊人ら之を相防ぐ処、西門より乱入せしめ、中御前の神殿に走り入り、所々に放火せしむ、已に御簾に燃え付くの間、院祐法眼身命を捨て打ち消すの処、忽ち殺害せられ了んぬ、院祐の忠節により静謐なるの条、社務梁清坊の高名なり、争でか抽賞の御沙汰無からんや、将又悪党ら乱入の刻、火事出来するの間、御体を若宮の神殿に移し奉るの由、御殿司ら之を申す、判官景吉并びに諸祠官の坊人ら一同に搦め捕らんと欲するの処、悪党等為方を失ひ、中御前の艮の角に於いて切腹し了んぬ、御殿の前の妻戸は、放生会の時に出御するの間、其の恐れ有るにより、御後ろの壁板を放ち、即ち取り退くの後、壁板元のごとく沙汰致し畢んぬ、板敷に於いては、鉇を懸け之を洗ひ、御祓を致し、清浄に成すの儀、昼夜の勤行を全うする者なり、且つ神宝・御几帳以下破損の子細有るの間、傍例に任せ、先ず西御前に入れ奉り、放生会の下院の御座に之を移し入れ奉る、八日の仏生会神事以下之を遂行し畢んぬ、且つ嘉元年中、大山崎神人助次郎社頭に閉籠せしめ、濫吹致すの間、社務妙清法印〈崇清の曽祖父〉召し取らんと欲するの間、西御前の正殿に於いて、数輩自害せしめ了んぬ、近きは延文五年(1360)、社務曩清〈曾清の本師、〉の時、駒形神人牛瀬の実阿弥社頭内殿に於いて之を討ち取られ畢んぬ、委細追つて言上すべし、若し日比の宿意を挿し、掠め申すの輩有らば、楚忽の儀無く、御沙汰を経らるべき者なり、武家に於いて抽賞の沙汰有り、公家の御沙汰何の滞り有らんや、仍て且つがつ言上件のごとし、
応安四年卯月 日 所司等上
注進す 悪党人等交名
合わせて
五郎越中房舎弟、 坊池弥五郎宗隆次男、
巽左衛門三郎入道真阿弥〈越中房従父兄弟、〉 助三郎〈越中房烏帽子々、〉
岡部入道〈越中房若党、〉 竹田住人〈一人は石見房と号し、一人は名字を知らず、〉
右、皆以て神人に非ずと雖も、社頭に乱入せしめ畢んぬ、此の外数輩有りと雖も、名字を知らざるの間、且つがつ注進件のごとし、
応安四年卯月五日
「解釈」
【史料1】
九日、(中略)良證が語っていうには、八幡宮神人が神殿に閉籠したので、社務が勇士を率いて攻め寄せたところ、その閉籠していた神人らが切腹したので、神殿・神宝などすべて触穢になってしまった。思いも寄らないことでありますという。
【史料2】
十九日、今日新院後光厳上皇の殿上の間において、石清水八幡宮の触穢の件で、多くの公卿による評定が行なわれた。
(中略)
当八幡宮に悪党人らが乱入した件について、証拠書類を添えた所司らの訴状をご覧に入れます。後光厳院のお考えを伺い、それをご披露になるのがよいでしょう。以上、謹んで申し上げます。
四月十日 法印梁清
謹上 蔵人弁坊城俊任殿
八幡宮所司らが申し上げる、今月四月五日中村故越中房尚恵の仲間の悪党人らが社殿に乱入したこと。
交名注文を添えて進上する。先に進上させましたが、重ねがさね用意して進上する。
右、去る四月五日未の刻に悪党人らが社殿付近に乱入したとき、南門の警護をしていた社務梁清坊に奉公している僧侶たちがこれを防いだが、西門から乱入し、中御前の神殿に走り入り、あちこちに放火した。すでに御簾に燃えついていたので、院祐法眼が命がけで火を消していたところ、またたくまに殺害されてしまった。院祐の忠節によってこの一件が治まったことは、社務梁清坊の高名である。どうして彼の功績をお称えにならないのか、いやお称えになるべきである。また、悪党らが乱入したとき、火事が起きたので、御神体を若宮の神殿に移し申し上げたことを、御殿司らが申し上げた。判官の景吉と諸祠官の坊人らがみな捕縛しようとしたところ、悪党らはどうすればよいのかわからなくなり、中御前の神殿の北東の角で切腹した。御殿の前の妻戸は、放生会のときに御神体がお出ましになるので、触穢の恐れがあることにより、後ろの壁板を外して、すぐに取り除いたのちに、新たな壁板を元のように据え付けた。板敷については、やりがんなを掛けてこれを洗い、お祓いをして清浄にすることを、昼夜を問わず勤めたのである。さらに、神宝の御几帳以下は破損したという事情があるので、先例のとおりに、まず西御前の神殿にそれらを入れ申し上げ、放生会で使用する下院の御座に移し入れ申し上げた。八日の仏生会神事以下を遂行した。今回の事件に加え、嘉元二年(1304)九月に大山崎神人助次郎が社頭に閉じ籠もり、狼藉を働いたので、社務妙清法印〈壇崇清の曽祖父〉が召し捕ろうとしたところ、西御前の本殿で数人が自害した。近いところでは、延文五年(1360)社務平等王院曩清〈曾清の師匠〉のとき、駒形神人牛瀬の実阿弥が内殿で討ち取られた。詳細は後ほど申し上げるつもりだ。もし普段からの恨みを抱いて、偽って報告する輩がいるなら、軽はずみな行動をとらず、審理を尽くしなさるべきである。武家では梁清の功績を称える処置があった。公家のご処置はどうして進まないのだろうか。以上、とりあえず申し上げます。
悪党人らの交名を注進する。
都合
五郎〈中村故越中房の舎弟〉。坊池弥五郎〈宗隆次男〉。
巽左衛門三郎入道真阿弥〈越中房の従父兄弟〉。助三郎〈越中坊の烏帽子子〉。
岡部入道〈越中坊の若党〉。 竹田住人〈一人は石見房、もう一人は名前を知らない〉。
右、すべて神人ではないけれども、社殿に乱入した。この他にも数人いたが、名前を知らないので、とりあえず注進した。
「注釈」
「良證」
─三善広衡。従四位下、左京権大夫、法名良証。康暦元年(1379)閏四月二十七日他界。七十五歳。三条実忠の時代から五十年に及んで奉公してきた家礼と考えられます(『後愚昧記』同日条)。
「御殿司」
─内殿・外殿の役人で、御神体に関わる仕事や、曼荼羅供の修法を練習して三所の祭神の神威を増し、法華経・最勝経を転読して、天長地久の御願を祈ることを仕事としている(「山上御殿司」『石清水八幡宮史』首巻、41頁。「御殿司舎」『石清水八幡宮史料叢書一 男山考古録』続群書類従完成会、1960、91頁)。
「嘉元年中」
─この事件については、「自殺の中世史2─13・14 〜現世の浄土と自殺〜」を参照。