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楽音寺文書31

    三一 小早川熙景寄進状

 

 (端裏書)

  「結縁汀免鹿田原寄進状 梨子羽殿」

 奉寄進

  楽音寺結縁灌頂免田事

 右彼法事者、先祖以来代々」檀越有縁無縁之衆生、為善根」結縁、於当寺

 毎年不結縁汀」可勤修旨、依頼春法印、為仏供」灯油

 梨子羽郷〈北方〉下友行内鹿田原三反、」除諸役永代令寄附所也、於

 子々」孫々弥可貴敬、仍寄進状如件、

  (1440)

  永享十二年〈庚申〉四月七日 平熙景(花押)

 

 「書き下し文」

 寄進し奉る 楽音寺結縁灌頂免田の事

 右彼の法事は、先祖以来代々檀越并びに有縁無縁の衆生、善根に結縁せんが為、当寺に於いて毎年結縁頂を闕かず勤修すべき旨、頼春法印勧むるにより、仏供灯油として、梨子羽郷〈北方〉下友行の内鹿田原三反を、諸役を除き永代寄附せしむる所なり、子々孫々に於いていよいよ貴敬致すべし、仍て寄進状件のごとし、

 

 「解釈」

 寄進し申し上げる楽音寺結縁灌頂免田のこと。

 右、この仏事は、先祖以来代々檀越と有縁・無縁の衆生が善根と縁を結ぶため、当寺で毎年結縁灌頂を欠かすことなくお勤めするのがよいと、頼春法印が勧めたことによって、仏供灯油料として、梨子羽郷北方下友行のうち鹿田原三反を、諸役の負担を除いて永久に寄付するところである。子々孫々に至ってもますます崇敬いたすべきである。よって、寄進状は以上のとおりである。

 

 「注釈」

「上北方村」

 ─本郷町上北方。善入寺村の東南に位置し、北部は山がちであるが、南部は沼田川の支流梨和川が東流して低地部を形成し、その支流域の七つ谷々に棚田を中心とした農耕地が展開する。鎌倉時代に南北に二分された沼田庄梨子羽郷の北半北方が、さらに二分されて上北方・下北方となった。しかし戸数を基準にして二分されたため、耕地がそれぞれ他方に点在することとなり、村域は複雑をきわめ、村境の整理は明治十五年(1882)になってから行なわれた。

 永享十二年(1440)四月七日の小早川熙景寄進状(楽音寺文書)によると、梨子羽小早川熙景が結縁灌頂免田を楽音寺に寄進しており、梨子羽郷北方の下友行内鹿田原三反が仏供灯油料としてこれに充てられている。梨子羽郷南方が竹原小早川氏の所領であったのに対し、北方は沼田小早川氏系の支配下にあった。応仁の乱における沼田小早川惣領家の本拠高山城の包囲戦は和議により開陣したが(文明七年四月二十三日付「政信盛忠連署状写」小早川家文書)、文明七年(1475)四月十一日の小早川元平書状案写(同文書)によると、和議の条件のなかに「梨羽北方」などの地名が見える。

 元和五年(1619)の安芸国知行帳に上北方村とあり、村高一千二三六石八斗一升。享保三年(1718)の豊田郡上北方村指出帖によると明知五三一・五三四石、給知七〇五・八二三石で給主八名。「芸藩通志」によると、畝数一〇九町四反八畝一五歩、戸数二五三・人口一千二四、牛九七・馬一〇、善入寺・上北方・下北方の三ヵ村入会山の用倉山、池に兼平池など九ヶ所(前記上北方村指出帖では六カ所)、神社には八幡宮(現寄宮神社)・大歳神社、小早川春平の次男梨子羽時春の後裔景行が祀ったと伝える山王社(現下北方の宮川神社)など、寺院に常徳寺(現浄土真宗本願寺派)、廃寺には僧蘭翁の開基と伝える葱嶺山吉福寺を記し、梨子羽景行(一説に景盛)の居城と伝える畑木山城跡、その南山麓の土居に梨子羽氏宅跡、今井谷に梨子羽氏墓六基があり、盆会には下北方村明雲院が墓祭を行なっていると記す。なお、梅慶庵塚穴(梅紀平古墳)・山王社などは明治以降の村境整理により現在は下北方に属す。(『広島県の地名』平凡社)。