周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

『アジアの聖と賤』

  野間宏沖浦和光『アジアの聖と賤』人文書院、1983年

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

P22

 ヒンズー教では牛の糞は、むしろ非常に聖なるもので、汚れを取り除く力があるとされているんですね。だから、あれをずっと家の壁などに張っておくと浄めにもなるわけで、それがまた燃料にもなる。まさに一石二鳥です。なかなかうまいことを考えついたわけだ(笑い)。ヒンズー教徒が尊ぶ『マヌ法典』でも、穢れた人間を清めるいろんな儀式、つまり浄法について書かれていますが、そのなかに、牛から得られる五つのもの、乳、ヨーグルト、チーズ、尿、糞を飲むこと、と書いてある。

 牛といえば、農業に欠くことのできない動物として、牛崇拝が古代からずっと定着農耕民の間にあった。そこへ外から入ってきた遊牧民族であるアーリア人が、先住農耕民の牛崇拝の思想に目をつけた。自分たちは遊牧民族だから、もともと肉を食っていたわけですね。

 しかし、先住農耕民たちを支配してゆくために、しだいに肉食をやめて牛を〈聖なるもの〉として押し出していった。そして、聖なる牛を屠殺したり皮を作ったりする者を、穢れた者として差別し隔離していった。ということは、穢れを軸とした差別的な支配体系を打ち立てる一つの媒介物として、聖なる牛が使われたということですね。そしてたどりたどって、日本でもそういう職業に従事する人が穢れとされた。そのことについては、あとで詳しく触れることにしましょう。

 

P25

 (カルカッタのステーション、ハウラ駅)駅の中で恐れもなく死を待つ姿といい、家もなく街路住民として格別みじめさも感じず生きている姿といい、生き方、死に方に対する、まるで別の価値観があるからではないか。つまり、その二つはインド人にとって裏表といってもいいものではないだろうか。

 そこは非常に大事なところだと思います。乞食もいたるところにいるし、その日暮らしの貧しい大道芸人や行商人もあちこちで見かけた。おそらく彼らの一日の収入は、一、二ルピー、日本円にして一〇〇円にもならない。ヒンズー教ラマ教なんかの行者もおり、各地で托鉢しながらようやく生き延びている。しかし、聖者と呼ばれているこれらの行者も、一皮むけば乞食同然なんですね。

 日本の昔の巡礼と同じような形でトボトボと聖地を歴訪しながら、人の情けにすがって生きてゆくが、最後は路上で野垂死にとなる。

 つまり、ゆきだおれ……。そこまで自分でつきつめて考えているかどうかは別として、宗教的に言えば、〝現世放棄者〟……。

 日本ならば実に悲惨な最期なんだけれど、インドではそんな悲愴感はあまりない。現世放棄者と言えば、日本の中世では、諸国を漂泊する聖ですね。我々は外側から見るほかはないが、どうもそのように思われますね。

 ヒンズー教史によれば、これらの漂泊する現世放棄者はいずれも禁欲苦行者であり、カースト制度を批判して神の前での人間の平等を説いた宗教改革家であった。このことは注目すべきことですね。つまり、彼らは、いつでも反体制派、反カースト制派として、差別されている貧しい民衆の側にあった。

 その点も、日本の漂泊していた聖とよく似ていますね。

 ところで、インド社会を深く研究されている山折哲雄氏は、この〝現世放棄者(サヌヤーシン)〟について次のように述べているが、たいへん的を射た重要な指摘だと思う。

 「今日のインドでは、真のサヌヤーシンは一般的にヒンズー教徒によって〈死者〉と同一視されている。なぜなら、カースト社会と絶縁した人間は現実の社会からすでに葬り去られた人間とみなされるからである。だから、サヌヤーシンが死んでも、彼のために葬儀が行われることはない。なぜなら、彼はサヌヤーシンになったとき、すでに自己の〈葬儀〉を自己の手で完了してしまったと考えられるからである。

 こうして現世を放棄したサヌヤーシンは、まさに日常的に死を生きる人間であると言わなければならない存在である。彼らは死を生きることによって、最も自由な人間として神に祈り、人々に救済の福音を解くことができるのである。」(奈良康明山折哲雄編『神と仏の大地インド』第1章、佼成出版社

 カースト制度の歴史を考える際には、ぜひとも取り入れねばならぬ重要な視点ですね。意を捨てて妻子を捨てて諸国を遍歴するということ自体が、カースト的な枠組みからの離脱を意味するのですね。そのことによってかえって精神の自由を追求し、既成の宗教的儀礼にがんじがらめに縛られた社会秩序を批判してゆく視点を我がものとしてゆく……。

 そういう思想的潮流が、宗教史上において、中国でも日本でもあったということ……。それがまた、インドにおいても確認される。このことの意味は非常に大きい。山折氏は、ブッダの思想も、つきつめればこのような思想的流れの中から出てきたのではないかと示唆されているが……。

 そのことは、インド大陸の古い土着思想から出てきたと言われている自然観あるいは生死感、つまり業とか輪廻の思想、こういう問題とも深く絡まっているように思いますね。ブッダ自身も、広い意味での〝現世放棄者〟であったことはたしかですから。

 生命に対する考え方は、近代合理主義で割り切れない要素を持っているんではなかろうか。生きる、死ぬは自然に属するんでしょうね。

 そういう考え方が、大衆の中にまで浸透しているような気さえする。われわれだったら、行き倒れを見て慌てふためいて、救急車なんかを呼ぶところだが、そういう救急車で近代的な設備の整った病院に運ばれていく価値観の世界とは全然違う。そういう世界で、多くの下層の民衆が生まれ、また死んでゆく。そのズレが、またわれわれにとってはショックなんですね。

 

P35

 日本でもそういうケースが多いでしょう。炭鉱労働者がヤマを閉されて都会に出てくるが、被差別部落に入ってくる労働者が少なくない。沖縄から出てきた労働者もそういう場合がある。戦後放り出されていろんな差別を受けながら生き抜いていかねばならず、どこも受け入れてくれないので被差別部落に入っていった人も少なくない。部落は人情の厚いところだから、そういう困っている人々を受け入れる。お互いに助け合って生きてゆこうという共同体精神がまだ残っているところですからね。

 

P41

 その前にインダス文明があって、これを築いたのはさっき見たように原ドラヴィタ系ではないかと言われていますが、どういうことがあったのか急速に滅亡している。地殻隆起によるインダス川の氾濫で潰れたのか、アーリア人の侵攻によって壊滅したのか、諸説がるが、あるとき突然壊滅していることは、考古学的にも明らかなんです。(中略)それから牡牛を尊重しているということは、遺物からもはっきりしている。シヴァ神の力の象徴とされているリンガ、つまり男根崇拝、こういう土俗信仰に類するものも出土している。

 あの男根は本当にすごいもんですね。インドの至るところで見ましたね。

 ええ。この男根崇拝、すなわち生殖力の賛美は、農耕社会では豊作を期待するための一種の呪術として広く行われていたんですね。のちにヒンズー教もこれを取り入れる。だから、あの男根崇拝はアーリア人が持ってきたんじゃない。あとでふれる業や輪廻の思想にしても、もともとインドの土着信仰に属するものなんですね。それを後から来たアーリア人が、みないただいてしまう。

 

P42

 亜大陸の北部から中部を占拠したアーリア人は、先住民族を南部や奥地へ追いやりながらどんどん駒を進めていった。向かうところ敵なしです。征服から当地へ移る段階で、アーリア人も農耕をやり出す。こうして、アーリア人は牧畜兼農業を営みながら、自分らが持ってきたバラモン教の教義に基づいて─その段階ではまだヒンズー教とは言いません─新たな社会体制を組織していく。そのバラモン教の最古の文献が『リグ・ヴェーダ』ですね。それを読むと、すでに家父長制、祖先の霊魂崇拝、聖火崇拝といった特徴がはっきり現れています。そして、自分たちを「アーリア」、これは「高貴な、尊いもの」という意味ですけれども、そう呼んでいる。また、自分たちが持ってきた神インドラを崇拝しない先住民を、「ダーサ」(敵)と呼んでいる。

 

P45

 戦争しながら相手を征服して、たえず版図を広げていくのは王侯貴族、武士階級。彼らクシャトリアは、戦場へ必ずバラモンを同行している。戦争のときに、穢を祓い清めて戦勝祈願をするバラモンは欠くことはできない。

 日本で言えば、陰陽師。古代の朝廷では、律令の規定にあるように陰陽師が必ずついている。彼らは、占星術もやり、たとえば今日は凶だから天皇は外に出たらいかんとか、今日はかくかくの理由で穢れている日だから何もするなとか、いろんな指示をする。荒っぽく言えば、陰陽師は一種の呪術師だが、これが宗教的権威を背後に持つと絶大な権力を所有するようになる。

 その点、日本の陰陽師はたんなる呪術者であって、自らが宗教的権利を持っていなかったから、支配権力の庇護下にいなければまったく弱い存在になってしまう。日本の中世段階では、権力から見放された下級の陰陽師は、ほとんど賤民身分に近いところまで堕ちますからね。

 ところがバラモンは、自分たちの血統の宗教的聖性と正統性を強調し、神の祭祀たりうる唯一の正常な身分であることを主張してきた。そしてそれを社会体制としても具現化してきたわけですね。

 それがカースト制ですね。

 そのカースト制度において、バラモンはたんに呪術師であるだけではなく、まず何よりも社会秩序を維持するための複雑な祭祀体系の主宰者であり、宗教的権威の保有者であった。だからこそ身分制の最上位として君臨することができた。

 バラモンはそういう存在だったんだな。古代の王権は祭政一致の要素が非常に強いから、宗教的権威に呪術がプラスされると王侯貴族も対抗できない。

 

P48

 ヒンズー教の場合、アートマン(自我)と、ブラーフマン(ブラフマン梵天)があるわけで、アートマンというのは、個人の生命現象、つまり、それぞれの個体の生気や身体の中に潜む本質存在。それと、万物に偏在して万物を動かし客観的宇宙を統御しているブラーフマン─この相即一致というか、無限の宇宙の本質と有限な自我が同化するいわゆる〝梵我一如〟が非常に重要である。これを追求するのがヒンズー教の究極的な目標だという。西洋近代の合理主義思想に馴染んでいる我々には、なかなか難解な論理ですね。一番問題なのは、その論理の根底に不滅の霊魂説がおかれていることですね。

 そのところが、ブッダの説いた仏教と正面から対立するところだ。だから、ボクは、異議を申し立てた。

 

P50

 宗教・道徳上の法を説くダルマ(dharma)、世俗的実利を説くアルタ(artha)、それに男女性愛の満足を説くカーマ(kama)─この三つを基本的にいろんな法典が作られたわけですね。

 

P51

 いくらか異説があるとしても、ちょっと整理しておくと、インドの宗教の歴史は次のように六つの時代に分けることができるというのがほぼ定説です。

 ⑴インダス文明の原始宗教の段階(前30〜前17世紀ごろ)

 ⑵バラモン教の段階(前17世紀ごろ〜前5世紀ごろ)

 ⑶仏教を中心とした非バラモン主義の段階(前5〜後6世紀)

 ⑷ヒンズー教の確立の段階(6〜12世紀)

 ⑸イスラム支配下ヒンズー教の段階(12〜18世期)

 ⑹英国統治下から今日に至る現代ヒンズー教の時代(18世紀〜)

 

P52

 そして、インドを宗教的に制圧したバラモンたちは、霊魂の存在を認め、五火説に代表されるように、死者の霊が⑴まず月に至り、⑵雨となって、⑶地上に降って食物となり、⑷さらに精子となって、⑸母体に入って再生するという、輪廻の五段階を説いた。その生死流転の輪廻が止まるときに、初めて霊魂は永遠の至福に入ると説く。

 ところがさまざまな業がその霊魂に付着するので輪廻は止まない。輪廻から自由になって解脱の境地に入るため、ヨーガなどの苦行が古来から説かれていた。

 

P55

 『マヌ法典』の規定は詳細を極めていて、たとえば、バラモンの職業はこれこれに限るとか、結婚の場合はこうせよとか、何を食ってはいけないとか、セックス のやり方はどうせよとか、修養中の学生は「静液を遺漏することなかれ」、儀礼を守る夫は「常におのれの妻のみで満足し、月経後の妊娠可能な時期に妻に接近せよ」と細々規定している。

 それから女性差別……。

 女性差別もものすごいもので、どんな行状の悪い夫でも、妻は夫を神のように尊敬せよと説いている。あるいは、供犠についても、五大供犠の仕方、客のもてなし方、先祖の祭り方など、民族学的にいう通過儀礼なども詳細に規定している。

 そうですね。接近したらいけない穢れについても非常に細かく規定していて、たとえば、「チャンダーラ、豚、鶏、犬、月経中の婦人及び去勢者は、食事中の再生族を見るべからず」という規定まである。

 『ヤージュニャヴァルキヤ法典』によれば、「自分の妻であっても、その非淫処において、または月経期において行淫する者は、24バナの罰金を科せられる」とある。これではうかつに自分の女房も抱けない(笑い)。

 それから次のような規定もある。

 「最下姓女を犯す(如き卑劣なる)者には、その恥辱の記を烙印して追放せしむべきである。かくの如き首陀羅族(シューダラ)は(自ら)最下姓となるであろう。最下姓男にしてアーリア女を犯した時は、もとより死刑である。」

 

P56

 『マヌ法典』にしろ、この法典にしろ、すべてアーリア人の種姓と血統を守る立場から書かれています。

 それから、もう一つ注目すべきは、身体障害者に対する差別もすごいことですね。片足のない者、目の見えない者、癩を病んでいる者、これらは全部バラモンのいるところから退去させよ、そういう指示を出してます。彼ら障害者は、あるべき身体的秩序に背いているからという理由で、やはり穢れとされていたんです。

 この法典にはおそらく、今日の差別と言われているもののすべて、すなわち、女性差別から身障者差別から、ありとあらゆるものが打ち込まれている。それらを全部穢れとして遠ざけることによって、神の清浄が保持され社会秩序が安定するという。この儀礼的な〈浄・穢〉に関する一連の信念は、ヒンズーイズムの中核的教義を形成している。

 そのような宗教的教義を思想的土台においていたからこそ、カースト制を今日まで持続させることができた。

 その意味では、カースト制こそ、ヒンズーイズムの精神を体制的に表現したものと言えますね。それから、このような〈浄・穢〉観念は、日本の古代からのあらゆる差別思想と、いろんな点で酷似していますね。月経中の女性や産褥にある女性を浮上と見る観念、身体障害者を〝非人〟と見る観念、穢れとされている職業に従事している人間を賤民と見る観念─これらは『マヌ法典』の基調にあるものとほとんど同一ですね。

 

P66から

 『マヌ法典』の第10章では、人間のうちの最下級なるものとして、スータ、チャンダーラ、マーガタなどをあげて、彼らの職業を、馬・戦車の取り扱い、治療技術、後宮の護衛、商人、大工、屠殺業、皮革職、漁夫、楽人などに指定している。

 第三章を見ても、バラモンが避けるべきものとして、芸人、高利貸、医師、売肉業、弓矢製造者、賭博師、飼鳥者、製油者、先生術師、建築家、植木屋などをあげています。それから『マヌ法典』についで実用的価値から見ても重要視されていた『ヤージュニャヴァルキヤ法典』では、賤視されている職業として、それ以外に工匠、織師、洗濯屋、酒屋、籠師、舞台芸人、鉄師、木師、金鍛冶、民間祭祀人、染師などをあげています。

 

P68

 とにかく、先住民族のもっていた土着文化も取り入れるし、民俗慣習や民間信仰なども大胆に取り入れてゆく。

 その点では、ヒンズー教は、いろんな宗教のシクレティズム(諸教混交)という性格を基本的にもっている。『マヌ法典』のようなものが作られたのも、ジャイナ教や仏教の教宣の慎重に対抗するということが一つの重要な契機だったと思われます。

 これも向こうで教えてもらったんですが、ヨーガの起源はきわめて古く、インダス文明時代に、すでにヨーガの萌芽的なものがあったのではないかと推定されている。そのヨーガがバラモン教に吸収されてヨーガ学派となる。制戒、内制、坐法、調息、禅定、三昧などの修行によって、煩悩を除去し、心を統一し、最後に梵我一如の境地に近づいてゆく。

 

P72

 農耕を主とする社会へ転換した後でも、肉食の慣習が簡単に消滅するわけではないし、皮革の需要も増えこそすれなくなるわけではありませんからね。つまり、宗教的な教義上の要請と実際の社会的風習・需要との間には、たんなる制作では片付かぬズレがあった。

 これは日本でも同じですね。朝廷が殺生戒を国家的レベルで実行した後でも、民衆の食肉の慣習は止まなかったし、天皇や貴族でも薬用と称して肉を食べていた。これは文献的にも証明できる。

 そうですね。タテマエとホンネが食い違ってくる。そこで為政者がこの矛盾を乗り切るためには、特別の政策的配慮を必要とした。すなわち、タブーの侵犯者として、スケープ・ゴート(生贄の山羊)として、誰か特定の者に穢を背負わせてこの職務を無理やりに遂行させるしか手がなかった。〝人外の人〟とされた不可触民制が、社会システムとしてつくり出された一つのカギがここにあります。

 

P75 「万物を〈浄・穢〉の基準で配列するヒンズー思想」

 そうすると、〈浄・穢〉の観念が、ヒンズー社会の諸制度や日常生活にくまなく浸透していて、それが宗教と社会を取り結ぶカギになっている…。

 そうなんです。ヒンズー教の宇宙観に基づいて、超自然世界も自然界も、すべてのものが〈浄・穢〉の価値基準によって配列される。万物には、本来的に浄性あるいは不浄性が内在しているとみなされている。下位にランクされたものはその本質的属性として強烈な穢をもっており、それはまた直接的あるいは間接的な接触によって、その穢を他のものに感染させる。

 おそろしい思想ですね。自然界では、たとえば、どんなものが浄で、どんなものが穢なのか。

 非常に複雑な仕組みでデザインされている。自然界でもっとも高い浄性を保持しているのが、牝牛、火、水の三つですね。これらは神聖であるだけでなく、穢そのものを浄化する力をもっている。

 金属も植物も動物も、すべて〈浄・穢〉観念のもとで儀礼的序列があるわけです。

 たとえば動物界ではどうなっているんですか。

 聖なる牛がトップで、それから水牛、コブラ、サル、羊、山羊ときて、下位に鶏や豚がおかれる。物質界では金、銀、真鍮、鉄、土…。肉食でもそうですね。羊肉、鶏肉、豚肉の順序で、今度は逆に牛肉が最下位になる。

  (中略)

 そうでしょうね。それから、植物界ではニンニク、タマネギなどが穢を多量の持っているものとして下位にランクされる。

 古代の日本でも、『令義解』を見ても、ネギ、ニンニク、ニラ、ラッキョウなどは五辛といって食穢とされている。このような思想はインドが源泉で、それから中国や朝鮮を経由して日本に入ってきたものかどうか…。偶然の一致とは考えられませんからね。

 そういう経路も、史料的に追跡してみる必要がありますね。それで人間の身体から出るものも穢とされているわけでしょう。

 ええ。身体からの放出物・排泄物は強烈な穢を内在させていて、その伝染性も、ものすごいとみなされている。特にヘソから上よりも、ヘソから下が穢が濃厚であるとされています。

 なんとなくわかるような気もするね(笑い)。

 出産、性交、排泄行為、経血、死─これらは猥雑で他人からのぞき見られたくないものですが、どうしようもない根源的な生命現象です。いかに高尚な文化を享受していても、この部分だけは、動物としての人間の動物的次元での生の再生産の場面ですね。

 →人間は動物との差異を意識しすぎるあまり、動物と同じような現象を忌み嫌うようになったのか?

 

 本当はケガレでもなんでもなく、生命の再生産のための必要事ですよね。われわれが生きてゆくためには欠くことのできない自然的な生の営みである…。

 しかしヒンズー教では、それが穢の強力な汚染源であるとされた。人間の体内から分泌するもの、『マヌ法典』ではこれらは身体の一、二の不浄物とされている。脂肪、精液、血液、頭垢、大小便、鼻汁、耳垢、痰、涙、眼脂、汗…。医者、産婆、洗濯屋、理髪店が賤業とされるのはそういうものに直接触れているからです。彼らはいつまでも差別されていて、その多くは不可触民の仕事とかかわっている。この点もまた、日本とよく似ています。今挙げた職業に従事している者は、日本の近世の段階でも、地方によって多少の差はありますが、やはり賤に近いと見られていた。被差別部落から、かなり多くの医者を出しているところがありますよ。

 →身分の高い人間に奉仕する、御典医のような連中は、どのように考えられていたのか。この点を明らかにしないと、一概に被差別民と言い切ることができない。また、日本の場合、賤業と呼ばれる人々が賤視されなくなった時期はいつか、その理由は何か、社会背景の違いは何かなど、追究すべき点は多いように思われる。ヒンズー教的価値観をそのまま受け入れたというだけでは、説明不足。受け入れるものと受け入れなかったものがあるはず。その違いは何かを考えないと、日本の特殊性は見えてこないし、その違いを無視すると、インドの価値観を一般化・普遍化しすぎてしまうことにもなる。

 穢について言えば、一番はっきりと差別のかたちで出てくるのは、同火・同食と結婚に関する禁忌ですね。すなわち、穢を背負っているとされている人間と一緒にメシを食べない、通婚を絶対にしない。これはやはり、メシも体の中に入るし、結婚も肉体の直接的接触をまねくから…。

  (中略)

 月経、分娩、性交渉、排泄、死─人間の中の動物的な行為は、すべて不正の記号を背負わされている。人間の精神の尊厳を冒瀆するかのような動物的行動は、のぞき見られたくない醜い部分とされているのですね。

 したがってこれらはみな、強力な汚染性を持っているとされています。これらはすべて儀礼的清浄の秩序から見れば深刻な脅威であり、近づいてはならないものである。

 →清浄とは「制御・秩序・安定」であり、不浄とは「不制御・混沌・動揺」なのかもしれない。とりわけ、上記の不浄は制御不能なものばかりである。コントロールできないものに対する恐れが、穢の根源にあるのかもしれない。

 

 それで『マヌ法典』には、月経や性交渉についてのタブーが事細かく出てるんですね(笑い)。ところで、カースト制の根源にはヒンズーの宇宙観があり、ヴァルナの枠付があるが、そこにさらにいまの浄穢観というものが絡んでくる。これがいちばん生臭いんですよね。

 〈浄・穢〉を基軸とした差別の体系として、インドのカースト制社会をまず捉えねばならない。差別による分類の体系は、もともと伝統的社会の編成原理の基本的モデルです。身分制というのは、人間社会の価値序列を、差別によって定めた分類体系です。中国の律令制も、ヨーロッパでもアフリカでも、伝統的社会はみなそうした身分制を社会秩序の編成原理にしている。その中でもインドのヒンズー教の教義は、差別による分類体系を宗教的信念として確立したという点で、もっとも典型的だと思う。

 特にそれが、〈浄・穢〉という観念を中心に据えているところに大きな問題を孕んでいます。多くの文化人類学者が指摘しているように、この分類の体系は、レヴィ・ストロースの言葉を借りるならば、「非連続性と差異性に支えられた二項対立の体系」(『野生の思考』)としてまず形成されます。たとえば、天と地、昼と夜、明と暗、男と女、高と低、上と下、陰と陽、右と左といった二項対立から始まって、次第に複雑な体型に展開していく。

 〈貴と賤〉にしても、〈尊と卑〉〈浄と穢〉にしても、そういう二項対立的な考え方の延長線に出てきたものですね。だから、人間が原初的な認識の体系を持ち始めた段階から、いち早くそういう思考が現れてきたと言える。

 インドのベナレスでは、ガンジス川の左岸には家が建っていない。荒野そのまま。左が穢だから…。ところが右岸はガート(沐浴場)がずらーっと並んでいる。

 →「きれい」「きたない」といった感覚は、原初的な認識の体系だが、それを政治権力が「政治の問題」にした。〈浄と不浄〉を政治問題にして、人々の行動を規制し、人々を統制した。〈浄と不浄〉は政治の、統制の道具だということ。

 

P79

 穢というものは、もともと定められた「秩序」を犯して、その結果、みなを不安定な危機に追い込むことという観念が基礎にあるわけですね。

 既成の体制としての秩序を乱したもの、制度としての文化を破壊する猥雑なもの、あるいは撹乱する可能性のある危険なもの、それらが穢とされた。

 誰が、何を、穢として認定するかという問題は、よく考えてみると、いつの時代でも権力者の権限に属している。

 見た目に「汚い」とか、「生理的に嫌悪感を催す」とかいうのは、人間のプリミティヴな感情としてかなり一般的にあると思うんですが、それと宗教的に烙印を押されて「穢れ」感覚とは違う。もちろん、権力者はその両方を結びつけようとするが……。

 もともと穢とは、そういう形で制定された〈聖なるもの〉に対する侵犯を意味するんですね。秩序づけというのは、そのような〈聖なるもの〉をめぐる権力・反権力の関係概念ですから。

 そういう点では、穢というものは、〈聖なるもの〉を握った権力者が、自己の神聖さを確保するためにもたえず作り出して行かなきゃならない。「こいつは穢れているのだ」と言い続けて、そこに衆目を集め、それを秩序を犯し体制に危険を持ち込むものとして徹底的に差別してゆかねば、聖なる権威が浮かび上がってこない。日本でも、天皇制という〈聖なるもの〉が存在するために、その対極にたえず賤民制を存続せしめなければならなかった。人間の原初的な認識モデルとしての二項対立は、ここでも生きているわけです。

 →「アイドルはうんこをしない」という言説と似ている。

 

 バラモンと不可触民、天皇制と賤民制─この両者はきわめて相関度の高い二項対立だな。

 そのように、支配的秩序ができ上がった後で、具体的に穢とされるものは何かというと、〈聖なるもの〉を中心とした支配体系・価値体系を根源的に脅かすものですね。

 それから、既成の秩序体系から見て異常なもの、はみ出しているものですね。たとえば、心身障害者は、インドでも、日本でも〝人外の人〟、つまり非人として差別されてきた。穢の保有者として、人間に非ざるはみ出し者として排除される。

 →中世の「悪党」も秩序からのはみ出し者だが、穢の保有者として差別されたわけではなかった。もっと明確に区分けできる基準がありそう。

 

 それから支配者の視点から見て、分類体系からはみ出したもの。たとえば、アーリア的価値基準からいけば、アーリア人でない山岳先住民族やドラヴィダ族は全部はみ出しているから、穢の方へ押しやられる。日本でも大和朝廷によって征服された先住部族は、「蝦夷」にしろ「国樔(くず)」にしろ「熊襲」にしろ「隼人」にしろ、みな動物の名前を付けられて天皇大権による分類体系の外に位置づけられています。

 「土蜘蛛」も同じ理由ですね。動物の名をつけて差別するというのは、中国の歴史のやり方を真似たんですね。

 ええ、征服者が聖なる権威を握って祭政一致の世界を築き上げ、政治的のみならず宗教的にも被征服者を穢として排除していく。彼らは、王化に服せず、伏(まつろ)わぬ〈化外の民〉として扱われる。たとえ王化に服しても、賤民とされる。インドでも、最初にシュードラとして隷属を強制されたのは色の黒い先住民族だった。古代日本でも、「蝦夷」は最後まで王化に伏しなかったので、捕らえられた後でも賤民として各地に配属された。これが伝統的社会における支配の仕方なんです。

 それは実に精密な分析ですね。先住の穴居民族だから「土蜘蛛」というわけで、穢らわしきものという烙印を押す。だから、穢というのを近代的合理主義でもって、生理的嫌悪感とだけ結びつけて考えていると大きな間違いをするわけですね。そこをきちっと抑えないと、歴史が薄っぺらなものになってしまう。

 

P84

 今度行ってみて改めて感じたのだが、単に思想史や文化史のレベルだけではなく、生活実態としても日本の部落差別と似ている……。

 そうですね。近世の被差別民衆の生活と仕事を見てみると、きわめて多くの類似点がありますね。

 ヒンズー社会では、差別体系を維持するために、さまざまの象徴的、実態的差別の社会化が行われてきた。たとえば、過去において不可触民は鈴をつけろと言われた。鈴が鳴れば近づいてくるのがわかるから、カーストの上の者は家に隠れて目に入れまいとする。居住区を村外れに置いてしまうとか、あるいは髪に印をつけろとか、痰を吐くと大地が汚れるから壺を持って歩けとか、いろんな強制をしてきた。これは日本の江戸時代の部落差別とよく似ている。江戸中期以降の御触書を見ても、ことさらに彼らの穢を強調して、一般民衆との交流をタブーとする布告が増えてくる……。

 

P85

 そうですね。律令制に基づく良賤制の場合は、後で見るように賤から良への身分的上昇が可能だった。ところが、カースト制の場合はこれをまったく認めない。内婚制による血統、家柄、身分の純粋性の持続を非常に強調し、社会の流動的変動を防ぎ、既成の支配体制を固定化する。そもそも身分制の狙いはみなここにある。

  (中略)

 ここで、カースト体系についてまとめておきましょう。

 第一に、ヒンズー社会の全体系の根底に〈浄・穢〉の観念がおかれ、これを実態化したものとしてのバラモン(清浄にして聖なるもの)と不可触民(穢れていて賤なるもの)を両極とする社会秩序が編成される。そして、それがカースト制度として固定化され、身分体系として実態化される。

 第二に、このヒンズー社会は、穢を排除し聖なるものの浄性をたえず維持していくことで保持される。したがって清浄な人間とその仕事は、不浄な人間とその仕事からはっきり隔離されねばならず、かくして、浄・不浄の観念が、カースト社会の分業関係の規定に置かれる。

 第三に、そのためには様々な浄法に基づいた浄化儀礼がたえず要求されるが、それを執行するのが、カースト最高位に位置するバラモンである。バラモンたちは〈目に見える神〉としてこの世のすべてを動かし一切の現象を司る機能を有し、宗教儀礼的世界からすべての俗人を締め出す。そして、ヴェーダ学習、五大供犠、沐浴、餐応、洗滌その他多くの戒律、タブーを民衆に課することによって、社会関係をがんじがらめに縛り上げている。

 それが『マヌ法典』に詳細に規定されていて、しかも近代に至るまでそれが生命力を持っていて、イギリスが近代的統治に乗り出したときもこれを大いに利用したというわけですね。

 

P88

 その(解放運動の)」リーダーに自分の住んでいるアウト・カーストの地区を案内してもらった。バナナなどの熱帯樹が繁った、いかにも南部らしい地区だったが、戦前の日本の被差別部落のように、六畳から八畳ぐらいの広さの、非常に屋根の低い家がずらっと並んでいる。そこへ6人から8人が住んでいる。窓もない。(中略)

 ただ、以前の日本と似ていると言っても、今なおインドでは、アウト・カーストの婦人が無理やりに引き連れられていって、強姦されることがあるまた、部落が焼き討ちされたりする。このマドラスでも、しばしばそういう差別事件が起きると言ってましたね。それをまとめたパンフレットももらってきた。考えてもいなかった差別ですね。(中略)

 訴えても全然取り上げないか、取り上げても罰金刑で済んでしまう。それどころか、逆に覚醒剤でやられている警官までが強姦する。どうにもならない状態がある。そんな状態をなんとか打ち破ろうと、運動体を作っていったという。今年で2年目になるそうだが、まだまだ微力なものだと言ってました。彼らに、「あなたの思想はキリスト教か」と聞いたら「違う」という。「マルクス主義か」と聞くと、「違う。マルクス主義を否定するわけじゃないけど、インド共産党は信用できん」と。

 (中略)

 不可触民制は、憲法の上ではなくなっているにもかかわらず、彼らに対する強姦、放火、暴行、なぶり殺しなどが連日のように起こっている。新聞にも出ているが、それは氷山の一角です。政府が発表している統計を見ても、年によっては1千件を超える。

 →この本は約40年前に書かれたものだが、現代のインドも状況的にはあまり変わっていない。「公式統計を基にすると、インドでは2018年、16分に1回の割合でレイプ事件の通報があった計算になる。」

www.cnn.co.jp

 

 

P93

 それから、インド各地で見た猿回し。あれは非常に芸が上手だった。戦前に世よく路地裏にやってきた日本の猿回しとまったく同じですね。

 よく調べたら、インドに生まれて中国を回って日本へ入ってきたのかもしれない。

 脚芸の軽業も見ましたが、あれは日本中世でいう放下(砲火)ですね。絵図で見る放下とそっくりでした。放下も、インドから中国を回って日本へ入ってきた芸能ですね。

 

P94

 ガンジー自身は不可触民の子どもを養女にしたり、恩恵的政策では最大限のことをした。しかし、賤民出身のアンベドカルがその融和主義的改革に反対してカースト制度そのものの解体を要求すると、ガンジーはインズーイズムを守るために断食までして抵抗している。

 つまり、アンベドカルがカンジーに向かって「あなたがカースト制を支持すると言い続け、我々をいつまでも惨めな状態に置いておくのなら、我々差別されているアウト・カースト先住民族は、カースト・ヒンズーから分離し独立する」と言ったとき、かつてイギリス帝国に向けられた、あの栄光に満ち満ちた非暴力の武器は、逆にアンベドカルを叩き潰すための武器になり変わった。ガンジーの栄光の裏にこういう悲惨があったということは、やっぱりちゃんと出しておかないといけませんね。

  (中略)

 アンベドカルに対してガンジーは、「不可触民の分離独立は許さない。改革は私がやる」と言った。彼は、自分がヒンズーイズムの枠内でヒンズー教の宗教革命をやれば、カースト差別の問題は解決すると信じ込んでいたに違いない。それにいまインドが分裂したら、せっかくの大インドがバラバラの小インドになってしまう、という思いもあった……。

 

P106

 そうですね。仏教は、我執、つまり、おのれの利害や欲望に執着することを認めていない。西欧的近代の自我観とは異なった観点をもっている。

 その点、ヒンズー教アートマンは絶対的自我で、ヨーロッパ的自我にかなり近い。ブッダの場合はアジア的というか、〝他〟あっての〝おのれ〟という考え方ですね。そうすると、論理的に言っても、他者とともにでなければ自分も救われない。他の衆生とともにあって、はじめておのれも救われる(利他による自利の完成、自と他の弁証法的連関)。おのれの生き様は他人の生き様と無縁なところで展開されるのではない、そういう意味で、他者との社会的諸連関を自分の主体の存在にまで含み込んだ全体性の論理です。実体的な自我を前提としてその自由を中心にものを考える、西欧の近代ヒューマニズムを超えた深いところがある。

 →哲学でよく言われる、「自我は関係性にすぎない」という定義や、平野啓一郎の言う「分人主義」と同じことか。2000年以上も前に、釈迦は、仏教はこうした点に気づいていたことに頭が下がる。

 

P134

 道家は、老子荘子を代表とする諸子百家の一潮流ですね。

 官の側には取り入れられなかったが、在野思想としては重要な系列だ。老子は、現実逃避主義であり、地方の自給自足の農村共同体を理想とした隠遁の哲学と言われています。しかし、それを消極的で無為の政治哲学と見るのは一面的で誤りだと思う。もっと積極的に評価されねばならぬものをもっている。例の「小国寡民」説にしても…。

 少数の人民が住んでいる小国を理想郷と考える説ですね。優れた人材がいても腕を振るう余地がなく、交通機関もいらないし、武器があっても使い道がない。文字を書いたり読んだりすることも必要ない。そういう一種の桃源郷ですね。原始的共同体といってもいい。ところで野間さんは、前々から老子の思想を高く評価されていましたね。

 老子の生まれたのは、紀元前4世紀の戦国時代のころです。そのころに、あのように激しい文明批判の視点を持ちえたということ。しかも「自然に帰れ」という立場から、人類文明が生み出したいろんな毒素を取り去って、〝自然の大道〟に即した人間生活を主張した。彼は自然を生起と変化において捉え、自然の運動とその法則こそ、宇宙間の事物の動きの背後に潜む時空を超越した本体であると考えた。そしてそれを、〈道〉と呼んだわけですね。老子は、すべての生命や物質は、等しく〈道〉の所産として捉えた。人間もそうです。その意味では、《自然・内・存在》としての人間─そういう人間観をもっていたと言えます。

 老子の説く有と無の弁証法も興味深いものですね。常識的な無ではなく無限の無…。

 道は無限である、無は無限の創造力をもつという表現で、老子は、あらゆるものが自然の理に究極的には支配されていることを説いた。道家思想の根底にあるのは、一口で言えば、自然の摂理を天の道と考えて、それを信頼してそれに依拠するという思想ですね。

 無意と人為との比較も、そこから出てくるのですね。老子は、孔子の説いた仁義や道徳を、それは人為であるとして否定した。「大道廃れて仁義あり」、つまり、自然の大道がこの世で行なわれなくなったから、やむなく神器が人為的な手段として作り出されたのだという。老子の説く無為の政治は、何もしないということではなくて、自然の大道、自然の摂理に即した生き方を意味する。

 そのような自然の大道と一体化したとき、人間は、はじめて自由を回復するという。一国の政治も、作物の自然を全うさせる農夫を手本にせよといっていますね。自然の大道が何であるかを一番よく知っているのは、知ったかぶりの為政者や道徳家ではなくて、自然とともに生きかつ死んでゆく農夫である…。

 戦争に対してもはっきり反対ですね。

 「武器は不吉な道具だ」「戦に勝っても名誉とは考えない。それを名誉と考えるものは、生まれついての人殺しである」と断言しています。

 それから、律令制についてですが、次の発言に見られるように、法的に人民を規制して社会を統制してゆくという考え方に反対している。その点では法家の対局にある思想です。(中略)

〔そもそも、禁令が増えれば増えるほど、人民は貧しくなり、人民の知恵が増せば増すほど、社会は乱れているではないか。技術が進めば進むほど、不幸な事件が発生し、法令が整えば整うほど、犯罪者は増加しているではないか。

 聖人はこういっている。「私が無為であれば、人民は自ずと生きる。私が動かずにいれば、人民は自ずと正しくなく。私が手を下さなければ、人民は自ずと豊かになる。私が無欲であれば、人民は自ずと本性に返る。〕(訳 奥平卓・大村益夫)

 身分制についても、「貴は賤をもって本となし、高は下をもって基となす」といっていますね。賤を本にしてはじめて貴が成り立つのである…。

 そういう発言をとってみても、老子の思想を始源とする潮流は、中国思想史のなかでも大きい意味を持っている。

 

P137

 そうですね。さきに孔子をはじめ、諸子百家の貴賤観をざっとみたわけですが、〝穢れ〟とか〝不浄〟とかいう言葉はあまり使われていない。いちばんよく使われているのは〈富貴貧賤〉ですね。孔子にしてもその高弟の中には賤民出身者がいたし、多くの弟子を引き連れて遊行した墨子にしても身分の卑しい出身だった。老子にしても、〈賤〉の立場が本体であると言い切っています。そういうところから見ても、賤民層を〝人外の人〟としてインドのカースト制のように徹底的に差別する思想は、中国の風土からは生まれなかったと見てよいのではないか。

 

P146

 インドのカースト制と違って、中国の良賤制では〈貴・賤〉観念が主軸になっている。これとは対照的に、インドでは〈浄・穢〉という観念が表に出ていましたね。

 ええ。インドの浄・不浄に対して、中国は貴と賤の関係が根底にあった。今まではそこらへんが曖昧なまま放置されていた。思想史的、文化史的にね。

 この〈貴・賤〉観念が律令制の身分秩序の基礎にあったわけですが、いずれの文字も「貝」が関係しています。中国では周の時代の中ごろまで貝が貨幣の役割をしていて、「戔」は小、「虫」は大を表していました。つまり、小さい貝と大きい貝。だから〈貴〉は価値が非常に高く、〈賤〉は価値が低いという意味なんですね。すなわち、身分は人間としての価値の代償を表す。これは〈尊〉と〈卑〉ともいう。だから、中国ではよく、尊卑貴賤という言い方がされる。

 その点、インドは、再生族は上から三つの身分で、一生族のシュードラが四番目で、ここまでが、いちおう人間とみなされていた。ところが、五番目の不可触民は、体系外へはじき出され、〝身分外の身分〟だった。つまり〝人外の人〟だった。

 それが、中国では、〈賤〉は体系の中の最底辺に位置しているが、体型が今では外されていない。これは非常な違いでしょう。

 そうですね。ただ賤の中でも、最低のところに置かれた奴婢は、物として商品と同じく売買され、法的保護の埒外に置かれていた。つまり、私奴婢の場合なんかは主人の私有物とみなされていたわけですね。そういう奴婢が人間とみなされて人権を持つものとして扱われたのかどうか、問題になるところですが…。

 ただ、どんな奴婢でも、触ったらいけない不浄な者とはみなされていなかった。

 そうです。触ったらいかんどころか、主人が奴婢と性的関係をもって子どもを産ませている例がたくさんある。その場合、その子をどういう扱いにするか、いろんなケースが法的に書かれています。また、国家に対する反逆を企てている主人を奴婢は告発できると規定した場合もあります。

 ということは、奴婢であるということ自体は物品と同じものとみなされていたとしても、彼らの潜在的な人格というものは認めていたことになる…。

 そう思いますね。主人の恩赦によって奴婢身分から解放されると、直ちに良民になり得るのだから。根源的な人格権も否認された単なるモノならば、永久に良民になり得ないわけですね。だから奴婢という身分そのものが、その人間を一時的に物たらしめているのであって、その身分から外れた場合は人権を回復する…。

 そこらあたりも、カースト制とまったく違うところですね。不可触民の場合は、どう転んでもその身分から解放されることがない。

 不可触民は生得的に不浄な存在で、どんな浄法で清めてもどうしてもバラモンがとり仕切る〈聖〉の世界に入り得ないとされていたんですね。

 

P148

 〈貴〉の頂点に立つ皇帝は、天命を受けた有徳者として人民を統治する。したがって、身分的秩序の最高位にある。つまり、天命を受けたものとして、天と人とが連なっている接点に位置していた。しかし、孔子を始祖とする儒家は、宇宙の最高神としての上帝という形而上学を次第に抜け出て、皇帝の人格的な徳を強調した。これが〈仁〉。

 皇帝は天命を受けて仁義を世に行なう、そして王道の内容は、務農と興学であり、教学の中心に礼と楽をおいた。これが孔子の学説ですね。

 

P149

 為政者は、善政というか、ほんとに有徳の政治を布かなければ人民に批判されて滅びてしまう。「もし不仁の者が君位にいると、その悪徳を大衆にまき散らす」と孟子は言っていますね。つまり、人民に背いたら、たちまち没落する。そんな王朝はひっくり返してしまえ─これが孟子易姓革命説…。

 

P150

 いろんなものを中国から学び取りながら、君主の呼び名は中国の皇帝を採用せず、天皇とした。日本の古代国家を支配した勢力は、なぜ天皇としたのか。

 唐の時代の皇帝は、絶大な政治権力は所有をしていたが、もはや天命を受けた聖なる君主という、宗教的な神格性は所有していなかった。ところが日本の天皇は、〈聖なるもの〉としての宗教的権威を持っているのに、太政官制度に見られるように、独自の政治権限という点では絶対的な権力は与えられていない。その点では、中国とは反対になっている。(中略)

 その点、二本はまだ法家思想をどうのこうのという段階ではなかった。天皇を神聖なものとしてタテマツリ、君主は天と直接繋がって、天命を受けたということにしておいた方が人民に君臨しやすいし、それに万世一系というところにもってゆくのに都合がよかった。宗教的権威の聖性・統治権の絶対性・身分と地位の永続性─子の三位一体を保持してゆくためには、万世一系というのはきわめて有効なタテマエだ。

 しかもその万世一系ということ自体がひとつのフィクション。江上波夫氏によれば、万世一系という「血統による君主位継承制」は、北方騎馬民族国家の特徴であってそれが日本に伝来したという…。

 だから、天皇制にとっては、『孟子』は、革命を説く危険な書であった。

 

P152

 元を倒したのは、漢民族の上流階級や将軍ではなく、政治の腐敗に基づく社会不安と生活苦の中から立ち上がった下層の農民たちですね。いわゆる「紅巾賊」と呼ばれた一揆的な革命運動。これにやられた。

 その紅巾軍を支えた思想が〝白蓮教〟。これはもともとは念仏三昧を唱えて阿弥陀仏の浄土への往生を根月教団であったが、弥勒信仰や明教(マニ教)などの信仰も加えて、一種の土俗的な仏教運動として展開された。下層の苦しんでいる農民がどんどんこの運動に入って、権力と戦う秘密結社的な組織として大きくなっていった。政府から見れば、得体の知れぬ妖俗であったわけで、これが革命の母体となった。

 厳密にいえば教義は違うけれど、念仏から出発したあたりや、下層の民衆を組織基盤とした点から言えば、日本の一向一揆とかなり似ているところがあるように思われる。農民だけではなく、いろんな無頼の徒や人夫や職人層なども参加したと言われていますね。

 そういう反乱の中から出てきたのが朱元璋。彼は非常に貧しい小作(佃農・でんのう)の出身で、旱魃と伝染病のために父母を失い一家離散し、自分も乞食僧となって諸国を流浪していた。そういう仮装身分の出身者が元朝を倒して

明朝をたて、その初代皇帝となった…。

 これこそまさしく易姓革命

 日本でも豊臣秀吉は賤民荘に近いところから出てきて天下をとったわけだが、自分は皇帝にならなかった。むしろ天皇の権威を積極的に利用した。

 そういうところが違うところです。朱元璋にとっては、皇帝の権限は、もはや俗のレベルのもので聖のレベルのものではなかった。だから皇帝になれたし、なった。なった途端に行政権も軍事権も直接統括とし、隋・唐の律令にもみられない、皇帝の絶対的な独裁権を樹立した。

 ところが、秀吉の場合は、とても天皇の聖性を侵犯できないという観念が、前々から頭の中にあったのではないか。だから天皇の聖性をできるだけ利用して、自分は俗界のトップにいることで満足した。

 そこらへんが万世一系という擬制のもっている威力…。

 擬勢としての聖なる宗教的権威を歴代の君主が連綿と保持してゆくためには、万世一系という犠牲に基づく世襲制度はどうしても必要ですからね。

 擬制に基づく擬勢であったという点では、万世一系天皇制はまさに一大フィクションであった。

 →法的・行政的なシステムよりも、万世一系のような観念の方がやんわりと人を束縛するから長続きするのか。

 →中国も日本も、下克上で天下をとる下層民が現れるのが中世の特徴か。

 

P158

 一口に言えば、賤民は主権を奪われていたという点では国家秩序の正式の構成員とは認められず、その外側から国家を支える補完物に過ぎなかったと言えます。したがって、法規制も、秩序の構成員である良民を主たる対象としたものであって、賤民に関する条項は、良民と関わる場合にだけ現れてくると言えますね。

 まとめて言えば、賤民は、農業に従事する良民以外の、農業より価値低しとされていた仕事に従事する者であったという側面と、国家の定める秩序に対する反逆者として罪人にされたというもう一つの側面がある。後者は、君臣の大義に反した者、家父長制秩序を犯した者、人倫の大義に反したものというように分けられる。

 

P312

 これまでの部落問題は、貧困悲惨論、封建的スラム論、日本残酷物語の一コマの中に押し込まれてきた。もちろん、それぞれが部落問題の一つの側面をついていることはたしかである。だが、そのレベルにだけ絞って語られると、重要なものがすっぽり抜け落ちてしまうのである。

 日本史の中で、賤民と呼ばれてきた被差別民衆の果たしてきた生産的・創造的な役割についての正しい認識が普遍化してくるときこそ、むしろ真の解放への第一歩が始まったと言えるのではなかろうか。

 被差別民衆の歩んできた長い苦闘の歴史を踏まえ、それを基底において、そこから日本の歴史と社会を逆転的に捉え返すこと─そのような新しい視座を持たないで、差別から解放を一般的に唱えても、結局は上からの同情・融和・救済の運動に終始する他はない。民衆の生活と歴史、とくにその核にあった被差別民衆の歴史を原点として、これまでの歴史や文化を見直すこと、それによって身分制のバックボーンとなっていた《貴・賤》《浄・穢》《尊・卑》の観念を根底から破砕していくこと─それを目指さねばならないのだ。

 人間の歴史や文化は、名もなき多くの民衆の手によって作られてきたという事実を明らかにしていくこと、自分たちの祖先が賤民であったことを堂々と胸を張って誇りをもって言える時代が来ること─そのような新しい時代をすべての民衆の手によって実現していく過程こそ、真の意味での解放への思想的基点となるのだ。

 賤民史の構想についての思想的な糸口は、すでに「水平社宣言」の段階で次のようにはっきりと語られている。

 「吾々の祖先は自由、平等の渇仰者であり、実行者であった。陋劣なる階級政策の犠牲者であり男らしき産業的殉教者であったのだ…。犠牲者がその烙印を投げ返す時が来たのだ。我々がエタであることを誇りうる時が来たのだ…。」

 

 →真の平等を目指すなら、差別をなくすなら、人間に対する「貴・浄・尊」という見方をなくさなければならないということになる。「貴・浄・尊」といった身分の人間が存在しなくなれば、「賤・穢・卑」といった身分の人間も存在しなくなる。できるか?こうした慣習や見方に囚われていることを自覚していない、または自分がそういう状態にあることを客観視できてない人間が、いまだにヘイトスピーチなどを平気でやる人間の正体ではないか。人文系知識は教養と呼ばれ、実学に比べると価値の低い虚学と言われることが多いが、やはり、こういう勉強をしない人間はダメだということがよくわかる。

 

  Ⅲ 朝鮮

P183

 明の時代の儒学といえば朱子学全盛の時代ですから、李朝儒教政治も朱子学を基本にしていたわけですね。

 ええ、日本の幕藩体制の教学も朱子学を一つの柱にしていますが、これは朝鮮経由で入ってきたものも少なくない。この点については、阿部吉雄『日本朱子学と朝鮮』(東大出版会)に詳しい。大明律も江戸幕府ではやはり研究していますね。8代将軍吉宗は、唐の律令のみならずこの大明律も研究させています。吉宗の享保の改革のあたりから、日本でも身分統制がますます強化され、とくに賤民政策において、それまで各藩の自治に任せていたのを中央で統一的に規制しようという動きが強まります。

 吉宗は自分もなかなか研究熱心で、法律を非常に重視したそうだから、たぶん古代からの中国、朝鮮、日本の律令を研究して、良賤制の問題に改めて着目したのではないか。朝鮮においても、日本においても、当時の支配権力が、中世段階で弛緩していた良賤制をもう一度見直し始めたというとは、注目しておく必要がある。

 そう思います。そして、賤民政策において、律令型の〈貴・賤〉観だけではなく、さきに見たカースト型の〈浄・穢〉観が次第に濃厚になってくるのもこの段階からですね。

 朝鮮でいえば白丁(ペクチョン)、日本では穢多・非人という呼称にあらわれているように…。

 これらの賤民は、ほとんどインドの不可触民と同じように見なされるようになります。

 

P187 李氏王朝の身分制

 ところで、朝鮮では巫俗、とくに女のミコの巫堂(ムーダン)、いわゆるシャーマニズムも民衆レベルではいまなお強い生命力を持っていますね。これを担ってきた巫覡(女と男のミコ)も賤視されてきたのですね。

 鬼神を祭る者としてですね。崇儒政策からすれば、こんな古代からの呪術めいたものを駆使する者は、国家の宗教政策からも完全に排除されねばならない…。しかし民衆の間では、吉凶を占ったり、開運を願う加持祈禱、それに不幸な死を遂げた者の悪霊を払う─そういう民間信仰としては、依然として巫堂は強い影響力を持っています。

 それから李氏朝鮮の時代は、崇儒廃仏政策で仏教も徹底的に弾圧され、僧侶はほとんど賤民と同じ扱いを受けたんですね。

 そうです。仏教を擁護したのは世宗だけですね。十五世紀後半の成宗の段階では、多くの寺院の土地も奴婢も官に没収され、僧侶も官奴にされる。僧科制度も廃止したから、独自の宗教活動がほとんど行なわれなくなってゆきます。深い山の中にある寺院を除いて、ほとんどの寺院が廃寺になってしまった。それから巫覡も城外に追い出されたりして排除されます。したがって仏教と巫覡が融合して、底辺の民衆を相手にしてなんとか生き延びてゆくわけですね。巫覡の中には僧侶の恰好をしたのがいるのは、そういう理由からでしょう。

 だから大きい都会や町を訪れても、仏教寺院を見かけることはほとんどない。名刹(名高い寺)は、みな人里離れた山の中に残っています。そのへんが、日本の寺院のあり方と違うところですね。

 

  朝鮮の被差別部落民・白丁

P193

 (白丁の起源説の1つ)この説は先ほど見た前者とほぼ同じ起源説ですね。まあその起源はまだはっきりしないけれど、彼らが牛馬関係の仕事をしたり柳行李などの細工をやりながら大道芸や門付芸もやったというところは、日本の河原者と呼ばれた中世の賤民層と実によく似ています。

 

 

  Ⅳ  日本

P206

 そうです。中国において、良人と賤人の二大区分が法制的にもはっきりしてくるのは、南北朝、とくに北魏の時代からと見られていますが、唐律令はこの良賤制を受け継いだ。そして日本の律令も、唐律令のそのような考え方を、大枠としてはほとんど完全にそのまま継承していると言えます。

 この良賤制は、浄・不浄を基準にして組み立てられたカースト制度の〝不可触民〟制とは、その成り立ちが根本的に違う。そう言っていいと思う。

 さきに見たように、この良賤制の場合には、政治的、あるいは社会的な理由で、その当時の国家秩序を握っている支配力によって低い身分に落とされた者から賤民層が構成されていた。

 お前は貴でも良民でもなく賤だ─こう認定するのはその当時の国家権力ですよね。何を賤とするか─そのように断定する価値観、それに基づく基準を決めるのは支配階級。

 その支配階級が支配身分を独占して、みずから貴であると称している。

 政治的に賤民とされたのは、「謀反」「謀大逆」「謀叛」などの国家反逆罪を中心とした罪人が主です。君主を頂点とした国家的秩序を保持していくところに、身分制の本当の狙いがあった。

 

 古代日本における〈浄・穢〉観念

P210

 律令の良賤制の基底にあったのは〈貴・賤〉観ですね。ところが、カースト制の規定にあったのは〈浄・穢〉観ですね。

 日本の歴史における身分差別の推移についてみた場合、この二つの観念はどう絡み合っているのか。

 図式的にいえば、古代から中世初期にかけては、中国から入ってきた〈貴・賤〉観が基軸になり、中世から近世初期にかけては両者併存の段階、それから近世中期以降は、〈浄・穢〉観が次第に基軸になってくる─このように整理できるのではないか。

 古代では身分制の底辺にあって差別されている人々とは賤民と呼ばれ、中世ではいろんな呼び名があるのですが、代表的なものは非人ですね。それが近世に入ると穢多という差別呼称が急速に広がる。このような移り変わりは、何を意味しているのかということですね。

 律令制を導入した古代国家の段階では、中国から導入された〈貴・賤〉観念が中心だった。もちろん、穢の観念、不浄感は太古の時代からあったけれど、身分制の体系にはあんまり反映はしていなかった。

 それが次第に〈浄・穢〉に基軸が移ってくるのは、だいたい平安朝に入ってからですね。つまり、鎮護国家の思想として仏教が支配階級によって取り入れられていたのだが、この段階になってくると民間のレベルにまで降りてくる

あとで見るように、この仏教が殺生戒を中心に触穢思想を振りまくことによって、それまでの古い時代からの浄・不浄観と合体して、〈浄・穢〉観念が急速に普及した。もちろん、天皇制を頂点とした〈貴・賤〉観念も依然として存続していたのであって、その意味では両系列が併存しながら。次第に〈浄・穢〉観念の方が濃厚になってきたと考えられる。(中略)

 『古事記』『日本書紀』では、穢、汚、汚垢、穢悪などが出てきますが、これはケガレ、ケガラハシ、あるいはキタナシと訓まれ、不浄を指している。(中略)

 古くからケガレ意識としてあったと言われているのが、死穢、産穢、血穢…。

 この三つが民俗学のレベルでいう「三不浄」ですね。黒不浄、白不浄、赤不浄…。死や産に対する恐れは、おそらく人間が人間として生き始めたときからあったと思います。つまり。力の弱かった人間の群れと荒ぶる自然との関係の中で、自分の生死や、死んだ後どこへ行くんだろうといった未来への恐怖感があったと思う。もちろん、それが直ちにケガレとしてとらえられたわけではないが…。(中略)

 中国にしても、日本にしても、原始的カオス状態においては、「山河の荒ぶる神々」に対する恐れや、自然を清浄な聖域と考えてそれを汚すことを避けるべきだ、すなわちタブーと見る思想はあったが、それはまだ日常性全体を規制するような宗教的支配思想になっていなかった…。しかし、前期古墳時代から大和王権の形成期に入るにつれて。次第に祭政一致の政治権力に取り込まれて、善悪と同じように浄穢観が独自の倫理的な意味を帯びてくる…。

 ええ、倫理的な善悪観が、次第に美醜の区別と結びつき、さらにそれが浄穢の区別とリンクされて、〈悪=醜=穢〉というように捉えられるのはかなりあとで、それが律令思想の中に取り込まれる。国家秩序が法的に定められると、それが罪と関連してくる。

 八世紀の律令制の段階では、まだ身分秩序の問題として、〈浄・穢〉に関して特別の枠は設定されていない。ただ、神についての清明・清浄の観念が、次第に天皇崇拝と結びついて、今までは日常的な、どちらかといえば生理的感覚ぼレベルであった浄穢観が、国家レベルで政治的意味を与えられるものに次第に変質してきます。

 

  諸教混交(シンクレティズム)としての神道

P221

 たしかに、記紀にあらわれた宗教的理念は、〈浄・穢〉観を一つの軸にして成り立っている。そこでの清浄は天皇、貴族に結びつき、不浄は賤と結びついています。

 古来から日本列島の固有の宗教であった神道を基軸として、そこへ仏教の殺生戒や触穢説が合体し、日本特有の穢意識が形成されたというのが、これまでの定説であった。

 しかし、最近では、日本固有の神道というものが、はたして存在したのかどうか疑問視されている。むしろこれは、大陸や朝鮮半島から入ってきたさまざまの思想のシンクレティズム(諸教混交)ではないか、と言われている。

 朝廷でいろんな祭祀儀礼神道でやっているが、実は古い土着信仰、道教陰陽道儒教などいろんなものを取り入れたゴッタ煮のようなもので、日本固のものとはいえない─こういう意見が前面に出てきた。福永光司氏の『道教と日本文化』(人文書院)は、このような問題についての貴重な研究です。(中略)

 ただここで注意しておかなければならないのは、次のような柳田國男の発言ですね。すなわち、国家神道や種々の教団神道を報じている神道学者の教説や典籍記録ばかり見ていたのでは、日本人の中に「いつの世からともなく信じ来った」民間信仰としてのカミ崇拝の歴史的意味を見落とすのではないかという指摘です。

 具体的にいえば地方小祠の祭祀にあらわれる山の神、海の神、田の神、井の神などのマツリですね。それに朝廷や国家のレベルとは違った民間の年中儀礼、そういうものを長い間担ってきた基層住民の信仰を見落としてはならないということですね。つまり、国家神道と区別された意味での民間信仰と伝承に着目すべきだという、柳田國男のこの指摘は無視できない。(中略)

 堀一郎『我が国民間信仰史の研究』(東京創元社

 西野儀一郎『古代日本と伊勢神宮』(新人物往来社)(中略)

 

  鎮護国家仏教とタイシ信仰

P226

 儒教道教の思想を基底にもっていた中国律令社会は、インドのカースト的身分差別の思想を、簡単には飲み込まなかったことを前の節で話しました。それに対して、日本はどうだったか。日本に入ってきた仏教は、貴族中心の仏教で、天皇の命令で巨大な大仏殿、さらに全国に国分寺を建てる。そして、仏教で、国家を荘厳なものとして支え、天下を治めようとした。その点、中国の仏教受容の姿勢とかなり違いますね。

 日本の場合は、仏法によって国家を鎮定し保護しようという鎮護国家思想ですね。一口で言えば、仏教を国家宗教として取り入れたわけです。律令の中にも、僧侶のあり方について厳しく規定した僧尼令を制定して、厳格な国家規制を行なった。律令によって正式に認定された僧は得度僧。彼らは国家公認の僧侶で、ほとんど皇族・貴族がなる。

 あのように難解な経文は、一般民衆にはとても歯が立たなかったから、初期の古代仏教は、庶民の精神世界とまったく無縁なところにあったと言えると思います。(中略)

 日本の場合は、インドや中国のように千年以上も続いた独自の宗教的伝統もなく、思想的岩盤が弱かったから、外から入ってきたものはかなりたやすく浸透することができたんですね。そして、なんでも混ぜ合わせて、支配者は自分の都合のいいように体系化しながら、政治システムの中へ巧妙に包摂していった。(中略)

 〜聖徳太子はそうした職人層を重んじた。

 太子亡き後も、そういった思慕と伝承はずっと職人の世界に言い伝えられていった。だから広範な職人層を中心に、民衆の支持があった太子一族が生き返ってきたら、人望がそちらにいき、大きい力をもつ恐れがあった。太子の一族を皆殺しにした勢力に連なる系譜が、太子信仰が広がることを快く思わなかったのも、そういう理由があったからですね。

 殺された太子に対する民衆の思慕が、太子信仰として残るわけですね。(中略)(聖徳太子)その出自は貴種であるが、権力者によって抹殺された異端者・追放者としての性格を持っているわけですね。つまり太子は、賤視された職人たちが、自分たちの守護神として担ぎあげるにふさわしい歴史的人物であった。

 いまでも、まだあちこちに〈太子講〉が残っていますね。〈大師講〉という場合もあります。民俗学の本を見ると、「大工・左官・鍛冶屋・桶屋などの職人が集まって、聖徳太子をまつり、飲食しながら賃金勘定などの申し合わせをする講」とあります。その場合、タイシは聖徳太子で、ダイシは弘法大師でしょうね。

 そうでしょうね。両方にひっかけている場合もあります。ダイシはもともと大師(=大導師)のことですね。

 タイシ(大子)とは、もともと神の子、民衆に恩恵を与える貴いマレビトをさした。タイシ信仰の民俗は、すでに『常陸国風土記』などにもあらわれているのだが、このタイシが具体的には聖徳太子に、また仏教の伝播につれて、特に弘法大師に結び付けられていったのですね。聖徳太子は、寺院建立史の大立者であったことから、大工・職人の崇拝のマトになったが、特に山の民、杣人(きこり)、紺掻、金堀り、鋳物師、鍛冶、檜物師、木地師塗師などには、その守護神として崇拝された。中世の庶民世界では、聖徳太子は救世観音の化身と見られたんですね。

 中世の太子信仰は、下層の民衆、特に賤視されていた金堀り、筏流し、箕作り、鍛冶などの職人の信仰と深く関わっている。この点は井上鋭夫さんが『一向一揆の研究』(吉川弘文館)で詳しく追究されていますよね。彼らはやがて、親鸞浄土真宗のもとに結集して、一向一揆の有力な担い手になってゆく…。(中略)

 親鸞の思想形成においても、太子信仰は大きい位置を占めています。法然を訪ねたのも、夢の中での太子の示現によると親鸞は語っている。

 

  仏教の十重禁戒と〈殺生禁断〉

P230

 さて、日本に流れ込んだヒンズー教的色彩を帯びた仏教ですが、これが殺生禁断の思想を強く押し出してゆく。最初の〈殺生禁断〉の詔勅天武天皇4(676)年に出され、翌年には最初の〈放生〉の勅が出されています。朝廷でも死の穢が身に降りかかることを恐れて、死刑を中止し、律の諸条項も停止する。

 先に見た十戒の根本にあるのが、『梵網経』の十重禁ですね。

 その内容は…。

 十重禁戒、十不可悔戒ともいい、大乗の菩薩がこれを犯すときは破門罪・追放罪となります。その項目は、次の通りです。⑴殺戒、⑵盗戒、⑶婬戒、⑷酤酒戒(酒を売る)、⑹説四衆過戒(在家・出家の菩薩及び比丘・比丘尼の罪過を説く)、⑺自讚毀他戒(自らをほめ讃え他をそしる)、⑻慳惜加毀戒(財や法を施すのを惜しむ)、⑼瞋心不受悔戒(怒って相手が謝してもゆるさぬ)、⑽謗三宝戒(仏法僧の三宝をそしる)。(中略)

 

P234

 そういった形で中世の賤民層が形成されていったが、古代からの系譜を引いた賤民もおれば、没落してその中へ新たに流れ込んだ農民もいたでしょう。あるいは逆に脱賤化して、悲惨な境遇から脱出した者もいくらかはいたでしょう。

 そのように、賤民階層の中ではかなり流動があったにせよ、彼らがやっていた特定の職業や、その仕事に従事している人々の居住地域に対する賤視観はそのままだった。いったん固まったそういう意識は、なかなか消え失せるものではない。律令時代の賤民制は、名目的に解体されたとしても、賤視観の枠組みは依然としてなくなってはいない。むしろ、さきに見た〈十重禁〉の思想などが民衆の間に降りてくることによって、浄・不浄の観念が入り込み、賤視の度合いが強化されていった場合も多いと思いますね。

 そうですね。そういう賤民の職業は、もともと古代から、『マヌ法典』に規定されているような、旋陀羅の職業にわりあい近いものが多かった。そこへだんだん不浄観が積み重ねられていった。だから中世を転換点として、身分の高低を、〈貴・賤〉関係だけでなく、〈浄・穢〉関係で見る見方が広がってきた。もちろん、天皇制を頂点とした貴の観念が決してなくなったわけではないが、古代とは違った、新たなる差別感、賤視観がぐっと広がってくる。

 

  漂泊・非定住に対する差別感

P236

 殺生禁断後も食肉の習慣はなくならない。加茂儀一氏の『日本畜産史』(法政大学出版局)(中略)

 散所の一部、宿、河原の民が、差別されている民衆と見られてきた。しかし、それ以外にも、山人、川人、海の人、そういうワタリ(渡り)の層、それから、全国各地を仕事を求めて放浪している商工の民も、「三界に家なし」と賤視されていた。そして太子信仰などの民間信仰を通じて、次第に浄土真宗へ結集してくる。これは非常に大きな意味をもった。彼らもまた、日本の産業・交通・技術・文化の大きな基底を支えた人々だったわけですから。

 彼らが親鸞浄土真宗のもとへ結集して、やがて一向一揆の大きい担い手になっていくわけですね。海、川、山の民で各地をワタリ歩いているから、教線を拡大するには恰好の担い手だったわけですね。

 そして親鸞は、逆にそこから定着農民の方へ教線を広げていった。井上鋭夫氏の『山の民 川の民』(平凡社選書)は、この点で非常に優れています。しかし、流浪の民が不浄観の対象になったというのはどういうことなんだろう。

 いや、直接不浄観の対象になったのではなく、賤の方に入れられたんです。砂鉄を探して蹈鞴(たたら)で火を起こしたり、木地師轆轤を使って細工したりするのは、古代から一種の呪術の系譜を引き継ぐ者と見られていたんですね。中世の遊芸民にしてもそうです。呪術的世界と宗教的唱導の狭間をうろついていた。

 それから、川や海をワタリ歩いているのは定着農耕民ではないということです。中世に入って、各地の農民が自給自立の共同体として惣村を形成し始めると、やはり他から不意に流入してくるヨソ者を警戒しだす。村境から向こう側は、いったい何がいるのかわからない不可視の世界なんですね。幸運をもたらすマレビトがやってくる世界でもあり、魑魅魍魎(山や川に出没するばけもの)がうろつく暗闇の世界でもあった。その意味では、村境を超えてトボトボやってくる漂泊者は、なんといっても不気味な無宿者とみなされたんですね。

 彼らは定着しようにも定着できなかった。河原で原料の砂鉄を次から次へと掘っていく。木地師も木を切り終えると移動する。放浪は非定住です。非定住ということそのものが、差別の始まりの一つなんだな。

 柳田國男被差別部落起源論も、漂泊・非定住というところに、差別・被差別の視点を定めていますね。その立論の全体についてはかなり問題点も多いけれど、非定住はたしかに黙視できない論点の一つですね。

 

  葬送儀礼と河原者

P239

 穢を、生理的な嫌悪感を催すものに直接結びつけていったのはむしろ後の世の発想で、もともとは既成の秩序の侵犯を禁ずるためのさまざまのタブーと関連していた─そのように前に言われたけれども、日本における不浄観には、秩序の侵犯という感覚が入っていたんでしょうかね。

 民衆の日常的感覚では、そういう意識はあまりなかったでしょうね。「それは秩序の侵犯だ」、「それは定められた禁忌に反する」─こういう意識は、支配権力が意識的に上から注入したものですね。

 さきに見ましたように、人間の生(産)と死が、ともにケガレとされて、それが触穢の思想として社会化され、宗教儀礼や神祇制度の中に取り込まれていくのはずっと後ではないか。もちろん、原古の段階では、人間は大自然の前で、いろんな恐怖感に駆られたにちがいない。

 この生(産)と死については、人間は昔から矛盾した両義的な態度をとってきた。この二つは、たしかに既成の秩序(人間関係)に大きい変動をもたらす異常な出来事であって、そのもの自体が後でどうなるかわからない、大きい危険性をはらんだ非日常的なものです。

 たとえば死者についても、人間は二つの基本的に異なった態度をとる。さきにあげた本で大林太良氏は、レオ・フロベニウスの『人類のやんちゃ時代』を援用しながら、死体への恐怖と死者への愛情と尊敬とが、同時に複雑に交錯して現れると指摘しています。したがって、「未開民族はいつも死者への恐れと死者への尊敬の間を動揺しているので、それに応じて、あらゆる葬式の習慣も、死体の破壊と死体の保存との間を動揺している」と指摘しています。(中略)

 根源的な気持ちとしては、たしかにそうですね。その点で注目すべき研究は

赤田光男氏の『葬送習俗にみえる蘇生・絶縁・成仏・追善の諸儀礼』ですね(元興寺文化財研究所編『東アジアにおける民族と宗教』所収)。(中略)

 「葬送儀礼にみえる蘇生・絶縁・成仏・追善の四つの特徴を抽出して論じてきた。葬送儀礼は死体処理とともに、死者死霊に対する儀礼である。死者死霊に対する愛慕と恐怖、死体の汚穢に対する恐怖という、この愛慕と恐怖という二律背反的思惟があることから、儀礼行為の中にもその矛盾する思惟が具体的に現れることになった。蘇生や追善の儀礼は愛慕表現行為であり、絶縁や成仏の儀礼は恐怖、畏怖表現行為である。一見対立する愛慕と恐怖の思惟も時間の経過とともに矛盾なく移りゆく。すなわち蘇生儀礼に見られるような途絶者に対する愛慕観も、やがて死霊、死穢に対する恐怖観がつのって絶縁・成仏儀礼を催すことになり、その儀礼ののち、死霊に対する愛慕の追善儀礼となって現れるのである。また蘇生と絶縁の両儀礼は純粋民俗的内容を呈しているのに対して、成仏と追善の両儀礼は仏教的な色彩が濃く、民俗と習合して民俗仏教的内容となっている。これは仏教が民間へ定着していく中で、葬送儀礼の後半部分の成仏・追善の儀礼を管掌することによって生じたわけである。ことに追善儀礼は仏教の独壇場となった。」

 こういうように深く分析してみると、そうそうに関わる人々を、死のケガレに伝染した人間だと一方的に決めつけるような論法こそ、まさに非人間的な発想ですね。そういうことを言い出したのが、自分ではけっして手を汚さない貴族たち…。

 まさにしかり。そういう発想が差別思想の根源となった…。そういう教説がしきりに唱えられるようになってから、河原者は、守るべき戒律や儀礼を侵犯している反仏教的な人間だという認識が、次第に広まってきた。

 河原はごみを捨てたり、死体を埋めたりするから、不浄な場所とされた。皮も河原で剥ぐ。染め物も河原でやる。ですから、河原に住んでそこで仕事をやる人々は全部〈河原者〉というレッテルを貼られて、次第に不浄観、賤視観で塗りつぶされてしまう。いろんな芸能も広い河原でやることが多かったから、やはり〈河原者〉と呼ばれた。

 その意味では、河原こそ、最も人間的な場所なんだ。ワタリなんかも、放浪していると河原へ着くし、船頭もそこへ出入りするということになる。今の被差別部落で、もともとワタリだったというところもあるし、船頭だったところもあちこちにある。渡守が先祖だった部落もある。

 この春訪れた奈良の大和川沿いの被差別部落は、その歴史を遡ると、もともとは船頭だった。また、街道筋の馬借や車借をはじめ、交通の担い手というのは、だいたいずっと差別されてきたんですね。これは、中国でも朝鮮でも同じですね。

 川の渡守は水路を一番よく知っていて、氾濫したときに堤防を直したりする、そういう技術をもっていた。民衆の生活史のなかでも、なくてはならぬ存在だった。そういう人たちを賤民として差別してゆくなんて、まったく許せない。そう思うと、だんだん激してきましたよ…。

 

  王朝貴族文化と賤民文化

P244

 本当に創造的な芸術というのは、生き方そのものが根本的に問われるという、ギリギリの緊張関係と、こう生きたいという痛切な欲求がなければ生まれてきませんよね。上におって支配していて、たえず民衆を見下している貴族、武士─そこから本当の人間が見えるかといえば、見える方がおかしい。

 だから、平安朝の貴族文学と言われているものでも、最上級の管理者からは出ていない。業平にしろ紫式部にしろ清少納言にしろ和泉式部にしろ、王朝貴族のトップで映画を極めていたかというと、そうじゃない。大伴家持だってそうでしょ。

 和泉式部でも、いろんな問題抱えてね。人間として常に悩み苦しみながら、本当に生き抜こうとしたから、文学としても優れたものを創造し得た。実朝は将軍だけれども、権力などまったくなく、結局、殺される。しかも、つねにその死を予感している。

 その点では、貴族文化、武家文化、町人文化、賤民文化と並べた場合、賤民文化が人間としての苦悩と悲惨と栄光を一番背負っている。そういうものを背負いきれんほどどっさり背負い込んでいる。

 彼ら賤民層の生活の歴史が、差別・抑圧・苦難の歴史であったことは紛れもない事実です。しかし、その悲惨な歴史のなかでも、民衆はさまざまの伝統的芸能をもって自分たちの仕事に従事し、長い歴史とともに伝承されてきた生産と文化を担ってきたのですね。そういう自負と誇りをもちながら、苦難に耐えつつ生き抜いてきたのです。

 本当にそうですね。だが、彼ら被差別民衆が担ってきた生産と文化の意味するものは、たえず歴史の表舞台から抹殺され、陽の当たらぬ陰の世界に追いやられてきたんですね。これまでの官許歴史学では、賤民の生活や仕事の中身に具体的に立ち入ることはタブー視され、そしらぬ顔をして黙殺され続けてきました。そして、彼らが作り上げてきた技術や文化は、その上澄みの部分だけが巧妙に吸い上げられ、あたかも支配文化がそれを生み出してきたかのように、記述され教えられてきたのです。どの教科書を見ても、世阿弥がどういう出自であったかということは、はっきり書いていない。河原者の生活と文化を深く書き込んだ教科書もありません。

 だが、日本の歴史の奥底まで分け入ってみると、日本文化の深層には、差別され抑圧されてきた民衆によって担われてきた〈賤民文化〉という巨大な地下伏流が走っていることがわかってくる。

 その問題は、一言でいえば、賤民の歴史、ひいては被差別民衆の歴史ひいては被差別民衆の歴史そのものを、日本の歴史の総体のなかでいかに位置づけるかという問題ですね。

 その意味では、世阿弥の仕事は極めて象徴的なものを含んでいる。

 

  賤民芸能としての猿楽能

P246

 私は世阿弥の問題をここで出したいんです。世阿弥も賤民の出ですね。

 世阿弥は、古代賤民の楽戸(がっこ)の系譜をひいていますね。(沖浦『にお本芸能史における賤民の系譜』『東京部落解放研究』25)。(中略)

 この世阿弥と善阿弥(東山文化、義政期に作庭技術によって活躍した山水河原者)に触れながら、横井清氏は次のように言っている。

 「いま、彼ら「賤民」を、「穢多」という厳しい差別観念のたちこめた漢字表記を与えられた「河原者」、とりわけ作庭のことに従事した山水河原者の眼とを通して「東山文化」の高峰を眺めようとするときも、「乞食の所行」(『後愚昧記』)という言葉は私たちの出発点であり、同時にまた終着点でもあると考える。黒々とした円環をなしつつ私たちを捉えて離さないその言葉のなかに、室町文化─伝統文化の創出へのばねが潜んでいたのだから。」(岩波講座『日本歴史』中世3)。

 そしてその善阿弥には、次のような有名な発言が残っています。「某一心に屠家に生まれしを悲しむ、故に、物の命は誓うて之を断たず、又、財宝は心してこれを貪らず。」─これはすごい発言ですね。最近は、財宝は心して心してこれをむさぼる芸術家がいるから(笑い)。

 今の善阿弥の言葉は、当時の仏教思想を忠実に反映していますね。殺生戒というタブーの前にたじろぎながら、生き抜いてゆかねばならぬ悲壮感が込められている…。

 「屠家」と自分でいって、「物の命は誓うて之を断たず」と誓っているところですね。しかし、世阿弥も善阿弥も自分の出身を逆手に取って、結果としては将軍および貴族たちを自分たちの芸能の前に跪かせた。もともと賤民文化というものは、そういう意気込みと活力を持っていて、中世のさまざまの未sん衆文化の中でも一際光彩を放っていていた。

 世阿弥ですが、室町時代から今までに、一千曲以上の謡曲、つまり、猿楽能の詞章が作曲されている。そのうち、今日まで芸術的生命力があってよく上演されているのは二百あまり。これはほとんどみな観阿弥世阿弥、宮増、元雅、禅竹などの手になったもの、つまり、中世の段階のものなんですね。

 猿楽能が完全に武家階級に丸抱えされてから、とくに近世以降、幕府・武家の式楽になってからは、ろくな曲はない。今でも観阿弥世阿弥時代の作曲が最高なんです。人々から賤視されながら諸国を回って興行し、懸命に生きてきた段階のものがやはり優れている。何百石をもらって安定した生活を送れるようになってからは、作品もダメになっている。完全に芸術的生命力を喪失してしまいました。(中略)

 

 それから、中世の芸能で見逃すことのできないのは、遊女の系譜です。平安期の女流文化は、貴族の世界だけで論じられているが、これだけでは当時の文化・芸能の総体を見ることはできない。

 たしかにそうですね。白拍子、遊女の系譜は深く追求してゆくと、日本文化史の巨大な深層潮流、地下伏流だと言えるでしょう。これは後でみる出雲阿国にもつながる。事実、後白河院は遊女から今様を教えてもらって、『梁塵秘抄』という、当時の民衆のはやり歌を集めた優れた歌集を編んだりしている。

 これは、当時の社会の底辺にいた遊女、傀儡女、巫女(みこ)らの口ずさんだ世俗の歌を集めたものですね。その意味では、我が国歌謡史上でも注目すべき内容をもっている。当時の末世意識や地獄落ちの切実な恐怖やから、その苦悩と不安をひたすら仏の救いに頼った哀れな庶民の心情が歌いこめられ、その底流には賤視されていた人々の深い悲哀が秘められていた。

 

  社会の底辺に生きる〝無縁〟人びと

P253

 ここまで中世の芸能、とくに猿楽を中心にいろいろ論じてきたんだけど、彼ら遊行の芸人たちは、ほとんど僧形をしていたんですね。昔の絵図を見てもそうです。僧の恰好をしていることで年貢や公事から逃れられるということもあるけど、逆に寺社などに対して一定の奉仕、賦役をやらなければならなかったわけですね。世阿弥もそうだったんだが、猿楽一座もみなそうですね。しかし、猿楽一座はまだ恵まれていたほうです。その下には、まさに寺社権力の庇護下にもいなかった河原者たちもいたんです。(中略)

 

  〈有縁〉の世界と〈無縁〉の人びと

P260

 この無縁非人とされた人々は、さきに見た職絵思想と深く関連させられながら、〈無縁〉の烙印を押されていったということを忘れてはならないと思う。末世意識が広がると、民衆のレベルでも神仏の威力にすがるという気持ちが強くなってくる。寺社権力はそういう動きを逆手にとって、朝廷に働きかけて自分たちの所領を拡大し、殺生禁断の禁制を求める。

 そして、魚鳥断ちで精進潔斎して穢を断つ「六斎日」(毎月の八・十四・十五・二十三・二十九・三十日の計六日)を設け、捕らえられた鳥や魚を買い集めて放ちやる儀式である「放生会」を盛大に催す。

 そうなってくると、穢とされたものに直接触れる仕事をしている下層の民衆や殺生を生業としている人たちは、もう精神的にも身動きがとれなくなってくる。非人に施し物を与えて賑恤(しんじゅつ)・施療の面でも我が国の社会事業史上で大きい足跡を残した西大寺叡尊や忍性にしても、聖域から徹底的に排除されたそういう人たちの中へ入っていったが、彼らを救済しながら斎戒を与えて八戒を守ることを誓わせた。つまり、哀れな非人を救済しながら殺生禁断の思想を広げていったわけだから、非人たちに対する賤視観はかえって増大していったと言えます。

 ということは、〈無縁〉者が〈有縁〉の世界になんとかつながろうとすれば、自分たちで殺生戒を守り、まず我が身から穢を取り除いてゆかねばならない─そういう論理に承伏したということですね。つまり、〈無縁〉の世界で居直って、その世界を足場にして人間の解放や自由を追求するのではなしに、自分たちの住んでいる俗世界や仕事をいったんは否定して出直さざるを得ない…。そうなれば、殺生禁断や触穢思想という当時の支配体制がばらまいたイデオロギーに制圧され屈服していったことになる。(中略)

 

 結論的にいって、網野善彦氏の〈無縁〉非人論はやはり甘い気がします。網野説では、「遍歴・漂泊」は必ずしも社会的賤視の対象になっていなかったとされているが、はたしてどうでしょうか。

 〈無縁〉〈無主〉の中で生きながら、何かにつけて卑賤視されていた下層の民衆は、やはり、たえず〈有縁〉〈有主〉を求めていたのではなかろうか。彼らの生活は、〝無縁の原理〟が貫徹できるほど自由な理想郷ではなかった。また、上層階級が握っている〝有縁の原理〟に、はっきりと対抗できるだけの〝無縁の原理〟を、自分たちの側から構築できなかったことも事実です。氏の、その点での、文化史的・思想的な突っ込みはあまり明確でないと思いますね。

 天皇・貴種をシンボルとして担いでいる場合には、差別されていたことの裏返しの証明である場合が多いわけですね。近世の職人層や賤民層が保持した由緒書が、彼らの先祖の出自を高貴な貴種においている場合が多いことはまえに述べましたが、一見してそれとわかる偽作系図が多い。いわゆる河原巻物と言われている文書類ですね。〈無縁〉から〈有縁〉を求めて、はかない努力と虚構によって、少しでも身分的上昇を図ろうとした彼らの気持ちは理解できるけれども、それはやはり、支配階級の〝有縁の原理〟と本当の意味で対決する思想ではなかった。

 この問題は、賤民文化の領域で多くの「貴種流離譚」が見られるという事実を含めて、とくに文化人類学民俗学の視点からさらに深く分析せねばならない課題ですね。

 

  近世身分制と被差別部落の起源

P274

 ところで、今日の被差別部落の起源論についてはどうですか。

 起源を論じる場合には、たとえば、胚胎期、形成期、完成期というように、いくつかの段階に分けて考えねばならない。

 胚胎期というのは─他に適当な言葉があればそれに変えてもよいのですが─差別の社会的土壌が次第にできあがり、身分の観念がその根を下ろしてゆく段階。形成期は、そのような動きが支配権力によって政治的に推し進められ、差別的規制が実態としても各地で始められてゆく段階、完成期は、法制レベルで身分体制が全国的に確立されてゆく段階。この三つの段階を経て、初めて分析的な討議が花押になるんですが、それが今まではゴッチャにされていた。いったい、形成期を論じているのか完成期を論じているのかをはっきりさせないで、いや太閤検地のころだ、いや元禄期だと論じてみても、どのレベルでの起源を論じているか曖昧だからスレちがいになってしまう。

 中世の段階で、差別観が、〈貴・賤〉観から次第に〈浄・穢〉観へと移っていきますが、一番卑賤視されるようになったのが、河原者の中でも、直接的に殺生に関わり、死穢に触れる人たち、とくに皮剥ぎと清目ですね。

 しかし、武家権力にとっては、皮革は極めて重要な生産品です。各地の戦国大名は皮が欲しい、武器が欲しいということで、彼らを城下町の一部に囲い込む。もちろん厳重に殺生戒が行なわれていた時代ですから、生きている牛馬は殺されない。斃牛馬からだけ皮を剥いで武具や太鼓などを作るのですが。また、屍体をはじめいろんな不浄物を片付け清掃させる清目がどうしても必要である。清目にケガレを清めさせ、支配者層はそれに手を触れないようにする。そういう形で、近世賤民制の核になる被差別集落が各地で次第にできていったところが多い。

 また、新田開発にも、当時の下層民衆を強制的に動員した。堤防の補修や水路の付け替えなどの難工事にも動員した。そこがそのまま被差別部落になったところも少なくない。

 →胚胎期、形成期、完成期という分析視角が必要。

 

  近世賤民層の諸系譜について

P278

 そこで、商業流通の発展やいろんな面で幕藩体制が最初の危機を迎えたときに、八代将軍吉宗享保の大改革をやる。彼はなかなか鋭敏だったから、今まで直接手をつけていなかった賤民問題に深い関心をもった。文化や産業面で見逃せない力をもつようになってきた賤民層をはっきり取り締まらねば、将来において大きい問題になるというわけで、昔の唐の律令から日本の律令、当時の明の律令李氏朝鮮律令─これらを全部読んで研究させる。この片腕が大岡越前守です。この二人で組んで賤民対策に乗り出す。賤民性が弛緩していることに気づいて、近世に入って再び締め上げたわけです。