周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自殺の中世史3─6 〜東寺の大湯屋と自殺教唆〜

  応永十七年(一四一〇)十二月二十八日条

        『東寺廿一口供僧方評定引付』1─199(思文閣出版、2002)

 

           十二月廿八日

    教遍 宣弘 宗海 賢仲 紹清 杲暁 重賢

    宗源 宏済 賢我 宗順 長賢 快寿 快玄

    光演

 

   (大輔)     (中将)

 一 重禅阿闍梨殺害并光淳阿闍梨自害事

  夜部廿七日戌初点、四足門内〈宝菩提院前〉、重禅阿闍梨〈籠衆実相寺法印

  弟子〉被殺害了、敵人事、先於寺中糺明之由、及群議、仍俄

  催老若評定〈不定額・若衆、悉相催之、及夜陰間、著

  直綴、面々会合了〉、糺明事子細之処、聊依差申輩、於当座

        (中将)              (嫌疑)

  相尋之処、光淳阿闍梨〈金蓮院法印同宿〉相当検議、仍難其科

  雖然、所詮、此仁就師匠、可置金蓮院法印方之由、衆議落居之間、

                    少納言

  相副公人等、彼仁送金蓮院之処、執行栄暁僧都走来申云、此光淳阿闍梨

  俗縁者候、平申請、召具、可籠我在所之由、申請之間、其上不

                (栄暁)

  子細之由、公人等領状之処、彼執行僧都、於湯屋自害之由、勧之

  間、遂及自害了、先代未聞珍事、言語道断次第歟、仍彼光淳阿闍梨供僧職

  事、可闕分之条、勿論也、雖然、年明可其器用之由、評定了、

            満済

  就中、重禅阿闍梨三宝当寺務門弟也、且此子細、可注進歟、但歳末祝著

  之折節、可如何哉、内々密々以内者申哉之由、評定了、

 

 「書き下し文」

 一つ、重禅阿闍梨殺害并びに光淳阿闍梨自害の事

  夜部(二十七日)戌の初点、四足門内〈宝菩提院前〉、重禅阿闍梨〈籠衆実相寺法印の弟子〉殺害せられ了んぬ、敵人の事、先づ寺中に於いて糺明あるべきの由、群議に及ぶ、仍て俄に老若評定を催し〈定額・若衆を限らず、悉く之を相催す、夜陰に及ぶの間、直綴を著し、面々会合し了んぬ〉、事の子細を糺明するの処、聊か差し申す輩有るにより、当座に於いて相尋ねらるるの処、光淳阿闍梨〈金蓮院法印の同宿〉嫌疑に相当す、仍て其の科を遁れ難し、然りと雖も、所詮、此の仁の師匠に就き、金蓮院法印方に預け置くべきの由、衆議落居するの間、公人らを相副へ、彼の仁を金蓮院に送るの処、執行栄暁僧都走り来たり申して云く、此の光淳阿闍梨、俗縁の者に候ふ、平に申し請ふ、召し具して、我が在所に召し籠むべきの由、申し請ふの間、其の上子細有るべからざるの由、公人ら領状の処、彼の執行僧都、大湯屋に於いて自害すべきの由、勧むるの間、遂に自害に及び了んぬ、先代未聞の珍事、言語道断の次第か、仍て彼の光淳阿闍梨供僧職の事、闕分と為るべきの条、勿論なり、然りと雖も、年明けて其の器用を定むべきの由、評定し了んぬ、就中、重禅阿闍梨三宝院(当寺務)門弟なり、且つ此の子細、注進すべきか、但し歳末祝着の折節、如何たるべきや、内々密々に内者を以て申すべきかの由、評定し了んぬ、

 

 「解釈」

 一つ、重禅阿闍梨殺害ならびに光淳阿闍梨自害のこと。

  二十七日夜、戌の初刻(午後8時ごろ)に、宝菩提院前の四足門の内側で、重禅阿闍梨(籠衆実相寺法印隆禅の弟子)が殺害された。「加害者のことは、まず寺中で糺明するべきだ」と衆議で決定した。そこで、すぐさま宿老・若衆を集めた会議を開き(廿一口方・若衆を限らず、すべての僧侶でこの会議を開催した。深夜に及んだので、直裰を着て各々集合した)、事件の詳細を究明したところ、少しばかり犯人の名前を訴え出るものがいたことにより、その場で尋ねたところ、光淳阿闍梨(金蓮院法印杲淳の同宿)に疑いが掛かった。よって、その罪を逃れることはできない。しかし、結局のところ、「この光淳阿闍梨は、師匠である金蓮院法印方に預け置くのがよい」と衆議で決定したので、公人らを付き添わせて、この光淳を金蓮院に送ろうとしたところ、執行(修理別当)栄暁僧都が走ってきて申すには、「この光淳阿闍梨は、世俗における私の縁者です。何とぞお願い申し上げます。光淳を引き連れて、私の在所に押し籠めてください」と願い出たので、「とりたてて異論があるはずもない」と公人らは了承したところ、この栄暁僧都は、「大湯屋で自害せよ」と光淳阿闍梨に勧めたので、とうとう自害してしまった。前代未聞の大事件である。とんでもないことであろう。よって、あの光淳阿闍梨の供僧職が欠分となるにちがいないことは、言うまでもないことである。そうではあるが、「年が明けて候補者の器量を見定めるのがよい」と衆議で決定した。とりわけ、重禅阿闍梨三宝満済(当寺務)の門弟である。すぐにこの事件の詳細を注進するべきだろうか。ただし、この歳末祝賀の時節に注進するのはどうであろうか。内々にこっそりと内者(供僧らの被官か)をもって申し上げるのがよいだろう、と衆議で決定した。

 

  「注釈」

「東寺廿一口供僧方評定引付」

 ─東寺の廿一口供僧方は鎌倉後期に公家(朝廷)の支援によって創られた国家祈祷(公家長日祈禱)を行う寺僧組織で、その経済的基礎として大山庄・垂水庄・太良庄・平野殿庄・弓削島庄・矢野庄・上野庄・河原城庄等の所領が給付されていた。これ以降、東寺内には武家長日祈祷を行う鎮守八幡宮供僧方や伝法会を行う学衆方等十個内外の寺僧組織が置かれ、廿一口供僧方と並行して活動していた。廿一口供僧方は、この公家長日祈祷の実施や所領の支配などについてその経営を行うわけであるが、その方式は構成メンバーの供僧の自治的な共同経営であり、供僧が全員参加する会議=評定によって指針が決められ、実行されていた。また、この廿一口供僧方は東寺の寺僧組織の中核であって、その評定では廿一口供僧方の経営のみならず、東寺全体に関わる重要事項もこの組織の評定で審議された。そのため、この評定の議事録である引付には、東寺の対公家、対武家、対守護、対権門との交渉などが記され、室町・戦国期の政治・経済・社会あるいは文化を知りうる格好の資料となっている。したがって、この引付は歴史学ばかりでなく、文化史・美術史・建築史・国語学その他の広範な学術分野からも利用されている。

 また、廿一口供僧方評定引付が含まれる東寺百合文書や、教王護国寺文書・東寺文書等の東寺旧蔵文書は、全体で三万点に及ぶ膨大な文書群であるが、これらは、廿一口供僧方をはじめとする中世東寺における寺僧組織の経営活動の結果産み出されたものである。この文書群の中にあって、この評定引付はいわばその中核となる文献であって、これと他の文書との関連も緊密である。したがって、廿一口供僧方評定引付の編年史料があれば、この膨大な文書群の概要を一通り通覧することが可能となるのである(「はじめに」『東寺廿一口供僧方評定引付』第一巻、思文閣出版、2002)。

 

「籠衆」

  ─参籠衆(勧学会衆)のことか(富田正弘「中世東寺の寺院組織と文書授受の構造」『京都府立総合資料館紀要』第8号、1980年、167頁)。

 

「実相寺法印」─隆禅(前掲富田論文の索引参照)。

 

「金蓮院法印」─杲淳(前掲富田論文の索引参照)。

 

 

*まずは事件の概要を整理しておきます。事の発端は寺僧の殺人事件でした。大晦日を間近に控えた二十七日の夜、金蓮院法印杲淳の同宿である光淳阿闍梨は、実相寺法印隆禅の弟子である重禅阿闍梨を殺害しました。衆議の結果、犯人の光淳は師僧の杲淳に預け置かれることになったのですが、公人たちが光淳を連行しようとしていたところ、東寺執行の栄暁僧都が口を挟んできたのです。栄暁は光淳の縁者であることを理由に、自身のもとに監禁することを提案しました。それに対して公人たちは反論することもなく、栄暁に引き渡してしまいました。その後、栄暁は光淳に対して「大湯屋で自害しろ」と勧めたので、光淳はそのまま自殺してしまったのです。

 さて、この史料で注目したいのは、「於湯屋自害之由、勧之間」という栄暁の自殺教唆です。なぜ栄暁は光淳に自殺を勧めたのでしょうか。また、どうして「大湯屋」という場所を指定したのでしょうか。

 まず1つ目の疑問について考えていきたいのですが、その前に明らかにしておかなければならないのは、中世寺院における殺人犯の処罰の仕方です。東寺の事例ではないのですが、中世の南都寺院では、殺害や盗犯などの犯罪に対して、広く死刑が行なわれていました(清田義英「中世死罪考」『早稲田法学』57─3、1982・7、269・271頁、https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=8219&item_no=1&page_id=13&block_id=21)。奈良と京都という地理的な違いで、死刑がなくなるとも思えないので、おそらく東寺でも死刑は執行されていたと考えられますが、今回の場合、衆議によって、光淳は師僧の金輪院杲淳に預け置かれることになっていました。杲淳は廿一口供僧方の年預を何度も勤める有力者であったので(前掲富田論文の索引参照)、今回の衆議は彼に配慮して、光淳は死刑を免れたのかもしれません。

 ところが、この決定に対して、俗世の縁者である執行栄暁は、金輪院方に移送される前に光淳の身柄を引き取り、自殺を勧めたのです。縁者であるならば死罪を免れたことを喜びそうなものですが、なぜか反対に自殺するように要求したのです。この疑問を考えるためにも、今回の被害者がどのような人物であったのかを、改めて確認しておきましょう。

 殺害された重禅阿闍梨は、別当代を勤める実相寺隆禅の弟子であり、東寺の寺務(長者)三宝満済の門弟でもありました。両者ともに、金輪院以上の有力者になります。したがって、このまま光淳が死罪を免れてしまうと、実相寺方や三宝院方から不満が噴出する可能性があります。こうした火種を消すためにも、栄暁は光淳に自殺を勧めたのではないでしょうか。

 次に、2つ目の疑問について考えてみようと思います。栄暁はなぜ「大湯屋」で自殺するように勧めたのでしょうか。

 「湯屋」とは湯浴みをする施設のことですが、中世では湯起請や集会、犯罪者の拷問を行なう場でもありました。その中で、とりわけ注目されるのは、集会を行なう場所であったことです。松永勝巳氏の研究によると、湯屋とは、「聖僧」(賓頭盧尊者文殊菩薩)が来臨する清浄な場であり、その御前でなされた衆議と総意は、論理を越えて正当性を確保することができたそうです(「湯屋の集会」『歴史学研究』732、2000・1)。松永氏の研究は興福寺を分析対象にしたものですが、東寺でも湯屋を集会の場として使用している事例はいくつも見つかるので、同じように理解しても問題ないと考えられます。つまり、「大湯屋」は「東寺全体」の意志決定をする場であったのですから、栄暁が光淳に対して大湯屋で自殺するように勧めたのは、被害者側だけでなく、「東寺全体」に向けて贖罪の意を示させるためだったのではないでしょうか。