周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

楽音寺文書43

    四三 小早川仲好安堵料足免状

 

 安芸国沼田庄梨子羽郷南方内」楽音寺院主職継目安堵料足事

 右於彼安堵料足者、自往古」令其沙汰、依各別宿願、」

 自仲好代始而、至于子々孫々、永代」令止之者也、不異変

 之儀、然者守彼置文之旨、可其沙汰」状如件、

  (1393)

  明徳〈二二〉年〈癸酉〉九月 日 平仲好

                   (花押)

 

 「書き下し文」

 安芸国沼田庄梨子羽郷南方の内楽音寺院主職継目安堵料足の事、

 右彼の安堵料足に於いては、往古より其の沙汰を致さしむと雖も、各別の宿願有るにより、仲好の代始より、子々孫々に至り、永代之を停止せしむる者なり、異変の儀有るべからず、然れば彼の置文の旨を守り、其の沙汰致すべきの状件のごとし、

 

 「解釈」

 安芸国沼田庄梨子羽郷南方のうち、楽音寺院主職の継目安堵料足のこと。

 右、この継目安堵費用は、昔から支払わせていたが、とりわけ、そちらからの年来のお願いによって、私仲好の代始から子々孫々に至るまで、永久に費用負担を停止するものである。この取り決めを破ることがあってはならない。したがって、あの置文の内容を守り、寺務を勤めるべきである。

 

 

 「注釈」

「南方村」

 ─現本郷町南方、竹原市小梨町。上北方村・下北方村の南に接し、鎌倉時代に二分された沼田庄梨子羽郷の南半にあたる。村の北部を蛇行して東流する沼田川支流尾原川と、その市流域に展開する村で、棚田が発展し、溜池も多い。北東部は低地が広がり水害を受けやすいが、他の地域は逆に水が不足しがちであった。尾原川沿いに山陽道が通り、尾原川の支流三次川沿いに三次藩の海港であった忠海(現竹原市)に至る三次往還が縦貫する。尾原川の北岸丘陵部にある御年代古墳・貞丸一号古墳・同二号古墳に代表される後期古墳が村内各地に構築されている。平坦部には条里制が施行された形跡もあり、沼田庄開発領主沼田氏の基盤の一部として早くから開発された。北部の楽音寺山南山麓に沼田氏の氏寺楽音寺があり、楽音寺谷を中心に二院一八坊を擁して栄えた。

 源平の争乱で沼田氏が滅亡した後、地頭小早川氏が沼田庄に入り、在地領主として着実に成長していったが、預所・名主との間で支配権の競合が見られた。村南部、三次川沿いの蟇沼にある蟇沼寺(東禅寺)は、当村域にあった弁海名の名主たちの信仰の中心で、預所を中心とした荘園領主側の拠点でもあった。梨子羽郷は一時北条氏の所領とされたこともあったが(蟇沼寺文書)、建武五年(1338)正月十六日付足利尊氏下文写(小早川毛文書)では竹原小早川景宗が梨子羽郷半分(南方村)地頭職を安堵されている。こうして当地は現竹原市域を本拠として竹原小早川氏の所領の北端になり、沼田小早川氏の所領との接点として重要視され、弁海名には代官が派遣された(東禅寺文書)。なお、正応四年(1291)二月十九日付の比丘尼浄蓮寄進田畠坪付(楽音寺文書)に「紙すきか垣内」「番匠四郎跡畠」などが見え、楽音寺を中心に各種手工業者がいたことが知られる。小早川隆景の時代には毛利氏の領国に組み込まれ、慶長元年(1596)には検地が実施されている(同文書)。(中略)

 神社に弁海八幡宮(現弁海神社)、日名内(ひなない)に鎮座し「安芸国神名帳」の生石明神とされる八幡三島神社、宗長の八幡宮(現南方神社)」、蟇沼の八幡宮、尾原の八幡厳島神社、松原の厳島神社があり、寺院に梨子羽郷四ヶ村支配の楽音寺とその塔頭法持院、東禅寺、下北方村内の飛地心光寺(現浄土宗)、廃寺には村山家檀那帳(山口県立図書館蔵)の天正九年(1581)分の舟木の項に見える定恵寺に相当する常円寺(常恵寺ともいい真言宗)などを記し、沼田小早川氏系の勢力の最西端にあって日名内氏が守った宇都枝畠山(胡山・日名内)城跡、小梨山城跡(現竹原市)があると記す。なお、常円寺跡にある五輪等残欠基礎に「至徳三年丙[  ]七月十日沙弥円阿」の刻銘がある(『広島県の地名』平凡社)。

 

「継目安堵」

 ─①将軍・大名の代替わりに、その家臣や寺社の所領・所職を安堵すること。②例えば、農民がその所職(名主職)を相続するとき、荘園領主がこれを安堵すること(『古文書古記録語辞典』)。

 

「彼置文」─未詳。