周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

楽音寺文書51

    五一 小田景盛寄進状

 

 (安芸豊田郡)

 釜山之貳反之内壹反」六斗代反銭ふたへとも」末代寄進申候、永代可知行

 候、其」方死去候者何之寺家江茂」寄進之候、為後年件、

  (1586)        小田又三郎

  天正拾四年〈丙戌〉貳月吉日 景盛(花押)

   (豊田郡)

   平坂寺宥忍法印

         参

 

 「書き下し文」

 釜山の二反の内一反六斗代・反銭二重ともに末代寄進し申し候ふ、永代知行有るべく候ふ、其方死去し候はば、何れの寺家へも之を寄進有るべく候ふ、後年の為件のごとし、

 

 「解釈」

 釜山の二反のうち一反六斗代の地と、そこから二重に徴収する反銭の徴収権を、後の世まで寄進し申し上げます。永く領有してください。あなたがお亡くなりになるようなことがありますなら、どの寺へもこれを寄進してくれればよいです。将来のため、寄進状は以上のとおりです。

 

 「注釈」

「二重」

 ─二重成(ふたえなし)のことか。「二重に年貢を納めること。また、命じて二重に納めさせること」(『日本国語大辞典』)。よくわかりませんが、この土地には異なる名目で二種類の段銭を賦課されていたものと思われます。

 

「平坂寺」

 ─現本郷町船木平坂。古代末期から沼田庄の中心寺院であった真言宗楽音寺と関係の深い寺院の一つで、所在地の地名によって平坂寺と呼ばれた。

 永仁五年(1297)十月二十二日の地頭尼某下知状(東禅寺文書)に見える蟇沼寺(東禅寺)院主職をめぐる争論のなかに、他領の平坂へ行き、平坂寺に居住している僧は院主職を主張する権利はないとある。正和三年(1314)五月十八日付一宮修正会勤行所作人注文(蟇沼寺文書)によると、一宮(現三原市の一宮豊田神社)修正会の初夜導師は平坂寺があたっており、守護人三人のうちにも平坂寺が見える。継目安堵御判礼銭以下支配状写(小早川家文書)の文明十二年(1480)十月分に「御判御礼銭之事」として「一貫文 平坂寺」とあり、同十九年八月二日分に「一貫文 平坂寺御折カミ御礼銭」とある。天正十四年(1586)二月吉日付の小田景盛寄進状(楽音寺文書)では、平坂寺宥忍法院宛に、釜山(現三原市)の二反のうち一反六斗代の反銭などを末代まで寄進するとしている。天正年間小早川隆景が三原城(現三原市)を整備したとき、平坂寺もともに三原へ移ったが、江戸時代に半ばにはすでに廃寺となっている(『広島県の地名』平凡社)。