周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

村井康彦論文

 村井康彦『文芸の創成と展開』(思文閣出版、1991)

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

 「中世武門の精神構造」(初出1977)

 P253 武者の罪業意識

 むろんこれらがすべて実話とは思えないが、武者が無間地獄に堕ちる罪深い存在であるとの認識があったことを物語っている。

 そしてこうした認識が、当時昂揚していた浄土信仰に触発されたものであることは言うまでもない。恵心僧都が『往生要集』で取り上げたように、浄土往生への思いが地獄への恐怖心を生んだもので、そういう宗教意識の昂揚がことに殺人殺生を業とする武者を罪深い存在として強く意識させた根本理由であろう。武者の罪業意識にはそう言う時代性が多分にある。

 しかし、殺人が武者の宿業であり、それを避けて通れないとすれば、彼ら自身にそういう罪意識に対抗しうる論理が必要となってこよう。私はそこで見出したのが、1つは悪業の洗濯ともいうべきものであり、2つには、逆に悪業を価値転換することであったと思う。

 第1の点については、『保元物語』のなかにある、この乱で伊豆大島に流された源為朝の次のような言葉が参考になろう。(中略)

 もとより右はこの物語の作者─具体的には明らかでない─が為朝に語らせたものであり、それは作者はもとより、当時における世間の為朝観なり武者観の繁栄であったといえると思うのだが、これによれば「殺業なくては叶わぬ」武士ならば、せめて「非分の者」は殺さないことが「武の道」であろう、だから自分はたびたびの合戦で多数の人命を奪ったが、「分の敵」を討って「非分の者」は討たなかった、というのである。もっとも為朝はそれでも悪業たることを免れなかったので、偏に懺悔し念仏したというわけだが、ここには武者の精神構造がもっとも端的に表明されている。

 この場合、何が「分」=道理で何が「非分」なのか、多くの場合は直接の利害関係に基づく主観的なものでしかなかったろうが、しかしそれでもここには悪の選択による罪業の縮小を図ろうとする意思がある。それは追い詰められた武者の論理という側面をもちながらも(おそらく世間はそういう意図であったとしても)、ともかく「分」=道理の殺人という形で自己を納得させ、殺人を合理化する原理を見出したことを意味し、したがってこの論理を槓桿にして「武士の道」はむしろ明るい展望を見出したともいえるのである。

 

P255 武の「七徳」

 殺人を分・非分に分ける論理の根底にはそれによる罪意識から自己解放があり、「武士の道」はそこにはじめてよりどころをつかんだともいえる。無自覚な殺人は宗教的な洗礼を受けることによって罪業意識に苛まれながらも、その中からかえって自覚的な武者の論理を見出したのである。

 しかしこのような意識の変革は、たんに個人的な次元での問題ではなかったように思う。むしろその背景には、平安末期における広汎な武士団─在地領主層の抬頭があり、それにともない、これまでの「兵ノ家」と称されたような特定武家の存在は希薄となり、彼らが独占していた武芸も拡散していった。その間の事情は、古代において知識と技術とを独占していた渡来人の立場が、日本人のレベルアップのなかで次第に低下し、その特質を失っていったのにも似ている。その結果、渡来氏族の後裔は、奈良末・平安初期には求めて倭姓の賜与を願いでたのであった。あるいはまた内の兵としての大伴氏が律令官制の中に埋没したように、武家の家筋はその残影を微かに留めながらも新興武士層にその座を明け渡したのである。この武士層の構造変化は武士の意識をも変えずにはおかなかったろう。

 それが先に指摘した第二の対応、すなわち個人的な罪業意識の集団的倫理への拡散と解消であり、武者の倫理の「負」から「正」への価値転換であったと考える。そのいい例が『古今著聞集』巻九(武勇)にいう「武の七徳」である。この巻の冒頭には他の巻と同様、以下に載せる説話群(仮名文)の緒言的な文章が漢文体で記されている。

  武者禁暴、戢兵、保大、安民、和衆、豊財、是武七徳也。臨征戦之場、去死於一寸、振瞿鑠之勇、貽名於万代、蓋此道也、

 武の七徳とは武の果たす七つの功徳効用の意である。本書から、『今昔物語』や『古事談』など初期の説話文学における主要なテーマであった殺人を業とする武勇の士の罪悪の物語が姿を消しているのも当然で、それは功徳がうたわれるところに武のもつ「負」価は存在しないからに他ならない。ここでは武は戦を止め暴力をおさえ民衆に平和と富をもたら右ものとされる。武の価値の完全な転換と言わねばならない。今や武は「悪」から「善」に変わったのである。

 それは特定権門の侍として殺人を請け負う罪深い存在であることから、武士政権の樹立により広く民衆の保護者となった(であるべき)武士階級への変化に対応する、支配者の意識の確立であった。つまり、武の七徳とは、武士が見出した自己の存在意義の表明に他ならない。

 

P256 揚名顕私

 武士政権の成立はその階級的倫理としての武の七徳を定立するに至ったが、しかしそれは彼らが外に向かっていう言葉であって、個々の武士に求められていたものは、先の引用文の後段、戦場に臨んで功名をあげ、名を万代に残すことであったと考える。「蓋し此の道也」とは、それが武士の道─武者の習というものだ、との意に他ならない。

 しかし、万葉の時代から、「名を立てる」ことが「もののふの道」であり、殺人で家名を伝えたのも王朝の武者たちであって、それはいま(鎌倉)にはじまるものではない。むしろ時代を超えて存在する武人、武者の生き甲斐の原点であったというべきである。

 しかしその一方で、中世の武士にはまた中世の生き方があったにちがいない。早い話、この間には武器や兵術の変化、ことに歩兵戦から騎馬戦への戦術の発展があった。戦の中で高(功)名にもそれに相応しい戦術が求められたことであろう。『平家物語』にも数多く載せるところだが、いわゆる先陣争い─先駆けの高名が騎馬戦においてとくに問題になったごときは、その一つである。

 しかし『平家物語』を読むにつけても思われるのが、源平両軍の間に繰り広げられた死闘のなかにも貫かれた戦の論理というか、武士の道の非情さ、すなわち高名の階級制ともいうべきものについてである。

 たとえば生田の森の戦で死んだ武蔵国の住人、河原太郎・次郎兄弟の場合(巻九「二度の駆けの事」)。敵中に突入する前に太郎は弟を呼んでこう言っている。

  大名は我手を下さねども、家人の高名を以て名誉とす。我等は自ら手を下さでは叶ひ難し。敵を前に置きながら、矢一つをだに射ずして待ち居たれば、あまりに心もとなき、高直(太郎)は城の中へまぎれ入つて、一矢射んと思ふなり。されば、千万が一つも、生きて帰らん事ありがたし。汝は、残り留つて、後の証人にたて。

 これに対して次郎は涙ながらにいう。兄弟二人だけなのに、どうして兄を見捨てることができようか。別々に討たれるより一緒に討死したい、と。そして下人たちを呼び寄せ、妻子のもとへ「最後の有様」を伝えてくれるように頼んだ上、兄弟二人で突入し討死している。ここでは兄弟の下人たちが「後の証人」とされているわけである。

 同様の話は巻九「樋口の斬られの事」にも出てくる。木曾義仲の部下、樋口次郎兼光の家来茅野太郎光広は、弟の七郎を置いて大勢の敵中に突入するときこう言っている。「この光広は信濃国に二人の子を残しているが、父の立派な最期を心配している。そこで弟の七郎の前で討死し、最期の様子を子どもにたしかに聞かせたいと思う」。そう言って敵中に駆け込み、武者の三、四騎を斬り落としたうえ、敵と刺し違えて死んでいる。ここでは弟が「後の証人」であった。

 彼ら武士が「後の証人」を用意した(しなければならなかった)のは、その最期を遺族に伝えるためというばかりではない。生死にかかわらず、後日その高名に似合う恩賞を主君から受けるために必要欠くべからざる確証づくりなのであった。武将が活線ごとに執筆(しゅひつ)(手書・右筆)に合戦日記を作成させたのもそれである。武者の高名は人に知られなければならないのである。

 そこから先陣争い─先駆けも、味方を背後に置くことが必要とされたわけだし(巻九「一、二の駆けの事」)、敵前で自分の名を大音声に名乗るのも、敵味方に自己の好意を確認させるためのものであったわけだ。あの名乗りは味方はもとより敵をも「後の証人」に仕立てるための手続きに他ならなかった。

 しかしこうした〝揚名顕私〟が武士の生き甲斐であったとしても、非情なのは、先に引用した河原太郎の言葉にもあるように、それは家人・部下のものであったということだ。大名はそうして生まれた部下の高名を以ておのれの名誉としたからである。そしてこれを証明する実話が、『吾妻鏡』にある。文治5年(1189)7月、頼朝が奥州平泉攻撃の途次、下野国古多橋駅の宿所で小山政光の接待を受けたときのこと、頼朝が政光の質問に答え、そばに祗候していた熊谷小次郎直家のことを、父子並んで命を棄てる覚悟で戦った本朝無双の勇士である、と紹介したのに対し、政光がこう言っている。「君のために命を棄てるのは勇士の誰しもが志すところです。どうして直家に限りましょうや。ただしそのような輩は、顧みるような郎従もいないから、自ら勲功を励まし、その号(高名)を揚げるわけです。この政光のごとき(大名)は、ただ郎従などを遣わして忠を抽ずるばかりです」。

 とすれば『平家物語』に描かれている武士の高名譚は、彼ら中小武士の宿命的な悲哀の物語であったということになろう。

 →忠義の尽し方や高名(功名)の揚げ方には、階層性がある。

 

 

 

P297 「中世社会と自殺─自殺と自殺的行為について─」(初出1971)

  平維盛の自殺

 治承・寿永の戦乱期、さまざまな形やさまざまな意味の生と死とがあった。

 互いに憎しみあわねばならぬ道理もない敵味方が、ただひたすら殺し合うのが戦だとしても、熊谷直実平敦盛を殺したように、我が子小次郎の姿を重ね合わせ躊躇しながらも余儀なく手を下した場合もあれば、平知盛のように、我が子知章が目前でしかも身代わりになって殺されるのをそれこそ見殺しにして生き延びた親もあった。その知盛が戦死したとの報を受け、生きる望みを失って死を選んだ小宰相局のような女性は少なくなかったろうが、他方では平時忠のように、かつて平家に非ずんば人に非ずといった豪語をよそに、壇ノ浦で一門が滅亡したのちは源義経に取り入り、ついに能登に流されることで一命を全うしたものもいた。我々はそうした生と死とをめぐって織りなされる人間模様を主として『平家物語』を通じて知るのであるが、虚実をこえて迫るものがあるのは、この物語が古代から中世への変動期における人間存在を的確に把握しているからであろう。逃げ延びた知盛が兄宗盛に、他人のことならどんなにか歯がゆく思うことだろうに、我が身のこととなると、よくよく命が惜しかったものと、今こそ思い知らされたと語った言葉には真実の響きがある。

 もっとも、『平家物語』に描かれているのは、戦争という一種の極限状況における人間の特殊な姿と言えなくもないが、むしろそれゆえにかえってその典型が表出されていると思われる。おのずから死、それもみずから求めた死=自殺においても、時代的色彩を帯びた事例をいくつか見出すことができよう。

 その一つの典型的な例が、私は平維盛の自殺であったと思う。

  (中略)倶利伽羅峠の戦い富士川の戦いで大敗。一門から次第に疎外。妻が鹿ヶ谷事件の首謀者藤原成親の娘。(中略)

 そして一門が一の谷に敗れて屋島にあるとき、ひそかに逃れて高野山に登り滝口入道について出家、その後那智を経て浜の宮の沖合に入水したと言われている。

 維盛が自殺した現実的動機は一門からの疎外感に襲われたことにあったろうが、集団からの離脱に留まらずあえて死を選ばしめた理由は、維盛の心を捉えた浄土信仰、西方浄土への思いといったものを無視することはできない。もとより孤立感がそうした思いに至らしめたのではあるが。彼の行為は、その西方に浄土を求めて入水する、いわゆる補陀落渡海であった。

 →南方の観音浄土である補陀落と、西方の阿弥陀浄土である極楽を混同してよいのか?ちなみに、補陀落渡海は死を賭した行動ではあるが、死ぬことで実現できる行動ではない。生きたまま到着するのが補陀落渡海ではないか(「自殺の中世史22」参照)。

 

 入水あるいは焼身により浄土での再生を願うという宗教的な自殺行為は、事が事だけに事例はそんなに多かったとは思えない。しかしそうした行為の思想的背景に平安中期より昂揚する浄土信仰のあったことはたしかであり、それが中世にかけて展開することを思えば、維盛の行為には時代的色調が濃厚に反映されており、この時期における自殺の一タイプを示していると言ってよいであろう。

 維盛の場合、一門つまり集団から離脱したとき(というよりおそらく京都を離れたとき)、すでに出家─入水という行為は、心中に予定されていたことであろう。妻子を伴わなかったのは、平家の命運を予測していたからというより、すでに自殺の決意を抱いていたからだと思う。そのように考えれば、おのれの属する集団から離脱することが、ときには自殺─自殺行為を意味する場合もあり得たことを物語っている。換言すれば出家・遁世もまた、その意味では一種の自殺的行為であり、それがまた中世的傾向を示すものであったとも言えよう。さきの熊谷直実も、のちに─その動機は今は問わないとしても─世を捨てている。俗人の出家遁世は(まやかしは別として)、自殺の外延に位置づけられる行為であった。

 →そこまで言えるか?

 

 ここで主題から少し外れるが、出家遁世に関連していわば山里観の変遷について触れておきたい。

 隠棲は家族をはじめとする集団、換言すれば人里を離れることにあり、したがって彼らはしばしば山里に移り住んだ。『古今集』944に、「やま里は物のわびしきことこそあれ、世のうきよりはすみよかりけり」とあるように、それは憂きことを逃れるための、人里離れた文字通りの山里であった。もっとも西行は、「世の中を捨てて捨てえぬ心地して都離れぬ我が身なりけり」(『山家集』)と詠じて、都を離れがたい感懐を表白しているが、それほどに山里は都=俗世間の対立概念であった。しかるにこれが戦国時代にまで下ると、たとえば永正年間(1504〜21 )、一公家(豊原統秋・すみあき)はおのれの屋敷の庭奥にある松の大木の下に山里庵をつくり、「山にても憂からむときの隠家や都のうちの松の下庵」と詠じている(『磧礫集』)。ここでは山里はもはや人里離れた山里ではない。都のなかの隠家であり、いうならば都のなかの山里である。かつての山里が現実生活から離脱するところにあったのに対して、ここでは現実生活のなかに山里が引き寄せられ、取り込まれているわけである。そこでこれを当時「市中の山居」と称し、その心は、ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』の言葉を借りれば、「これは、辻広場(プラサ)の中に見出される孤独の閑寂という意味であ」った。こうした傾向はすでに吉田兼好あたりにもうかがえたが、ここではまったく生活の美意識となっているわけで、いわゆる侘び茶はこういう山里の美意識の昂揚するなかで生まれたものに他ならない。それはまた、中世的な隠棲、隠者の歴史の終焉を意味している。そしてここにはもはや自殺(的行為)の土壌はない。

 

P300 武者の習と高名の論理

 中世の自殺ないしは自殺的行為を特質づけるものとしてはこのような宗教的な意味をもつものとともに、武士社会の発展のなかで見られたそれを見落とすことはできない。なぜなら武士社会に生まれた主従意識の昂揚、それを基調とする武士の実践倫理ともいうべき「もののふの道」「武者の習」は、つねに死と隣り合わせであったから。「武士道とは死ぬことと見つけたり」とは近世武士道の書『葉隠』の言である。

 ところで『平家物語』を通じて知られる「武者の習」に関しては、少なくとも次の2点が留意されると思う。

 すなわちその一は武者の習における地域性であり、その二は同じく階級性である。

 第一の地域性とは、東国と西国とでは武者の習が対蹠的であったことで、その認識は遅くとも鎌倉初期には一般化していたようだ。たとえば富士川の合戦の前、平維盛に聞かれて斎藤実盛が東国武士について語ったという次の言葉にもそのことはうかがえよう。

  軍は又親も討たれよ、子も討たれよ、死ぬれば乗越々々戦ふ候。西国の軍と申は、親討たれ塗れば孝養し、忌明けて寄せ、子討たれぬれば、其思ひ嘆きに寄候はず。兵粮米尽きぬれば、春は田作り、秋は刈り取りて寄せ、夏は熱しと云ひ、冬は寒しと嫌ひ候。東国にては惣て其儀候はず。

 武士団の根幹をなす惣領制的な関係が主として東国社会を土壌として発展したことによるのであるが、しかしこの問題については当面これ以上深入りすることは避けたい。むしろ問題にしたいのは第二の階級性についてである。

 『平家物語』巻九「二度之懸」には、生田の森の戦いで戦死した武蔵国の住人、河原太郎・次郎兄弟の話がある。太郎は平家の陣中に突入するにあたり、弟の次郎を読んでこういう。

  大名はわれと(みずから)手をおろさね共、家人の高名をもて名誉す。われらはみずから手をおろずはかなひがたし。・・・高直(太郎)は城の中へ紛れ入て、一矢射んと思ふなり。されば千万が一も生て帰らん事有がたし。わ殿は残り留て、後の証人にたて。

 これに対して次郎は涙をはらはらと流し、

  口惜い事を宣ふ者哉、唯兄弟二人有る者が兄を討たせて、弟が一人残り留またらば、幾程の栄花をか保つべき。所々で討たれんよりも、一所でこそ如何にも成らめ。

 と答え、下人どもに最後の有様を妻子のもとへ知らせ、馬にも乗らず敵陣へ突入、大音声で先陣の名乗りをあげて奮戦し討ち死を遂げている。そこでこれを見た下人たちは、「河原殿兄弟、唯今城の内へ真先懸て討たれ給ひぬるぞや」と叫んでいる。下人たちが「後の証人」となっているのである。

 この河原兄弟の戦いぶりのなかに、武士、それも大名ではない中小武士の高名手柄というもののあり方が如実に示されている。(中略)小山政光の話が続く(中略)

 大名は家来の手柄をもって自分の高名とするが、中小武士はみずから高名をあげる以外にはない─その論理が大名の側にも中小武士の側にも貫徹していたとすれば、『平家物語』に描かれた武士の高名話には、彼ら中小武士の宿命的な悲哀が込められていると言わねばならない。そしてそのために中小武士は、河原兄弟のように、自らの戦いぶりを確認させるための「後の証人」「いくさの証人」を用意しておかねばならなかったのである。

 だから先駆けの高名をあげるにもそれなりの条件があった。

 たとえば、その熊谷直実父子は、一の谷の合戦において、平山武者所季重と先陣争いをしたが、季重が直実に先を越されたのは、やはり季重と先を争った成田五郎に、

  痛う平山殿、先懸早りなし給ひそ。先きをかくると云は、御方の勢を後に置て、かけたればこそ、高名不覚も人に知るれ。唯一騎大勢の中にかけ入て討れたらんは、何の詮かあらんずるぞ。

 と言われてもっともと思い馬をとめたからであるという。前駆の駆け引きに一杯食わされたわけであるが、ここでも主君の詮議(論功行賞)に預かるために、味方を背後に控え第三者の目で自分の手柄を確認させることが必要で、さもなければ高名も犬死に等しいと考えられていた事情が知られる。

 これが、武者の習の核心をなす高名の論理である。そして先駆けの高名こそ武者の習の極致であり、だからそこにはしばしば「死」があった。

 この死は「自殺」ではない。しかし、高名のために「千万が一」の生を諦め自ら求めた死であるなら、それは自殺的行為と言って間違いなではないだろう。武士は高名という生きがいのために死をも辞さなかった。その意味では、武士道とは死ぬことと見つけたり、という『葉隠』の言は、そのまま中世の「もののふの道」にも当てはまる定義づけであったといえよう。

 →問題は、なぜ高名のために死ねるのか、という点。高名を残しても死んでしまったら意味がないように思うが、そうではない何かがあるのか?また、「自殺」と「自殺的行為」という区分をしたことで、何が明らかになるのか明確ではない。

 

P303 滅私奉公と揚名顕私

 しかしここでもう一度斎藤実盛の言った、東国武士に典型的に見られた「武者の習」の定義づけを想起しよう。そこには、親が死んでも子が討たれても、その屍を乗り越え攻めるのが坂東武者の習であると述べられている。

 そのことと証人を用意しての高名争いとに矛盾はないのだろうか。彼らは「うちこみいくさ」すなわち大勢で一緒に打ちかかる戦を好まなかった(一二懸)。それは、こみ戦だと自分の働きがうやむやになってしまうからである。彼らが主君のために戦うとは、実は自らの高名のためなのであった。いかにその詮議にあい恩賞にありつくか、ということなのである。

 こうして中世武士に特有な行動様式と精神構造とができあがった。

 合戦に臨んでは味方に「いくさの証人」を用意する、そして敵に向かって大音声でおのれの名を叫ぶ。やあやあわれこそはどこどこの住人、なんのなにがしなり、遠からんものは音にも聞け、近くば寄って目にも見よ、という「名のり」である。この名のりは武士にとって晴れがましい最大の見せ場であったろうが、しかし考えてみると敵方に対しても「証人」を求めた行為に他ならない。ともあれこうして彼は、「名のり」と「証人」とによって、いまや衆人環視のなかに死の舞台を用意することができたのである。

 このような「名のり」と「証人」とから帰納される武者の習は、まさに揚名顕私の道であろう。これ以上の自己顕示はない。

 古代にあっては名は秘すべきものであり、名を名のるのはいわば服従の証であった。それが武士の世界では名のりは自己顕示の手段となっている。たしかに武士が主従関係を結ぶにあたっては、臣従の証(あかし)として主君に「名簿(みょうぶ)」を捧げている。その限りでは古代の精神と変わりはないかのようである。

 しかしこの名簿奉呈ということに関しては、かつて十一世紀半ばころ越前の東大寺領石井庄において見られた事例が参考になろう。すなわち当庄ではその開発にあたり隣郷より古志得延という人物がやってきて庄司兼算に名簿を捧げて田堵となり、浪人多数を使役して荒田二十余町を開いたという事実がある。この場合の名簿奉呈は開墾の請負のためであり、それによって生じた両者の関係は契約的要素が濃厚で、支配─隷属の関係は希薄であったと思われる。その証拠には、その後、得延は庄司の命に従わないことがたびたびであった。ともあれ、こうして得延が開発した土地は、その名をつけて得延名とで呼ばれたことであろう。

 もとより得延名は得延の私領ではない。しかしこのように請作地でも田堵・作人の名を付して××名というふうに呼び、その人物の用益権を明示したのである。それによって田堵・作人は、当該地に対数する一定の義務(地子弁進)を負わされる反面、微弱ながらもなにがしかの権利を与えられるわけである。そしてその権利は世代を重ねる過程で次第に強められ、やがては自由に売買処分しうる私領名田となる。こうした傾向は墾田開発の進行した十一世紀以降に著しいが、その結果各地に私領主が現れてくる。古代末期から中世にかけて活躍する武士がまさにその私領主に他ならない。だから彼らにはおのおの「名字の地」があった。合戦の場でどこそこの住人と呼んだあの「名のり」の名はすなわちその名字なのである。

 このように見てくると、元来服属の証であった名と名のりは、土地と結びつくことによって権利を明示し、自己を顕示する手段となっていった事情が伺われると思う。そして武士とは文字通りそういう土壌に発生し成長したものに他ならない。名のりは武士と不可分であり、その体質そのものであったわけだ。そして「名のり」は「証人」を得てはじめて存在しうる行為であった。

 私は武者の習における自殺のことを述べるのに、どうやらその舞台めぐりのほうに気を取られすぎたようである。しかし中世武士の精神構造を単純な〝滅私奉公〟で論ずることは許されない。戦が終われば「軍忠状」といって自己の功績を書き上げた文書を提出し、それにふさわしい恩賞を要求する。そこに見られる主従関係は、後世の儒学思想に潤色された没論理的なそれではけっしてない。〝揚名顕私〟がむしろ本来的で健全な主従関係であったというべきである。

 しかし滅私奉公と揚名顕私とがけっして矛盾するものでなかったところに、中世的な武者の習の本質があったこともたしかである。それは「高名」と「死」が常に背中合わせであったからにちがいない。そこに武者の習につきまとう悲壮さの根源もあった。このように見てくれば「名のり」と「証人」による〝舞台〟設定は、〝死〟の演出のためには最小限必要不可欠な道具立てであったことも理解されよう。死の美学はつねに自虐の演技のなかにあったからである。

 それにしても、こうした中世の死─自殺(的行為)の精神構造を検討するとき、自分自身を客観的にある種の状況に追い込んだうえではじめて行動を決定するという、今日でも日本人にも認められる精神構造と行動様式とが、実は中世に形づくられたものであることが思われてくる。

 中世を通じてさまざまな「自殺」があったにちがいないが、ここでは時代的色調を帯びる二つのタイプについて述べてみた。