五四 毛利輝元定書写
一依三良融為二西方之首職一、与二宥文一有二雲泥一之由雖レ募二其旨一、前住祐聖
対二宥文一譲状明鏡上者、可レ為二楽音寺本願兼東方之首務一事勿論候、向後両門
之僧侶結二徒党一、不レ可レ企二私之申分一候事、
一楽音寺領之事、任二先例之旨一令三寄二附之一候訖、向後両門之僧侶、為二水魚之
交一、叨外法之諍論不レ可レ企レ之、若於二此旨違背之輩一、早速可レ令三改二易
之一事、
一修法者護国利民之基也、朝暮無二懈怠一勤行、専二四海安寧一之旨、丹誠可レ有レ
之事、
一紫衣者殊以規模之服也、無二 勅許一而叨着用之事、堅制禁事、
一伽藍所之修理者以二免内一可レ営レ之事、
一諸修理者爰本願之差図、年行事可レ為レ執事、
但修理并二季掃除等之節者、領内人足可レ被三召二仕之一、人足着到者、従二
双方一出二目附一、宥文方着到者従二良融方一取レ之、良融方着到者従二宥文
方一可レ取レ之、
(景宗)
右之條々堅可レ被レ守二此旨一、猶委細者令二梨羽壱岐守申進一候也、
(1600)
慶長五年 毛中納言
庚子五月 輝元
楽音寺本願殿
「書き下し文」
一つ、良融西方の首職たるにより、宥文と雲泥有るの由其の旨を募ると雖も、前住祐聖の宥文に対する譲状明鏡の上は、楽音寺本願兼東方の首務たるべき事勿論に候ふ、向後両門の僧侶徒党を結び、私の申し分を企つべからず候ふ事、
一つ、楽音寺領の事、先例の旨に任せ之を寄附せしめ候ひ訖んぬ、向後両門の僧侶、水魚の交はりを為し、みだりに外法の諍論之を企つベからず、若し此の旨に違背の輩に於いて、早速之を改易せしむべき事、
一つ、修法は護国利民の基なり、朝暮懈怠無く勤行し、四海安寧を専らにするの旨、丹誠に之有るべき事、
一つ、紫衣は殊に以て規模の服なり、勅許無くしてみだりに着用するの事、堅く制禁する事、
一つ、伽藍所の修理は免内を以て之を営むべき事、
一つ、諸修理は爰に本願の差図、年行事執り為すべき事、
但し、修理并びに二季掃除等の節は、領内の人足之を召し仕はるべし、人足着到は、双方より目附を出だし、宥文方の着到は良融方より之を取り、良融方の着到は宥文より之を取るべし、
右の條々堅く此の旨を守らるべし、猶ほ委細は梨羽壱岐守に申し進らせしめ候ふなり、
「解釈」
一つ、良融は西方の首職であるから、宥文と大きな差があると激しく主張するのだが、前住職の祐聖が認めた宥文に対する譲状に明らかなうえは、宥文が楽音寺本願と東方の首務であることは、言うまでもないことであります。今後は両門の僧侶たちは徒党を組んで、不法な主張をすることを企んではならないこと。
一つ、楽音寺領のこと。先例の内容のとおりに、土地を寄付させました。今後、両門の僧侶たちは親密に交流し、気ままに仏教以外の教えの論争を企んではならない。もしこの取り決めに背くものがいたら、すぐに供僧職を没収しなければならないこと。
一つ、修法は護国利民の土台である。いつも怠けることなく勤行し、天下安寧の祈祷に専念することを、心を込めて行なわなければならないこと。
一つ、紫衣はとりわけ名誉ある僧衣である。勅許なく勝手に着用することを、厳密に禁止すること。
一つ、伽藍の修理は免田の収益内で行なわなければならないこと。
一つ、さまざまな修理は、本願の指図によって、年行事が執り行わなければならないこと。
ただし、修理や二季掃除などのときは、寺領内の人足を召し使ってもよい。人足の出仕は、東方・西方の両方から目付(監察役)を出し、宥文方の出仕者は良融方が数え、良融方の出仕者は宥文方が数えるのがよい。
右の条文については、厳密にその趣旨を守らなければならない。なお詳細は、梨羽壱岐守に申し上げさせます。
*二条目の寄付内容は、五三号文書を参照。
「注釈」
「西方之首職」
─『安芸国楽音寺』(広島県立歴史博物館、1996)によると、楽音寺の寺務を司る院主職は、楽音寺建立以来、法持院と中台院の両門主が交代で務めていたのですが、天正年間(1573〜92)に中台院が三原城下に移って以降は、法持院が単独で寺務に当たることになったそうです。したがって、慶長五年(1600)に作成されたこの文書に現れる「西方・東方」や「首職・首務」とは、法持院内の集団区分や役職を表した文言になると考えられます。おそらく、法持院の寺僧組織は「東方・西方」に分かれ、それぞれの集団を統括したのが「首職・首務」という役職だったと考えられます。
「両門之僧侶」
─楽音寺院主職を務めた中台院と法持院のことを指す可能性もありますが、おそらく法持院内の東方と西方を指すと考えられます。