周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自殺の中世史44 ─中世の説話10(魂と肉体の二元論)─

 「飛騨国猿神止生贄語第八」『今昔物語集』巻二十六

       (『日本古典文学全集』23、小学館、1974、552〜554頁)

 

 「原文」

 今昔、仏ノ道ヲ行ヒ行僧有ケリ。何クトモ無ヒ行ケル程ニ、飛騨国マデ行ニケリ。

 而ル間、山深ク入テ、道ニ迷ニケレバ、可出ヅ方モ不思エケルニ、道ト思シクテ、木ノ葉ノ散積タリケルウエヲ分行ケルニ、道ノ末モ無テ、大ナル滝ノ簾ヲ懸タル様ニ、高ク広クテ落タル所ニ行着ヌ。返ラントスレ共、道モ不覚、行ムトスレバ、手ヲ立タル様ナル巌ノ岸ノ一二百丈許ニテ、可掻登様モ無レバ、「只仏助ケ給ヘ」ト念ジテ居タル程ニ、後ロニ人ノ足音シケレバ、見返テ見ニ、物荷タル男ノ笠着タル歩テ来レバ、「人来ルニコソ有ケレ」ト喜ク思テ、「道ノ行方問ム」ト思フ程ニ、此男僧ヲ極ク怪気ニ思タリ。僧此ノ男ニ歩ビ向テ、「何コヨリ、何デ御スル人ゾ。此道ハ何コニ出タルゾ」ト問ヘ共、答フル事モ無テ、此滝ノ方ニ歩ビ向テ、滝ノ中ニ踊リ入テ失ヌレバ、僧、「此ハ人ニハ非デ、鬼ニコソ有ケレ」ト思テ、弥ヨ怖シク成ヌ。「我ハ今ハ何ニモ免レム事難シ。然レバ、此鬼ニ不被湌前ニ、彼ガ踊リ入タル様ニ此滝ニ踊リ入テ身ヲ投テ死ナン。後ニハ鬼咋トモ非可苦カル」ト思得、歩ビ寄テ、「仏、後生ヲ助ケ給ヘ」ト念ジテ、彼ガ踊リ入ツル様ニ、滝ノ中ニ踊リ入タレバ、面ニ水ヲ灑ク様ニテ、滝ヲ通ヌ。「今ハ水ニ溺レテ死ヌラン」ト思フニ、尚移シ心ノ有レバ、立返テ見レバ滝ハ只一重ニテ、早ウ簾ヲ懸タル様ニテ有也ケリ。滝ヨリ内ニ道ノ有ケルマヽニ行ケレバ、山ノ下ヲ通テ、細キ道有、其ヲ通リ畢ヌレバ、彼方ニ大キナル人郷有テ、人ノ家多ク見ユ。(後略)

 

*原文は「やたナビTEXT」でも見ることができます(https://yatanavi.org/text/k_konjaku/k_konjaku26-8)。

 

 

 「解釈」

 今は昔、仏道修行して歩く僧がおった。所定めず行脚しているうち、飛騨国まで行った。

 ところが、山深くはいり込み、道に迷って人里に出られなくなり、道と思しき木の葉の散り積もった上を分け入っていると、いつしか道がとだえ、大きな滝が簾を掛けたように幅広く高所から落ちている所に行き当たった。引き返そうにも道もわからない。進もうにも、手を立てたような断崖が百丈も二百丈も聳えていて、よじ登る術もないので、ただ、仏様どうぞお助けくださいと念じていると、後ろの方で人の足音がした。振り返って見ると、荷を背負い、笠をかぶった男が歩いて来たので、人がやってきたとうれしくなって、道をきこうと思っていると、この男の方でも僧を見て、ひどくいぶかしげな顔をした。僧はこの男の方に歩み寄り、「あなたはどこからどのようにしておいでになったのですか。この道はどこに出るのですか」ときいたが、それには答えようともせず、この滝の方に歩いて行き、滝の中に踊り入って見えなくなった。僧は、「さてはあれは人間ではなく鬼だったのだ」と思うと、いっそう恐ろしくなった。「わしはもはや無事でいられそうもない。だから、この鬼に食われぬさきに、彼が踊り入ったようにこの滝に飛び込み、身を投げて死のう。そのあとでは鬼に食われてもかまいはしない」と観念し、滝のそばに歩み寄り、「仏様、わたくしの後生をお助けください」と祈念して、彼と同じように、滝の中に踊り入ったところ、顔に水を注ぎ掛けられたような具合で、滝を通り抜けた。もう水に溺れて死ぬだろうと思っていたのに、なお正気があったので、振り返って見ると、滝はただ一重掛かっているだけで、まったく簾を掛けたようになっているのだった。滝の向こうに道があったので、それを歩いて行くと、山の下を通り細い道がある。それが行き着くと、向こうに大きな人里があり、多くの人家が見えた。(後略)

 

 

 「注釈」

 今回の記事は、『今昔物語集』(仏教説話集)に収載された逸話の一部分ですし、主人公は僧侶ですので、仏教的な価値観が強く現れていることは疑いないでしょう。したがって、これから導き出そうとする観念は、中世に存在した1つの考え方にすぎないものであることをお断りしておきます。また、この主人公は幸いなことに死には至らず、生きたまま異界に紛れ込んでしまうので、この記事を自殺事例とするのはやや憚られるのですが、死ぬために滝に飛び込んでいるので、自殺未遂事例として取り扱ってもよいと判断しました。

 

 さて、長々と史料を引用しましたが、この中で問題にしたいのは、「『我ハ今ハ何ニモ免レム事難シ。然レバ、此鬼ニ不被湌前ニ、彼ガ踊リ入タル様ニ此滝ニ踊リ入テ身ヲ投テ死ナン。後ニハ鬼咋トモ非可苦カル』ト思得、歩ビ寄テ、『仏、後生ヲ助ケ給ヘ』ト念ジテ、彼ガ踊リ入ツル様ニ、滝ノ中ニ踊リ入タレバ、面ニ水ヲ灑ク様ニテ、滝ヲ通ヌ。」の部分です。

 主人公の僧侶は山中に迷い込み、途方に暮れていたところ、不思議な男に出会います。僧侶はこの男に話しかけたのですが、彼は答えようともせず、なんと滝の中に飛び込んでしまうのです。この様子を見た僧侶は、その男を鬼にちがいないと思い、食われてしまうことを恐れて、滝に身投げすることを決意するのです。そのときの心理描写が、前述の部分になります。

 解釈を示せば、以下の通り。「『わしはもはや無事でいられそうもない。だから、この鬼に食われぬさきに、彼が踊り入ったようにこの滝に飛び込み、身を投げて死のう。そのあとでは鬼に食われてもかまいはしない』と観念し、滝のそばに歩み寄り、『仏様、わたくしの後生をお助けください』と祈念して、彼と同じように、滝の中に踊り入ったところ、顔に水を注ぎ掛けられたような具合で、滝を通り抜けた。」

 

 ここから、次のことが判明します。①主人公の僧侶は、鬼に食い殺されること、つまり、生きながら肉体を食われることを恐れているのであって、死ぬこと自体を恐れているのではない。②死後、肉体が鬼に食われてもかまわないということは、霊魂と肉体は別だと考えている。③生き延びることではなく、来世の往生を願っていることからも、魂の安穏を願いこそすれ、強く肉体に執着することはない。こうした考え方は、魂の永続性を念頭に置いた思考であるとともに、現世で生き続けること、つまり命に対するこだわりの薄さを示しているとも言える。

 

 以上の点を踏まえ、まず自殺の動機をまとめみましょう。主人公は不思議な男(鬼)に出会ったことで、彼に食い殺されるのではないかという恐怖を覚えました。つまり、鬼に食い殺されるという予期が自殺の原因動機だったと考えられます。そして、意識のある状態で鬼に食い殺されるという恐怖や苦痛を味わうぐらいなら、滝に身投げをして自殺した方がましだと考えたのでしょう。当たり前のことを言うようですが、中世びとも、同じ死ぬなら、より恐怖や苦痛の少ない方を選ぼうとする傾向にあったことがわかります。こうした恐怖や苦痛からの逃避が、この自殺の目的動機だったと考えられます。

 

 ところで、今回の事例ではっきりと浮かび上がってきたのが、「肉体に対する執着心の薄さ」です。これはとりもなおさず、「現世に対する執着心の薄さ」を意味するのではないでしょうか。論理の飛躍と言われればそうなのかもしれませんが、肉体にこだわらないのは魂の永遠性や来世を信じているからでしょうし、魂の安穏や浄土往生だけを求めるのならば、現世や命、ましてや肉体に執着する必要はないでしょう。

 ただし、注意しておかなければならないのは、この主人公、常々死にたいと思っていたわけではなく、鬼に食い殺されるかもしれないという特殊な状況のもとで、「現世に対する執着心」が弱まっているだけなのです。まちがっても、この僧侶が命を軽く見ているなどと判断してはなりません。自身の死が予期されたことによって、現世や命に対する執着心が途端に薄くなってしまったようです。現代人の場合でいえば、不治の病に罹り、余命幾ばくもないことが判明したときに、自殺を企てるようなものでしょうか。

 今回の主人公(僧侶)のように、中世びとのなかには往生思想を前提に、「恐怖や苦痛を伴った死からの逃避」を目的に自殺する人間もいれば、高名を揚げるために死を前提に戦ったり、不名誉や恥を雪ぐために自害したりする武士のように、最後の最後まで現世に執着しながら死を迎える人間もいます。中世では、どちらの人間が普遍的で、どちらの人間が特殊だったのでしょうか。そもそも、こういう二択的な問いの立て方が間違えているのかもしれませんね。